ep36 未知なる魔獣2
エメラはそれだけ言って、ルシアの背後に回った。ルシアの肩に両手を置く。そのまま目を閉じ、体の奥からマナを引き出し始めた。
カールの時のように強制的にマナを流し込むのとは違う。例えるのであれば、カールの時は細いくふぁに無理にそれよりも大きなものを流している。今回はそれよりも大きな管に流す、その管に最初から流れているものと調和をさせながら。
マナが動く感覚がある。体の中を流れる川が、方向を変えるような感覚だ。普段は自分の術に向けて流れているそれを、今は外へ——ルシアという器に向けて、押し出していく。
「……っ」
ルシアが小さく声を上げた。
「熱い? それとも冷たい?」
エメラが聞いた。
「両方、よ」
ルシアが答えた。「すごい量が来てる。こんなに……あなた、本当にどれだけマナを持っているの?」
ヴェルディアで限界までマナを消費して、目覚めてからエメラはマナの総量が倍近くなっていた。これはかつての力を少しずつ取り戻しているのか、あるいはエレメンツとしての生存本能か。
「気にしなくていい。全部使ってくれ」
「全部って——」
「全部だ」
ルシアはしばらく黙った。それから深く息を吸い込んだ。胸の中で何かが広がる感覚があった。器に水が満ちていくような、満ちても満ちても溢れないような、そういう感覚だ。
「ゲログ」
ルシアが言った。
「ぐる」
ゲログが応えた。
ゲログがルシアの胸元から出てきて、両手の間に収まった。エメラルド色の虹彩が、いつもの三倍ほど輝いていた。ゲログも感じているのだ。今流れ込んでいるマナの質と量を。
「ティオ、ビヨルド、どでかいのを撃つから時間を稼いで」
エメラが叫んだ。
「どのくらいかかる?」
ティオがエメラに叫んだ。
「分からない。でも——十分に時間をくれれば、必ず終わらせる」
「わからないか」
ティオは苦笑した。
「やるしかないな」
「ビヨルド!」
「聞いている」
弓を構え直した。矢を番える。その手が少し震えていた。疲労ではなく、やけどによるものだ。右手の甲が赤く腫れている。それでも弓弦を引いた。
「俺が前を取る、お前は関節を撃ち続けろ」
「分かった」
ティオが走り出した。
魔獣も動き出していた。
体中に傷がある。首の付け根には矢が刺さり、胴体には炎で焼かれた穴が空き、四肢には剣の跡が刻まれている。普通の魔獣なら十回以上は事切れているはずの損傷だ。
しかし動いていた。
それどころか——視線がエメラとルシアに向いていた。
2人が一緒にいる場所に。術の準備をしている場所に。
「来るぞ!」
ティオの叫びが合図かのように魔獣が動き始めた。ゆっくりと、しかし確実に。体が傷だらけで動きは鈍くなっているが、その質量が恐怖だ。あれが動き始めたら、止める方法が分からない。
ティオは魔獣の正面に飛び込む。
「こっちだ!」
剣で外皮を叩く。剣に纏わせていた炎はもうなくなっている。持続させて発動するのがティオは苦手だ。傷のある場所を繰り返し狙う。一撃では通らない。二撃でも通らない。しかし同じ場所を何度も叩けば、じわじわと削れていく。
魔獣がティオを見た。
巨大な前脚が振り上がりティオを蹴りつける。
「っ——!」
ティオは横に転がった。脚が地面に叩きつけられ、衝撃が草原を伝って体まで届いた。地面が揺れた。立ち上がろうとして、膝が笑った。
重い一撃、「くそっ」 それでも立った。倒れたら死ぬ。それだけが思考の全てだった。
ビヨルドが矢を放った。
連続して、三本。風の術を乗せた矢が、それぞれ違う角度から魔獣を撃った。一本は首の古傷へ、一本は脇腹の継ぎ目へ、一本は目に向けて。
