ep39 カルタ到着
空が白み始める少し前、またダンテが反応した。今度の気配は1つ。
先ほどまでの魔獣よりも大きかったが、それでも巨大な合成魔獣ほどではない。
エメラが立ち上がると、ダンテもすぐに身構えるが、心なしか眠そうだ。
薄暗い草原の向こうから、4本脚の魔獣がゆっくりと姿を現す。
鹿に似た体つきだった。
長い灰色の毛に覆われ、頭部には岩の塊のような角が生えている。太い脚の先には、岩場を登るための鋭い蹄があった。
その姿を見たティオが眉をひそめる。
「……あれ、こんな場所にいる魔獣だったか?」
エメラも同じ違和感を覚えていた。
「いや。あれは岩角鹿だと思います、こんな草原にはいない」
「岩角鹿?」
「もっと北の山間部に生息する魔獣です。岩山を住処にしている種類で、こういう草原まで下りてくることはほとんどありません」
岩角鹿は野営地の周囲をゆっくり歩いている。積極的に襲ってくる様子はない。
だが、落ち着きを失っているのか、何度も後方を振り返っている。
「山から迷ってきたのか?それとも、餌を探してここまで来たとかなのかね」
「可能性はありますけど……あの魔獣の生態としては珍しい気がする」
「でも、山ってここからかなり離れているんだろ?」
「ですね」
エメラは岩角鹿の動きを注意深く観察した。
長い距離を走ってきたのか、脚や腹の毛には泥がこびりついている。身体の側面には、何かに引っかかれたような細い傷も残っていた。
「何か別の魔獣に追われたのかもしれませんね」
「まあ、その可能性もあるだろうな、なによりこちらからちょっかい出さなければ大丈夫そうだな」
岩角鹿はしばらくこちらを窺っていたが、ダンテが一歩前へ出ると、大きく身体を震わせた。
そして争う意思はないと示すように頭を下げ、草原の東側へと走り去っていった。
完全に日が昇ると、一行は野営地を片づけ、カルタへ向けて出発した。
眠気は残っていたが、夜よりも街道は進みやすい。
空はよく晴れ、遠くまで草原が続いている。
昨日の戦いが嘘だったかのように、風は穏やかだった。
昼前には、行商人の荷馬車や、旅をする冒険者たちともすれ違うようになった。
人の往来が増えたことで、カルタが近づいていることが分かる。
エメラとダンテ、ティオは夜の見張りで疲れ切って馬車で眠っている。
手綱を握るのはアミールとカルル、見張りにビヨルドとルシア…の予定だったがルシアはどうやら起きてきていない様子だ。
あの激闘があったから多めに見ているのか、日が上がっている時は魔獣が襲ってくることは滅多にないためなのか、口うるさく注意しそうなアミールも何も言わない。
というより、起きている3人は会話をすることもなく、ひたすら前進することに集中しているようだ。皆の顔に疲れが見えている。
馬車の車輪が乾いた街道を転がり、一定の間隔で小さく軋む。
昨夜とは違い、街道の周囲は明るく見通しが利いていた。背の低い草が風に揺れ、その向こうには緩やかな丘陵がどこまでも続いている。
時折、草むらの中から小動物が顔を出すことはあったが、魔獣の気配はない。
昼間の街道は人の往来も多い。商人の荷馬車や旅人が頻繁に通るため、夜行性の魔獣がわざわざ近づいてくることは滅多になかった。
昨夜のような襲撃が起きる様子はなく、馬車は穏やかに街道を進んでいく。
「カルル、眠くないか?」
隣で手綱を握るカルルへ、アミールが声をかけた。
「眠くないと言えば嘘になりますけど、まだ大丈夫です」
「無理はするなよ。ふらついて馬車を道から落とされては困る」
「大丈夫ですって。荷台には、絶対に壊したくない荷物もありますからね」
カルルは御者台の後ろへ視線を向けた。
そこには商品を詰めた木箱と並んで、樹装結界に包まれた魔獣の肉片が固定されている。
木の繭は馬車の揺れに合わせて僅かに震えていたが、表面に亀裂が入る様子はない。中から臭いが漏れてくることもなかった。
「あれが普通の荷物なら、もう少し気楽に走れるんですけどね」
「ギルドに持ち込めば、何か分かることもあるだろう。今は慎重に運ぶしかないな」
アミールがそう答えると、再び会話が途切れた。
聞こえるのは馬の蹄と車輪の音だけだった。
