ep60 届かぬ力
次の瞬間――その全身から溢れ出すマナが、一気に膨れ上がった。
今の自分が全力でマナを引き出したとしても、目の前のジルには遠く及ばない。
それほどの力を見せていながら、ジルの表情には力んだ様子すらなかった。
「ギィィィィッ!」
ミナが先に動いた。
四枚の羽が激しく打ち鳴らされ、一瞬でジルとの距離を詰める。右腕が振り上げられ、硬質化した爪が顔面を狙う。
ブオンッ――!
しかし、爪は空を切った。
「……!」
エメラが目を見開く。ジルは半歩、身体を横へずらしただけだった。
続けざまに二撃、三撃。
「ギィッ!」
爪が左右から襲いかかる。
だが、当たらない。
ジルは首を傾け、身体を捻り、僅かに足を動かすだけで全ての攻撃をかわしていく。
「何だよ、あれ……」
ダンテが呟く。
先ほどまでエメラが目で追うことすら難しかった速度だ。
それをジルは、まるで次にどこへ爪が来るのか最初から分かっているかのように避けていた。
「ギィィッ!」
苛立ったようにミナが羽を大きく広げ体当たりを試みる。爆発的な加速で正面から身体ごと突っ込んでくる。
ジルは避けなかった。
「おっと」
ドンッ!
激しい衝突音と共にミナの身体が真正面からぶつかる。
だが――。
動いたのはジルではなかった、逆にミナの身体が弾かれてしまう。
「ギッ!?」
エメラが思わず声を漏らす。
「嘘だろ……」
ジルは術を使っていない。
全身を覆う膨大なマナ、それを肉体へ巡らせ、身体能力そのものを引き上げているだけだ。
それだけで、ミナの突進を真正面から受け止めた。
「随分と力はあるみたいだけど、まだまだ使い方が雑だな」
ジルが軽く肩を回す。
「ギィィィィッ!」
再びミナが飛び込み爪を振り下ろす。
ジルはそれを片腕で受け止めた。
「なっ……」
エメラは己の腕を見る。自分は杖越しに受けただけで、腕が痺れるほどの衝撃を受けた。
それをジルは、身体強化だけで受け止めている。
マナの流れを感じれば分かる、ジルは全力ではない。ミナを傷つけないよう、明らかに力を抑えている。
「ほら」
ジルが掴んだ腕を軽く押し返すと、それだけでミナの身体が大きく崩れた。
続けて、胸元へ掌を当てる。
「ギァッ!」
ミナの身体が数メトル後方へ吹き飛ぶが、床を滑りながらも、爪を立てて勢いを殺す。
「……強すぎるだろ」
ダンテが思わず呟いた。
「ああ」
エメラは目を離せなかった。
自分があれほど苦戦した相手だ。地這い蛇は引き千切られ、種弾は一発も当たらず、樹縛鎖の詠唱すら追いつかなかった。
だというのに。ジルはまだ術の1つすら使っていない。ただマナの身体強化だけで圧倒している。
「ギ……ィィ……!」
ミナが突然、苦しげに身体を丸めた。それっを見てジルが動きを止める。
「ん?」
ミナの背中が脈打を撃つ。四枚の羽が不規則に震え、その付け根が盛り上がっていく。
「何だ?」
エメラが眉をひそめる。
ミナの両腕に浮かんでいた黒い筋が、一気に肩まで広がり、皮膚の硬質化も進んでいく。
指先だけだった爪がさらに長く伸び、腕の一部まで黒い外殻のようなものに覆われ始めた。
「ギ……ギギ……!」
身体が軋んでいく。筋肉が膨れ上がり、人間らしかった足の形が徐々に異形へと変わっていく。
背中の羽も、一回り大きくなっていた。
「まだ、変わる途中なのか?それとも――戦いの中で進化してるのか」
ジルが目を細め、ミナの様子を注意深く観察する。
「進化だって?」
エメラが聞き返す。
「分からん。だが、さっきより明らかにマナが強くなっ」
言い終わるより早く、ミナが顔を上げた。
「ギィィィィィッ!」
先ほどまでとは比べものにならない叫びが響く。
羽が振り抜かれると、その衝撃は床が砕いた。
ミナの姿が消えた。
「速い!」
エメラが叫ぶ。
直後ジルが腕を交差させ、ミナの蹴りを受け止めていた。
その衝撃でジルの足元の床に亀裂が入る。
「お」
ジルの身体が僅かに後ろへ滑った。
「さっきより大分強いな」
それでも。
表情に焦りはない。
「ギィッ!」
ミナが連続して爪を振るう、さらに羽による加速を挟み、死角へ回り込む。
攻撃の速さも、重さも、先ほどまでとは明らかに違っていた。