首と脇腹には刺さった。目への一本は、まぶたのような構造物に弾かれた。
しかし——三本の矢を処理する間、魔獣の動きが止まった。
その瞬間にティオが切り込んだ。
「うおおおっ!」
エイル・トーチ・セル・イグニス——苦手な術を再び使った。炎が揺らいで消えかける。しかし意地で維持した。剣身の炎が、傷口に食い込んだ。
魔獣の方向がこだます。
その声が、音ではなく圧力として体に当たった。ティオの体が後ろに吹き飛ばされた。受け身を取る体力が残っていなかった。地面を転がり、草の中に倒れた。
「……まだやれる!!」
強気な言葉で己を奮い立たせる。
ビヨルドは次の矢を番えた。
右手が震えている。やけどで皮膚が引き攣り、弦を引くたびに焼けるような痛みが走った。
歯を食いしばり、痛みを無視する。目は動く。照準は合う。弓弦を引く力さえ残っていれば、仕事はできる。
ティオが吹き飛ばされた。その瞬間、魔獣の体勢が崩れた。
今だ。
放った。
矢は魔獣の後頭部——ビヨルドがこの戦いで最も多く撃ってきた場所——に刺さった。傷が重なり、その部分の装甲が薄くなっていた。矢が深く食い込んだ。
「ピィ——!」
魔獣が短い声を上げた。体が横に傾いた。
しかし倒れない。
倒れないが——体勢を立て直すのに、数秒かかった。
その数秒が、今は全てだった。
ルシアは術の構築に集中していた。自分が普段使うことが無い量のマナを込める。暴発しないよう、目を瞑りエメラのマナを自分のマナに載せていく。
背中にエメラの両手の感触がある。そこから流れ込むマナが、尽きる気配がない。普段の自分のマナが川だとすれば、今流れ込んでいるそれは海だ。どこまで使っても、また満ちてくる。
「ゲログ、一緒にやるわよ」ルシアが言った。
「ぐる」ゲログが答えた。
ゲログはルシアの両手の間で静かに座っていた。しかしその体から放たれるマナの質が変わっていた。いつもより密度が高く、純度が高い。エメラのマナと共鳴しているのか——ゲログも感じているのだ、今この場に流れているものを。
「エイル・セルン・ヴァル・アクア(中級水針乱射・テンペストニードル)」
空気中の水分が集まり始めた。いつもより速い。いつもより大量に。周囲の大気から、草の露から、土の中の水分から——全てがルシアの両手の間に引き寄せられてくる。
水が形を作り始めた。
球体になり、それが針になり、針が増えていった。
一本。
十本。
百本——。
「……っ」
ルシアが息を呑んだ。
自分でも信じられなかった。いつもの術ではない。いつもの倍どころか——桁が違う。エメラのマナがゲログを通して術に加わり、水針の生成が止まらない。
「みんな、距離を取って!」
ルシアが叫んだ。
ティオが振り返った。
ルシアの両手の間で、何かが生まれようとしていた。水の光が、夜の草原を昼のように照らし始めていた。
「ビヨルド、退くぞ!」
「分かった」
2人は魔獣から距離を取った。走る速度ではない。ティオはもうまともに走れなかった。しかしできる限り早く、エメラとルシアから離れる方向へ向かった。
魔獣がルシアを見た。
光の源を見た。
動こうとした。
「貫け——テンペストぉぉぉ、ニードルぅぅぅ!」
暴風が生まれた。
否。それは既に災害と呼ぶべき規模だった。渦巻く風の中に無数の水針が生成された。一本一本は短剣ほどの大きさしかない。だが、その数が異常だった。
千。
二千。
いや、それ以上——。
暴風が解き放たれた。
次の瞬間、巨大な魔獣の全身が水飛沫に包まれた。
無数の針が雨のように降り注ぎ、装甲を削り、継ぎ目を貫き、装甲の内側へ衝撃を重ねた。一本一本の威力は大きくない。しかし二千を超える針が、同時に、全方位から、逃げ場なく降り注いだ。
