第30話:時の狭間――クロノスの試練
『エレノア、目覚めよ』
クロノス様の声が聞こえたような気がした。
わたくしはクロノス様の声に導かれるように、その空間で目を覚ました。
「ここ、は……」
ここは夢の中のはずだ。
いつもクロノス様と会う、あの美しい花畑のはず。
けれど今は、花々は黒く枯れ、触れれば崩れ落ちてしまいそうなほど脆くなっていた。
「クロノス様……一体何が起こっているのでしょう?」
クロノス様は、わたくしのすぐそばにいた。
わたくしの問いに、クロノス様はいつもよりも厳しく、どこか悲しげな表情で言った。
『ここは、お前の魂の内側……深淵だ。肉体は治療を受けておるが、魂はまだ闇に囚われている』
「闇……?」
クロノス様は足元の枯れた花に、そっと指先で触れた。
花は音もなく崩れ、黒い砂となって消える。
『アレクシスの短剣に塗られていた毒は、ただの毒ではない。邪悪な呪いが混じっておった。肉体だけでなく、魂を壊す力を持っていた……』
「では……わたくしは、目覚められないのですか……?」
問いながら、胸が締めつけられる。
ウイリアム殿下の泣き顔が脳裏に浮かんだ。
優しいあの方は、きっとご自分を責めてらっしゃることだろう。
『目覚めることはできる。そなたの命を救うために、クロノ家の者たちは全力を尽くしている。だが……お前自身も、闇に抗うために戦わねばならぬ』
「わたくしが、戦う……?」
うむ、とクロノス様は、重々しく頷いた。
『そなたの体は、クロノ家の者たちが治療を続けている。だがこの毒の治療には、身体の治療だけではなく、魂の治療も必要となる。そしてその魂の治療は、そなた自身にしかできぬことなのだ』
クロノス様は足元の、今にも崩れてしまいそうな枯れた花を指さした。
『そなたの残り少ない魂の力で、この花を枯らさずに浄化し、もとの美しい花畑に戻すこと……それが、そなたの戦いとなる……』
「わたくしの、戦い……」
わたくしは足元の花へとそっと手を差し伸べた。
けれど、触れればきっと崩れてしまう。
だから、触れずに手をかざし、元の美しい花に戻るようにと、祈る。
すると、わたくしの手から淡い光が放たれ、小さな花は再び美しく姿を変えた。
できた、良かった、と思う反面、この花畑全てを元に戻すには、どれくらいの時間がかかるのだろうと思う。
そして、わたくしにそれをやり遂げることができるのだろうか、とも。
『エレノア。お前がこの闇を抜けるには――強い想いが必要だ。誰かを想い、誰かに想われる力が、お前に力を与えてくれるだろう』
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
思い浮かんだのは、ウイリアム殿下の顔だった。
「ウイリアム殿下……」
クロノス様は静かにうなずいた。
『あの者を、愛しているか?』
「はい。わたくしは、あの方を愛しております。ウイリアム殿下の元に、家族の元に、戻りたいです。ですが……」
『なんだ?』
「わたくしは、戻れないかもしれません……」
もちろん、諦めずに精一杯あがくつもりではいる。
だけど、それはきっと奇跡のようなものだろうと思う。
『ウイリアムに伝言はあるか?』
深い息をついてそう言ったクロノス様に、わたくしは頷いた。
そしてクロノス様に、ウイリアム殿下への伝言を託す。
『わかった。この伝言、我がかならずウイリアムへ伝えよう……』
クロノス様は頷くと、この空間から姿を消した。
わたくしは、もう会えないかもしれないウイリアム殿下を想って、しばらくの間、静かに涙を流した。