太陽が空の高い位置を過ぎた頃、一行は街道沿いに設けられた休憩所で馬車を止めた。
大きな木の下に粗末な長椅子と水場があるだけの場所だったが、馬を休ませるには十分だった。
「休憩にしますよ」
カルルの声に、荷台で眠っていたエメラがゆっくりと目を開ける。
身体を起こすと、全身に鈍い重さを感じる。昨夜の戦闘と、その後の見張りによる疲労はまだ体から抜けていない。
隣ではティオが壁にもたれたまま眠っている。
ダンテは荷台の床に身体を丸めていたが、エメラが動いたことに気づくと、片目だけを開けた。
「着いたのか?」
「いや。休憩だそうだ」
「そうか……」
ダンテはそれだけ言うと、再び目を閉じた。
普段であれば真っ先に馬車から降りるはずだが、さすがに疲れているらしい。
エメラは荷台から降り、大きく身体を伸ばした。
長時間同じ姿勢で眠っていたせいで、背中や肩が固まっている。
「おはよう、エメラ」
水場の近くにいたビヨルドが声をかけてきた。
「もう昼を過ぎているけどな」
「そんなに眠っていましたか」
「ああ。ティオもまだ起きていない。ルシアに至っては、呼んでも返事すらしない」
ビヨルドは呆れたように馬車を見た。
「昨夜は皆ほとんど眠れていませんからね」
「まあな。今のところ、街道は平穏だ。魔獣の姿も見ていない」
エメラは周囲を見渡した。
休憩所には他にも数台の馬車が止まっている。
商人たちは木陰で食事を取り、護衛の冒険者たちは武器の手入れをしていた。旅人の中には地面に敷物を広げ、その上で眠っている者もいる。
特に騒ぎが起きている様子はない。
「昨夜のことが嘘みたいですね」
「あれが毎晩続いたら、カルタに着く前に全員倒れているさ」
ビヨルドは苦笑しながら水筒を差し出した。
エメラは礼を言って受け取り、冷たい水を喉へ流し込む。
ようやく身体が目を覚まし始めた。
「それは壊れていないのか?」
ビヨルドが馬車の後方にある木の繭を指した。
「確認してみます」
エメラは樹装結界の表面へ手を当て、内部に意識を向けた。
枝と根の繋がりに異常はない。
肉片を固定する内部の蔓も緩んでおらず、臭いを遮断する膜も維持されている。
「問題ありません。カルタまでは持つと思います」
「便利な術だな。壊れやすい荷物を運ぶ商人が知ったら、金を積んででも頼みたがりそうだ」
「術者が離れると細かな調整はできません。それに、長期間維持するには向いていませんよ」
「それでも十分だろう。少なくとも、腐った匂いの魔獣の肉と一緒に荷馬車へ乗らずに済む」
その言葉を聞いていたのか、荷台の中からルシアの声がした。
「腐った匂いって言わないで。思い出しただけで匂いが戻ってきそう」
ルシアが乱れた髪のまま、荷台から顔を出す。
「起きていたのか」
「今起きたのよ。お腹が空いたわ」
「見張りを放り出して寝ていた人間の最初の言葉がそれか」
「昨夜は頑張ったんだからいいでしょ」
ルシアはそう言いながら馬車を降りると、アミールが用意していた干し肉と硬いパンへ手を伸ばした。
「ティオも起こしますか?」
エメラが尋ねると、ビヨルドは荷台を覗き込んだ。
「いや、もう少し寝かせておこう。昼食なら後で馬車の中でも食べられる」
一行は短い休息を取り、馬へ水と餌を与えた。
エメラとルシアが食事を終えた頃には、カルルの眠気も多少は取れたようだった。
「そろそろ出発します。ここからカルタまでは、まだ数時間かかりますから」
その声に、皆が再び馬車へ乗り込む。
休憩所を離れた馬車は、再び街道を北へ進み始めた。
午後に入ると、街道を行き交う馬車の数はさらに増えていった。
カルタへ商品を運ぶ商人。
街から近隣の村へ向かう行商人。
数人の仲間と歩く冒険者たち。
すれ違う者の姿が増えるたびに、街が近づいていることが分かる。
道の幅も少しずつ広くなり、轍の数も増えていた。
途中には街道を管理するための小さな詰め所があり、武装した兵士が通行人を確認している。もっとも、街へ入るための正式な検査はカルタの門で行われるらしく、ここでは馬車を止められることはなかった。
昼間は最後まで魔獣の襲撃もなく、道中は驚くほど平穏だった。
ティオが目を覚ましたのは、休憩所を出てからしばらく経った頃だった。
「……今どこだ?」