巨体が後ろへよろめいた。
山のような体躯を誇る魔獣が、一歩——また一歩と後退した。
それは暴風雨そのものが牙を剥いて襲いかかっているようだった。いや、暴風雨を遥かに超えていた。嵐でも、雷でもない。ただ、水流の奔流が一点に集中した、純粋な破壊だった。
千をゆうに超える水の針が、魔獣の体を少しずつ削り取っていくのが分かる。術を使ったルシア自身、信じられないという顔をして魔獣をみている。
ティオが立ち止まり、振り返った。
「……なんだ、あれは」
声が出ない。
ルシアがあの術を使うのは今まで何度か見てきた。護衛任務の前からこの3人で仕事を共にしてきた。ルシアの術の限界も、おおよそ知っているつもりだった。
しかし今起きていることは、その知識の外だった。
あれはルシアの術ではない。いや、ルシアの術だ——しかしルシアだけの術ではない。
「エメラのマナなのか……?」
ティオは呟いた。あの青年が持っているものが何なのか、今この瞬間に少しだけ理解した気がした。
ビヨルドは弓を下ろしていた。
もう矢を放つ必要がないと判断したのだ。
矢を持つ手が震えていた。やけどの痛みもある。しかし震えていた本当の理由は、目の前で起きていることだった。
ビヨルドは長い冒険者生活の中で、様々な術師を見てきた。火属性の大術師が街一つを燃やしたという話も聞いたことがある。水属性の達人が海流を変えたという伝説も知っていた。
しかし——直接見たのは、これが初めてだった。
これほどの威力の術が行使されるのを。
何千もの水針が全身を貫き、装甲が削れ、傷口がさらに広がり——内側から育ってきた蔓と、外側から叩き込まれる水針に挟まれて、この魔獣が初めて「壊れていく」感覚を持っていた。
八本の脚が、一本一本、力を失っていった。
前脚から順に力を失い、残った脚でも巨体を支えきれなくなった。
巨体が傾いて倒れ、まもなくテンペストニードルが止まる。
ルシアの両手から光が消え、ゲログがルシアの胸元に戻った。
ルシアは膝をつく、息も絶え絶えだ。
「……終わった?」ルシアが息を切らしながら言った。
振り返ると、背後にいたはずのエメラが地面に膝をついていた。杖を支えにして、肩で息をしている。顔が青白い。
「エメラ!」
ルシアが叫んだ。
「大丈夫」
エメラが答えた。
「大丈夫だ。倒れない」
「でもあなた——」
「マナを少々渡し過ぎたな」
エメラが苦しそうな笑顔で言った。
「でも、それだけだ」
ダンテがエメラの隣に座った。
「嘘をつくな、顔色が最悪だぞ」
ダンテが心配そうに言う。
「最悪でも、意識はある」
「しばらく動くな」
「ああ、というよりは」
エメラは素直に言った。
「動けない、今は」
草原が静まり返っていた。
テンペストニードルの余韻で、周囲の草が全て倒れていた。水針が貫いた跡が地面に無数に刻まれており、夜の草原に規則的な穴が開いていた。
その中心で、魔獣が倒れていた。
魔獣はピクリとも動かなかった。
外皮は削れ、体中に穴が空き、傷口の一部には、エメラが後から送り込んだマナで強制発芽させた蔓が絡みついていた。生命活動をしていないはずの魔獣が、今度こそ——完全に動かない。
ティオが近づいた。
剣の先で、魔獣の体に触れた。反応がない。もう一度触れた。それでも反応がない。
「……死んだな。いや、壊れた、というべきか」
ティオが安堵した口調で言う。
「壊れた、の方が正確でしょう」
エメラが地面に座ったまま言った。
「生きていなかったから、死にはしない」
「造られた魔獣、か」
