第16話:隣国の王子――揺れる学園と、新たな影
アレクシス殿下の「婚約者だ」という言葉に、周囲のざわめきはさらに大きくなった。
わたくしは胸が締めつけられるような思いで、アレクシス殿下を見つめた。
否定しなければならない――。
そうでないと、このまま流されてしまうことになる。
けれど、そう思っているというのに、喉がひどく乾いて、言葉が出てこなかった。
そのとき――。
「婚約者……? それは、エレノア様ご自身のご意思なのでしょうか」
穏やかな声が、ざわめきを切り裂いた。
振り向くと、そこには眼鏡をかけた大人しそうな一学年下の男子生徒が、不思議そうに首を傾げていた。
「アレクシス殿下は、先日エレノア様との婚約破棄を宣言されたと思ったのですが……違うのですか?」
男子生徒の眼鏡の奥の瞳が、まっすぐにアレクシス殿下を見つめていた。
いつのまにか、わたくしの前に居た男子生徒が眼鏡をかけた男子生徒の元へと移動し、片膝をついている。
この男子生徒は誰?
胸の奥がざわついた。
「貴様、誰だ!」
アレクシス殿下が、眼鏡をかけた男子生徒を睨みつける。
彼は一歩前に出ると、わたくしに向かって丁寧に頭を下げた。
「申し遅れました。僕は――セドリック・レーヴェルト。レーヴェルト王国の第三王子です。この者の名は、バルト……僕の従者です」
その場が凍りついた。
リリアナ嬢が目を見開き、アレクシス殿下は言葉を失う。
周囲の生徒たちも息を呑んでいる。
わたくしも、信じられない思いで彼を――セドリック王子を見つめた。
「王……子……だと?」
言葉を絞り出すように、アレクシス殿下が声を上げた。
セドリック王子は柔らかく微笑み、
「はい。この国の歴史に興味があったので、身分を隠して留学していたのです。エレノア様のことは、以前から噂で耳にしていました。ぜひ一度、お話ししたいと思っていたのですが、僕は内気な性格で声をかけられなくて……それで、バルトにエレノア様に声をかけてもらったのです」
セドリック王子は淡々と、説明するように言った。
余裕のあるその態度に、アレクシス殿下の顔が真っ赤になる。
「な、なぜエレノアに……! 何の目的だ!」
「目的……ですか?」
セドリック王子は首を傾げ、わたくしを見つめた。
「留学をして、この国の歴史を調べるうちに、クロノ公爵家に興味を持ったのです。そして、エレノア様……――時の神に選ばれた、あなたにも、ね」
その瞬間、わたくしの心臓が大きく跳ねた。
「時の……神……?」
「ええ。時の神であるクロノス様があなたを選んだと聞きました。そのような方に、僕が興味を持つのは当然でしょう? ぜひ、お話してみたいと思ったのです」
セドリック王子は穏やかに微笑んでいるのに、その瞳の奥には、何か鋭い光が宿っていた。
「エレノアは俺の婚約者だと言っているだろう!」
アレクシス殿下がわたくしを庇うように前に出て、叫ぶ。
けれどセドリック王子は、まるで子どもの駄々を聞くような優しい声で言った。
「ですが、アレクシス殿下。先ほども言いましたが、婚約破棄を宣言されたのは、殿下ご自身ですよね? それも、公式な場で、大勢の前で」
「そ、それは……!」
「あの日、あのとき、エレノア様は受け入れられました。まぁ、その後はいろいろとあったようですが……今のお二人の関係は、エレノア様のお心次第で保留されていると聞いています。つまり――婚約は“宙ぶらりん”ということです」
周囲の生徒たちがざわめく。
じゃあ、殿下の『婚約者だ』って……嘘?
どういうことなの……?
エレノア様、大変だ……。
「貴様、なぜ、それを……」
アレクシス殿下は怒りで震えていた。
「え? 一体どういうこと?」
リリアナ嬢は混乱し、セドリック王子と従者というバルトは余裕の笑みを浮かべている。
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
セドリック王子は、どうしてこんなにも詳しい情報を知っているのだろう?
わたくしは――どうすればいいのだろう。
「エレノア様。少し、お話しできる場所へ移動しませんか?」
セドリック王子がにこやかに笑い、手を差し伸べてくる。
その手を取るべきか、拒むべきか。
わたくしは迷った。
けれど――。
「エレノア! 行くな! その男と話す必要はない!」
アレクシス殿下の怒声が響いた瞬間、わたくしの胸の奥で、何かが静かに決壊した。
わたくしの意思を尊重すると言ったのは、国王陛下ではなかったか。
アレクシス殿下は、国王陛下のお言葉でさえ、ないがしろにされるのかと。
わたくしは、そっとアレクシス殿下から視線を外し、セドリック王子に向き直った。
「……少しだけなら、お話を伺います」
その言葉に、アレクシス殿下が絶望したような声を漏らした。
「エレノア……!」
セドリック王子は満足げに微笑む。
「ありがとうございます。では、こちらへ」
わたくしは、ざわめく学園の中を、セドリック王子と共に歩き出した。




