ep63 その手から零れ落ちたもの
「……ジル」
エメラが顔を上げる。
「ん?」
セリアとの言い合いを止め、ジルが振り返った。
「一つ聞きたいんだけど――」
「ぅ……」
その時。
小さな呻き声が、エメラの言葉を遮った。
「……?」
全員の視線が向く、そこにはミナが胸元を押さえ、身体を丸めていた。
「ミナさん?」
「う……ぁ……」
呼吸が急激に荒くなる。先ほどまで落ち着いていた身体が、小刻みに震え始めた。
エメラがすぐに駆け寄ろうとする。
「待て、エメラ!近づくな!!」
ジルの声が飛んだ。先ほどまでセリアと言い合っていた時とはまるで違い、その表情はとても険しい。
「マナが増えてる」
「……え?」
エメラも意識を集中させる、直後、背筋に冷たいものが走った。
「何だ……これ」
ミナから感じるマナが、急激に膨れ上がっている。それは先ほど戦った時とは比べものにならないほどに。
しかも――止まることがなく膨れ上がっていく。
「ぁ……あああ……!」
ミナが床へ膝をついた。
ビキッ――。
硬質化していた皮膚がさらに広がる。残されていた人間の肌が、少しずつ異質な外殻に呑み込まれていく。
背中の羽も激しく震え、その形をさらに大きく変えていった。
「また……変異が……」
エメラの声が震えた。
「ミナさん!」
呼びかける。
一瞬だけ、ミナが顔を上げた。
「……た……す……」
僅かに唇が動く。
「!」
エメラが踏み出した。
「ミナさん!」
だが、その声は最後まで言葉にならなかった。
「ギィィィィィッ!」
絶叫が地下室に響き渡る。膨れ上がったマナが一気に放たれ、突風のような圧力が周囲へ広がった。
「きゃっ!」
セリアが腕で顔を庇う、兵士たちも思わず後退した。
「全員下がれ!」
ジルが叫ぶ。
「コスチも連れて行け! ここにいたら巻き込まれる!」
「っ……!分かったわ!!」
セリアが兵士たちへ指示を飛ばす。
その間にも、ミナの変異は続いていた。
そして何より――マナが増え続けている。
「嘘だろ……」
エメラは動けなかった。でも分かる、もう、彼女と会話することが不可能であると、彼女の命をーー救えないことーーーー。
「ギ……ィ……」
異形の瞳がゆっくりと周囲を見渡す。そこに先ほどまでの理性は見えない。
「ミナさん……」
返事はなかった。次の瞬間、ミナの身体が深く沈み込む。
「来るぞ!」
ジルが叫んだ。
バンッ――!
床が砕ける。ミナの姿が掻き消えた。
「っ!」
次の瞬間には、ジルの目前で巨大な爪が振り下ろされる。
ジルが両腕を交差させて受け止めた。
ドゴォンッ!
「ぐっ……!」
衝撃が地下室を揺らす。ジルの足元から石床へ亀裂が走った。
「ジル!」
エメラが目を見開く。
先ほどまでミナの攻撃を軽々と受け流していたジルが――押されている。
「……まずいな」
ジルの顔から、僅かに余裕が消えた。
「こいつ……さっきとは別物だぞ」
「ギィィィィッ!」
ミナがさらに腕へ力を込める。
ジルの足が石床を滑った。
「くっ……!」
強引に腕を振り払い、ミナを横へ弾き飛ばが、ミナは壁へ激突する寸前に羽を広げた。
空中で身体を反転させ、そのまま再びジルへ襲いかかる。
「速っ――」
ドンッ!
