ep45 静寂を喰らう魔獣1
ヴェルディアの明かりは、瞬く間に背後へ遠ざかっていった。
空に残っていた赤みも消え、周囲は完全な闇に沈んでいる。
月は雲に隠れ、街道を照らすのはマリアが発生させた小さな魔法の光と、雷狼の身体を時折走る青白い放電だけだった。
人間であれば速度を落とさなければ進めない暗さだが、ファングとディーオに迷いはない。鋭い嗅覚と夜目を頼りに、荒れた街道を一定の速さで駆け続けていた。
冷たい夜風を正面から受けながら、ガヴロックはファングの背で周囲へ視線を巡らせる。
しばらく走ったところで、その眉間に小さなしわが寄った。
「……おい、マリア」
「どうしました?」
「静かすぎねえか」
マリアが周囲へ意識を向ける。
風が草木を揺らす音、雷狼たちの足が地面を蹴る音。聞こえてくるのは、それだけだった。
「夜ですから、昼間より静かなのは当然では?」
「そういう静けさじゃねえ」
ガヴロックは速度をわずかに落とし、街道脇の暗い森へ目を凝らした。
「虫の音は聞こえる。小動物の匂いも多少はある。だが、魔獣の気配がまったくねえ」
夜間の街道に魔獣が現れること自体は珍しくない。
人の往来が減り、闇に紛れて動きやすくなるため、むしろ日中より遭遇する可能性は高くなる。
ヴェルディアとガナを結ぶこの道も例外ではない。街道から離れた森や岩場には、複数の魔獣が縄張りを持っているはずだった。
ところが、今夜はその気配がない。
遠巻きにこちらをうかがう個体すら存在しなかった。
「ファングとディーオを警戒して、姿を隠しているのでは?」
「それなら気配か匂いくらいは残る。こいつらがいくら速くても、森中の魔獣が一斉に消えるなんてことはねえ」
ガヴロックの言葉に反応するように、ファングが小さく唸った。
続いてディーオも速度を緩め、鼻先を地面へ向ける。
「この子たちも異変に気づいたようですね」
「ああ」
少し走るとファングが街道の途中で足を止める。鼻を鳴らし、暗闇の奥へ顔を向ける、その方向は、街道沿いに広がる岩場だった。
ガヴロックは雷狼の背から飛び降り、地面へ片膝をついた。
土の表面には、何かを引きずったような太い跡が残されている。
その周囲には、黒ずんだ血と、砕かれた獣の骨が散乱していた。
「これは……」
マリアもディーオから降り、魔法の光を近づける。
落ちていた骨のひとつを見て、その表情を険しくした。
「石山熊の前脚ですね」
「こっちは牙狼だ。向こうには岩殻蜥蜴の外殻まである」
いずれも、この辺りに生息する魔獣だった。
だが、残されているのは身体の一部だけであり、ほとんどが強引に食い荒らされている。
太い骨には、巨大な牙によって噛み砕かれた跡があった。
「魔獣がいねえんじゃない」
ガヴロックは剣の柄へ手を添えた。
「この辺りにいた奴らは、全部何かに食われたんだ」
「何なんだ、この食い荒らす感じ。こんな行儀が悪い魔獣いたか?」
ガヴロックは辺りを見渡す、相も変わらず近く魔獣がいるような気配はない。
「不気味な雰囲気だぜ、このまま素通りしたら駄目な予感あプンプンしやがる」
「マリア、索敵を頼めるか?」
「構いませんが、こんな広大な山間部ではやみくもにやってもマナを無駄使いするだけではないですか?」
「分かっている、こっちだけでいい。俺の勘がそう言ってる」
「……分かりました、隊長の勘はよくあたるので信用しましょう」
「エイル・ヴァル・ネス・アクア――《アビスエコー》」
アビスアビスエコー分類:水属性・索敵術
術者から水属性のマナを波紋のように周囲へ放ち、その反響によって生命や魔力の位置を探る術。
視界に頼らないため、暗闇・霧・建物の陰などにいる対象も感知できる。ただし距離が離れるほど「そこに何かいる」という大まかな情報になり、近距離ほど位置・大きさ・動きを正確に捉えられる。
基本は自分を中心に索敵の範囲を広げていくが、広げるほどマナを消費する。それを節約するためマリアは索敵の範囲を絞り、ガヴロックの勘が働いた場所へ向けて術を飛ばした。
「……何かいます。とても大きい生命体です、距離は約4キル程かと」
「分かった、ファング、ディーオ、ここにいて荷物を守っていてくれ。マリア、行くぞ」
「かしこまりました」
マリアが答えると、ガヴロックはファングとディーオの首元を順番に軽く叩いた。
「いいか、俺たちが戻るまでここから動くな。何か来ても、荷物を置いて追いかけたりするんじゃねえぞ」
ファングが低く鼻を鳴らす。
「特にお前だ、ファング。分かってるからな、ついてくんなよ?」
名指しされた雷狼は不満そうに顔を背けた。
「理解しているようですね」
「返事の仕方が完全に子供なんだよな、こいつ」
「隊長に似たのでは?」