寝ぼけた顔で周囲を見回す。
「カルタまで、あと小一時間だそうです」
エメラが答えると、ティオは小さく息を吐いた。
「随分寝た気がするな」
「実際かなり寝ていましたよ」
「見張りでほとんど眠れなかったからな。ダンテは?」
エメラの隣では、ダンテがまだ目を閉じていた。
「起きていますよ」
「いやそれ寝てるだろ」
「さっきから話は聞いている」
目を閉じたままダンテが答える。
ティオは一瞬驚いた後、呆れたように笑った。
「便利な耳だな」
「寝ていても、危険な音くらいは分かる」
「やっぱり寝ているじゃねえか。まあ、今日は危険もなさそうだけどな」
ティオは荷台の外へ目を向けた。
街道には人の姿が絶えず、少し離れた場所には耕された畑も見え始めている。
草原ばかりだった風景の中に、人の手が入った土地が増えていた。
「カルタの近くまで来たようですね」
「ああ。この辺りなら、魔獣も簡単には近づいてこないだろう」
街に近づくほど巡回する兵士や冒険者も増える。
昼間ということもあり、周辺に危険な魔獣が現れる可能性は低かった。
「カルタに着いたら、まずギルドへ行くのか?」
ティオの問いに、エメラは頷いた。
「ええ。あの魔獣の部位を調べてもらう必要があります。それと、昨夜見かけた岩角鹿についても確認したいです」
「山間部の魔獣が、この辺りに現れた件か」
「たまたま迷い込んだだけならいいんですが」
ティオは少し考えた後、腕を組んだ。
「巨大な魔獣に縄張りを追われた可能性もあるな」
「俺もそれは考えました」
「でも、あの化け物が元々山にいたのかは分からないわよね」
向かい側で髪を整えていたルシアが会話に加わる。
「誰かがあの場所に運んできた可能性もあるんでしょう?」
「ありますね」
「だったら、岩角鹿とは何の関係もないかもしれないわね」
「ええ。本当に偶然、あの場所まで下りてきただけかもしれません」
「偶然なのか、そうだといいんだがな」
ティオが荷台の外へ視線を移した。
太陽が西へ傾き始めた頃、街道の先に高い建造物が見えた。
最初に見えたのは、街の中心部に建つ鐘楼だった。その下には、外壁が横へ長く続いている。
「見えてきましたよ!」
御者台からカルルの声が上がった。
眠気の残っていた荷台の空気が、一気に変わる。
エメラたちが外を覗くと、遠くにカルタの街が見えていた。
街を囲む外壁はヴェルディアのものよりも低いが、その規模は遥かに大きい。壁の外側には広大な畑が広がり、街道の両側には倉庫や家畜小屋が並んでいる。
街へ向かう荷馬車の列も長くなっていた。
「ようやく着いたか」
ティオが肩を回しながら言った。
「まだ門の前ですけどね」
「街が見えれば着いたようなものだろ」
「こういう大きな街は、入るまでが長いのよ」
ルシアの言葉通り、門の前には何台もの荷馬車が列を作っていた。
兵士たちが荷物や通行証を確認しているため、列はゆっくりとしか進まない。
「夕方には入れそうだな」
ポが列の長さを確認しながら言った。
「何事もなければな」
ビヨルドが答える。
荷台に積んだ木の繭を見られれば、門の兵士から事情を尋ねられるだろう。
見た目だけなら大きな木の塊だが、中には異形の魔獣から切り取った肉片が入っている。
「門で結界を開けろと言われたら、どうする?」
ティオが小声で尋ねた。
「事情を説明します。人前で開けるのは避けたいですが、拒否するわけにもいきません」
「臭いもそうだけど、あれを見たら騒ぎになりそうね」
「ギルドまで兵士に同行してもらう方が安全かもしれません」
列は少しずつ進み、一行の馬車も門へ近づいていく。
外壁の向こうからは、人々の話し声や鐘の音が聞こえていた。
商人たちの呼び声、石畳を進む車輪の音。
夕食を作っているのか、風に乗って香ばしい匂いも漂ってくる。
昨夜の荒れ果てた草原とは、まるで別の世界のようだった。
「今日は宿でゆっくり眠りたいわ」
ルシアが疲れた顔で言った。
「ギルドへの報告が先だぞ」
「分かってるわよ。でも、その後は絶対にお風呂と食事と柔らかい寝床だからね」
馬車が再び前へ進む。
やがて太陽が遠くの山の向こうへ沈み始めた頃、一行はようやくカルタの街の門前へ辿り着いた。