ジルが咄嗟に受け止める、今度は身体ごと後方へ押し込まれた。
「ジル!」
「来るな!今のお前の手には負えない!!」
エメラを制しながら、ジルはミナの爪を掴む。
ミシッ、と腕から嫌な音がした。
「……まだ増えてやがる」
ジルの視線が鋭くなる。
ミナから溢れるマナは収まるどころか、一瞬ごとに膨れ上がっていた。
それはまるで、破裂する寸前の風船のように、あきらかに許容量を超えようとしている。
もう、人だった頃の面影はほとんどなく、部位が変化しては崩壊し始めていっている。
「ギィィィッ!」
ミナがジルを振り払う。
ジルは宙を舞い、床へ着地した。
すぐに立ち上がったものの、その顔にはもう笑みがない。
「エメラ」
「……何だ」
「もう無理だ、このままじゃ取り返しがつかないことになる」
「……」
エメラの表情が強張る。
「まだミナさんは――」
「分かってる!人としての意識が残ってるのも分かってる」
ジルが珍しく声を荒らげた。
「なら――」
「だからこそだ!」
ジルはミナから目を離さない。
「このまま変異が進めば、その意識すら残らなくなる」
「……!」
エメラがミナを見る。
「ギ……ィ……」
呻きながら頭を抱えている。もう先ほどより遥かに異形のものへ近づいていた。
人間として残されている時間そのものが削られている。
そんなふうに見えた。
「この子はさっき、自分で言っただろ」
ジルが静かに続ける。
「誰かを殺す前に殺してくれって」
「……ジルの知識では、この子をもとに戻すことはできないのか?」
「……無い、今は知らない。だからこそ」
「もう死なせてやらないといけない」
エメラは何も答えられなかった、杖を握る手が震える。
分かっている、分かりたくなかっただけだ。
「……俺は」
声が掠れる。
「俺は、この人を助けるって言ったんだぞ……」
ジルは何も返さなかった。その言葉を否定も肯定もせずに、ただミナを見ている。
「ギィィィィッ!」
再びミナが襲いかかった。
「っ!」
ジルが正面から受け止める、今度は石床が大きく陥没した。
「ぐ……!」
エメラは息を呑む。
ジルが押されている。
明らかにさっきまでとは違う。
「エメラ!決めろ!俺か、お前か!!」
ジルが叫ぶ。
「決めろ!」
「……」
――私を、殺してください。
「……ごめんなさい」
小さく呟いた。
杖を握る手の震えが、ゆっくりと止まる。
「エメラ?」
ダンテが見上げる。
エメラは一度だけ目を閉じた。
「ジル」
「何だ」
「少しだけ……止めててくれ」
ジルがエメラの顔を見る。
その表情だけで、何をするつもりなのか察した。
「……分かった」
ジルがミナの腕を掴み、全身へマナを巡らせる。
エメラが杖を構えた、翠色のマナが静かに溢れ出す。
怒りもない、殺意もない。
ただ、終わらせるためではなく。
苦しみから解き放つために、この術を選ぶ。
「生まれしものは土へ還り、散りしものは森へ還る――」
「ギィィィィッ!」
ミナが激しく暴れる。
「くっ!」
ジルの身体が揺れる。
「続けろ!」
「木々よ、その魂を抱き――」
床の隙間から、細い蔓が芽吹き始める。
柔らかな翠色の光が部屋を満たしていく。
「ギィィィッ!」
ミナが大きく羽を広げた。
「まずい!」
ジルの手が弾かれる。
ミナが一直線にエメラへ向かった。
「エメラ!危ない!!」
ダンテが叫ぶ。
見えていた、避けることはできる。詠唱を止めて回避すれば間に合う。
だが――エメラは動かなかった。
「静寂の果てへ――」
次の瞬間。
ドスッ――。
「――っ!」
衝撃が身体を貫いた。ミナの硬質化した腕が、エメラの腹部を突き抜けている。
「エメラァ!」
「が……っ……!」
口から血が零れる、視界が激しく揺れ足から力が抜ける。
それでも。
杖だけは離さなかった。
「ギ……?」
目の前にミナの顔がある、異形へ変わった瞳。
そしてその奥にほんの一瞬だけ、あの女性の面影が見えた気がした。
「……大丈夫……です」
エメラは苦痛に顔を歪めながら、それでも微かに笑った。
「もう……苦しまなくていい……」
息を吸うと激痛が走る。それでも最後まで言葉を繋ぐ。
「導け――」
翠色の光が一気に膨れ上がった。
「常世の揺り籠」
その瞬間。
地下室から、すべての音が消えたように感じられた。
床から伸びた無数の蔓が、ミナの身体を優しく包み込んでいく。
拘束するためではない。
締め付けるためでもない。
まるで、眠りにつく者を抱きしめるように。
「……ギ……」
ミナの身体から力が抜ける。
エメラの腹部から腕が抜けた。
「ぐっ……!」
エメラが膝をつく。
腹部から血が溢れ出す、それでも術は解かなかった。
蔓の間から小さな葉が芽吹き、淡い花が次々と開いていく。
異形となった身体を、少しずつ覆っていく。
「……」
ミナの瞼がゆっくりと閉じた、荒かった呼吸が穏やかになる。苦痛に歪んでいた顔から力が抜けていった。
まるで――。
本当に眠っただけのようだった。
「……ごめんなさい」
エメラの声が震える。
「助けるって……言ったのに……」
返事はない。
「俺には……これしか……」
声が詰まる。
「……できなかった……」
やがて。
ミナの呼吸が、静かに止まった。
「……」
エメラは動かなかった。
翠色の花に包まれたミナを、ただ見つめ続ける。
これでほんとによかったのか、助けられることが出来たんじゃないか、そんな考えばかりが溢れてくる。
けれど。
もう確かめることすらできない。
「……エメラ」
ダンテの声が聞こえた。近くにいるのにとても遠くから聞こえてくるようだ。
「おい、エメラ!」
杖が手から滑り落ちた。
カラン――。
乾いた音が響く。
そこでようやく、腹部から流れ続ける血に気づいた。
「あ……」
身体が傾く。
「エメラ!」
ダンテが駆け寄る、ジルも何か叫んでいる。
セリアたちがこちらへ走ってくるのが見えた。
だが、もう声は聞き取れなかった。
視界が暗く沈んでいく。
最後に見えたのは。
翠色の花に抱かれ、安らかに眠るミナの姿だった。