「は?いやいや、俺はもっと聞き分けがいいぞ」
「では行きましょう」
「えっ、無視すんなよ」
マリアは街道脇の斜面へ足をかけ、そのまま一気に駆け上がった。
ガヴロックも後を追う。
街道を外れた先に、まともな道などない。
傾斜のきつい山肌に太い木々が密集し、地面には岩や倒木が無数に転がっている。
だが、2人は速度を落とさなかった。
マリアが地面を蹴る。
数メトル先の木の幹へ片足をつき、さらにそこを足場にして上方の枝へ跳んだ。
枝が大きくしなった次の瞬間には、その姿はすでに別の木へ移っている。
ガヴロックも同じように木々の間を駆け抜けていく。
地面を走るよりも、障害物の少ない木の上を進んだ方が速い。
太い枝から枝へ。
幹から岩へ。
時には谷間を飛び越え、着地と同時に再び身体を前へ押し出す。
月明かりの差し込む森の中を、2つの影が夜風を切り裂くように進んでいった。
「まだ真っすぐか!」
前方を走るマリアへガヴロックが声を飛ばす。
「はい! 位置はほとんど動いていません!」
「寝てるのか?」
「それなら助かりますが!」
マリアは太い枝へ着地すると、一瞬だけ立ち止まった。
「……いえ、僅かに動いています」
「どっちだ?」
「こちらへではありません。山の奥へ向かっています」
「逃げてる感じか?」
「分かりません。ただ――」
マリアが言葉を止めた。
その直後。
ズ……ズズズ……。
遠くから、重いものを引きずるような音が聞こえた。
ガヴロックも枝の上で動きを止める。
「聞こえたな」
「はい」
風の音ではない、獣の足音とも違う。
何か巨大なものが地面へ身体を擦りつけながら進んでいる。
そんな音だった。
ズズ……。
ゴリ……ゴリゴリ……。
低い音が夜の森を伝ってくる。
そのたびに、微かに地面が震えた。
「4キル先の音がここまで聞こえてるわけじゃねえよな?」
「先ほどより近づいています。こちらが移動している分もありますが、向こうも動いています」
マリアが再び前を向いた。
「距離、およそ2キル」
「でかいだけじゃなさそうだな」
「ええ」
2人は再び対象へと近づく。
しかし、先ほどまでとは違い、完全に速度を出し切ることはしなかった。
音が大きくなるにつれ、周囲の異変も目立ち始めたからだ。
木の幹に残った深い傷や根元からへし折られた低木。
何かが通った跡だけ、地面の草が押し潰されている。
そして至る所に、黒く乾いた血が残っていた。
マリアが枝から飛び降り、地面へ着地する。
「隊長」
「ああ」
ガヴロックも隣へ降りる。
そこには魔獣の死骸があった。
いや、死骸と呼べるほど残っていない。
四肢の一部と、骨。
肉はほとんど食い尽くされ、硬い皮や角まで噛み砕かれていた。
「これも食われてるな」
ガヴロックがしゃがみ込む。
「この大きさなら、それなりに強い魔獣だったはずだぞ」
「岩角鹿ですね。成獣なら小型の肉食魔獣程度には負けません」
「それを骨までか」
ズズズズズ……。
今度ははっきり聞こえた、木々の奥から。まだ姿は見えない。だが、何かいる。
森に漂う獣臭と土と血が混じったような臭い。
さらに奥から、湿ったものを地面へ引きずる不快な音が聞こえてくる。
ギ……ギギ……。
硬い何かが木の幹を擦った。直後、遠くで太い木が倒れる音が響く。
ガヴロックの口元から笑みが消えた。
「こいつは……思ってたよりでかいかもな」
「生命反応も先ほどより鮮明になっています」
マリアは周囲を見渡した。
「距離は1キルを切りました」
「マナは?」
「かなり強いです。ただ、妙ですね」
「何がだ?」
「1つの生命体として感知しているのに、マナの反応にばらつきがあります」
「ばらつき?」
「まるで複数の魔獣を、一か所へ無理やり押し込んだような……」
ガヴロックの眉が僅かに上がる。
「そりゃまた、嫌な言い方だな」
「私も言いたくありません」
ズンッ。
突然、地面が大きく揺れた。
鳥が一斉に木々から飛び立つ。
その羽音の向こうで、
――グォォォォォ……。
低い。
地の底から響くような咆哮が森全体を震わせた。
マリアが即座に腰を落とす。ガヴロックも剣へ手をかけた。
「気づかれましたか?」
「どうだろうな」
ガヴロックは暗い森の奥を見据える。
「だが、ここまで来たらどっちでも同じだ」
その直後数十メトル先の木々が、横一列に大きく揺れた。
枝が折れ、葉が舞い上がる。何かが木々の間を押し分けている。
いや。
押し分けているのではなく、進路にあるものをその巨体でなぎ倒していた。
ズズズズズズズ――。
這いずる音が、急速に近づいてくる。マリアが小さく息を呑んだ。
「気づかれたようです」
「ああ、行くぞ!」
ガヴロックはゆっくりと剣を抜いた。