ティオは魔獣を見下ろした。
「カルタに行けばギルドに報告だな、全く、誰が何の目的でこんなの作ってるんだか」
「はい」
「厄介だな、まったく」
ティオは剣を収めた。
「ルシア」
ビヨルドが近づいた。
「なに?」
「腕を見せろ」
「え? あ——」
ビヨルドがルシアの腕を取って確認した。やけどの範囲を確かめる。その動きは無言だったが、丁寧だった。
「痛いか?」
「痛いわよ」
「薬草はどこだ」
「鞄の——」
「俺が出す」
ビヨルドは荷台から薬草の包みを取り出し、やけどの部分に当てた。ルシアが小さく声を上げた。
「我慢しろ」
「してるわよ」
ゲログが、ルシアの腕の傷に鼻先を近づけた。低く鳴いた。
「ゲログは何と言ってる?」ルシアがダンテに向かって聞いた。
ダンテはエメラの傍に座ったまま答えた。
「お疲れ、と言っている。それと——よくやった、とも」
ルシアはしばらく黙っていた。
「ゲログ……」
「ぐ」
「ありがとうね」
「ぐるる」
「今のは?」
「どういたしまして、だ」
それをルシアが声を出して笑った。魔獣を倒した安堵の笑いか、腕が痛むのか、すぐに顔をしかめたが、笑いは止まらなかった。
アミールが馬車から降りてきた。術はどちらもすでに解けている。
倒れた魔獣を、水針が降り注いだ跡の草原を、エメラたちを一瞥する。
「全員生きているのか」
「生きてまーす」
ルシアが傷の手当てを受けながら答える。
「立てるのか」
「今は難しいな」
「正直だな」
アミールは言った。それから荷台の方に向かい、水と食料、それに回復薬も持ってきた。
「傷の手当てをしろ。出発は明日の昼間にする」
「昼間まで休めるんですか?」
ルシアが驚いた顔で言った。
「お前たちの状態で夜明け前に出発しても、次に何かあった時に動けないからな」
アミールは言った。
「もし万が一のことがあったら大損だからだ。他意などない」
「大損、確かにね」
ティオが苦笑した。
「休んだ方がのちの事を考えたらいいと判断したから休む。それだけだからな」
アミールは水の入った革袋をティオに投げた。
「文句があるか」
「ないでーす」
ルシアが言った。
それだけを伝えるとアミールは馬車に戻る。
戻り際に、魔獣を一瞥する。
その目には何がうつったのか。驚きか、あるいは感心か——すぐに消えて、判別できない。
エメラはそのやりとりにまるで参加しておらず、座って目を閉じていた。
エメラは会敵前に出していた地這い蛇を使い、魔獣を使役している張本人を探していた。
ダンテもエメラが地這い蛇の使役に集中している間、周囲の索敵を行う、これ以上敵の増援がいた場合こちらは消耗したメンバーで戦わなければいけない。万が一に備え、後手に回らぬように警戒している。
戦闘中からすでに魔獣が出現した方向へ、地這い蛇を走らせていた。少し間隔を空けて8匹。魔獣が地面を掘り進んできたであろう穴をひたすら進む。既に目視で監視できる範囲は越しているだろう。何かの術を使っている可能性もある。
穴の終着地点から地面にはい出る。岩壁がいくつもある場所。地這い蛇をばらけさせ、周囲を注意深く探る。
周囲は無機質な岩肌がそびえたっている。索敵が難しいが、逆にこちらも身を隠しやすい。焦らず、しかし素早く地這い蛇を操り何か手掛かりがないかを探す。
とある、一匹の蛇が人の体温と生気を捉えた。地這い蛇は視覚だけでなく、地面を伝わる振動や生き物の体温、生気の揺らぎを捉えられるよう術を組んである。
捉えた人影は2人、岩場の上でなにやら話しているのが聞こえる。すべての蛇で岩壁を登り切り、気配を立って近づく。