それでもジルは全てに対応していた。
受ける、かわす、弾く。必要以上には反撃しない。
「……力の差が縮まってない」
エメラが呟く。
ミナは確実に強くなっている。
それなのに、ジルとの間にある差はほとんど変わっていないように見えた。
むしろジルは、変化していくミナの力を測りながら戦っている。
「傷つけないように戦う方が難しいからな」
ダンテが言う。
「ああ……」
エメラにも分かっていた。
ジルはただ倒せないのではない。
エメラの頼み通り、可能な限りミナへ傷を負わせないようにしている。
だから攻撃を受け流し、必要最低限の反撃しかしていない。
それでも完全に優勢だった。
「すごいな……」
エメラの口から自然と声が漏れる。
「今のままじゃ、とてもジルには追いつけない」
自分との差が、嫌というほど分かる。
そんなエメラの横で、ダンテが鼻を鳴らした。
「心配するな」
「え?」
「起きたばっかりのお前は、あんなもんじゃなかった」
エメラがダンテを見る。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ」
ダンテは戦うジルを見ながら続ける。
「今のお前も、今の俺も、本来の力にはまだ遠い」
「……」
「旅をしながら取り戻していけばいい。俺も、お前もな」
「お前、それ――」
「ギィィィィィッ!」
ミナの絶叫が会話を遮った。
再び変異が進んでいた。
黒い外殻が首元にまで広がり、背中から生えた羽はさらに大きくなる。人間だった面影が、少しずつ失われていく。
ジルの表情が変わった。
「……まずいな」
これ以上時間をかければ、どこまで変異するか分からない。
それどころか、変異そのものがミナの身体にどれほどの負担を与えているのかも分からなかった。
「悪いエメラ、ちょっとばかし強くいくぜ」
ジルは腰を落とし脚にマナを集中させる。
先ほどまで全身を覆っていた風のマナが、右脚へ一気に集まっていく。
「だから――」
ジルがミナを見据える。
「死ぬなよ」
ミナも本能的に危険を察したのか、大きく羽を広げた。
「ギィィィィッ!」
一直線にジルへ突進する、ジルも同時に床を蹴った。
その姿が掻き消える。
「――旋風脚!」
直後。
ドゴォンッ――!
凄まじい衝撃音とともに、ジルの蹴りがミナの身体へ叩き込まれた。
同時に、蹴りを中心として風が爆発する。
「ギァァッ!」
ミナの身体が大きく折れ曲がった。そのまま猛烈な勢いで床へ叩きつけられる。
ドガァァンッ!
石床が陥没した。衝撃が部屋全体を揺らし、砕けた石片が周囲へ飛び散る。
「うおっ!」
ダンテが身を低くする、エメラも腕で顔を庇った。巻き上がった埃がゆっくりと晴れていく。
そこには、砕けた床の中央に倒れたミナの姿があった。羽は力なく床へ広がり、もう動いていない。
「……」
エメラの顔色が変わる。
「ジル、やりすぎてないか!?」
杖を支えにしながら、慌ててミナのもとへ駆け寄る。
「大丈夫だって」
ジルが右脚を軽く振った。
「ちゃんと手加減――」
「いや、足加減はしたぜ?」
「そういう問題じゃない!」
エメラはミナの傍らへ膝をついた。まず呼吸を確認する。
「……息はある」
「だから言っただろ?」
「床がこんなになる蹴りを見た直後に信用できるか!」
「床の方が脆かったんだよ」
「絶対違うだろ」
文句を言いながらも、エメラはミナの身体を確認していく。
完全に意識を失っている。
幸い、命に関わるほどの傷は見当たらない。
だが、変異した身体のところどころには、戦闘による傷が残っていた。
エメラは杖を握り直す。
「……試してみる」
ジルがその言葉に反応する。
「なあエメラ……これは俺たちの力の領分とは違うぞ?」
「分かってる、だからといって諦めたくはないんだ」
傷ついたダンテが肩に乗る。
「俺は後で言い、先にこの子を救ってやってくれ」
エメラはうなずき杖の先をミナへ向ける。ゆっくりと翠色のマナを巡らせた。
「木々よ、古の息吹を我が身に賜え。枯れし血を巡らせ、裂けし肉を繋げよ。地の理、再び巡れ。我が身、再び芽吹かん――樹受再生」
柔らかな翠色の光が、倒れたミナの身体を包み込んだ。




