17話『月の灯に溶ける口づけ』
「レオニス、もう大丈夫」
私がそう声をかけてやっと、彼の手が止まった。
しんとした夜気が満ちる。
外では風が木々を揺らし、遠くで波が微かに返る音がする。
布団の中で、私は顔を埋めたまま呼吸を整えた。
月明かりが薄く差し込み、部屋の灯火と溶けあって、静かな影を落とす。
その影がふいに揺れる。
衣擦れの音とともに、そっと布団の端がめくられた。
「……顔が見たい」
掠れた声が、夜の空気に溶ける。
光の筋が差し込んで、頬まで真っ赤に染まった私の顔を照らした。
レオニスの瞳が、月光を映してきらりと光る。
その視線に捕らえられ、身動きができない。
「セレーネ」
指先が頬に触れた。
灯の温もりが滲むように、胸の奥がまた熱を帯びていく。
「……口づけをしてもいいか?」
掠れた低い声が、夜気を震わせた。
胸の奥がひゅ、と鳴る。
その問いは、命令ではなく、確かに“許しを乞う”響きをしていた。
「……そんなこと……」
問い返したつもりだったのに、声が掠れて言葉にならない。
レオニスの指が、そっと顎の下に触れる。
ゆっくりと、逃げ道を塞ぐように顔を上げさせられた。
月光が彼の睫毛を白く縁どる。
その距離の近さに、息をすることさえ忘れる。
「嫌なら、言え」
唇が触れる寸前、微かに震えながらそう呟いた。
次の瞬間、柔らかな熱が静かに重なり、灯火がかすかに揺れた。
最初は触れるだけの口づけだった。
けれど次の瞬間、彼の指が頬から後頭部へと滑り、逃がさぬように包み込む。
唇の温度が深くなる。
息を吸うたびに、胸の奥で何かが溶けていく。
「……んっ」
触れた箇所が熱を持ち、頭の芯まで痺れるような感覚が広がる。
「やめてほしいなら、止める」
低く囁かれて、首を振ることしかできなかった。
その仕草に、彼の喉が小さく鳴る。
次の瞬間、深く、貪るように唇が重なった。
灯火がふと消えかけ、月光だけが部屋を照らす。
銀の光が、絡み合う影を滲ませていた。
唇が重なって、どれほどの時間が経ったのか分からなかった。
ただ、互いの息が混ざり合い、月の光だけが静かにその輪郭を照らしている。
「……セレーネ」
低く、囁くように名前が呼ばれる。
その声が、唇越しに震えを伝える。
彼の指が頬をなぞり、髪を撫で、首筋へ。
触れられるたび、身体の奥が熱を帯びて、理性が少しずつ形を失っていく。
舌が絡む。
甘く、静かに、けれど確かに貪るように。
彼の息が頬に落ちるたび、胸の奥が小さく軋んだ。
「もう……」
言葉にならない声が漏れる。
けれどレオニスは応えず、ただその唇で、また私を塞いだ。
何度も、何度も。
夜の深さに比例するように、接吻は深まり、途切れることなく続いた。
月光が淡く滲む。
消えかけの灯火が静かに揺れ、二人の影だけが、ひとつに溶け合っていく。
熱を帯びた吐息が頬をかすめ、ふたりの距離は少しも遠のかない。
「……まだ、足りない」
その響きに、胸の奥がざわめく。
再び唇が触れた瞬間、それはもう穏やかなものではなかった。
むさぼるように、確かめるように。
まるで――初めてキスを覚えたかのように、不器用で、切実な熱を帯びていた。
息が合わなくなるほど近くて、どちらの鼓動が早いのかわからない。
唇の隙間から漏れる息さえ、甘く震えて絡み合う。
理性を保とうとするのに、触れ合うたびに、もっと深く沈んでいく。
息を整えようとするたび、彼のぬくもりが肌に残っているのがわかる。
――どうして。
どうして、こんなにも胸がうずくのだろう。
拒めばいい。
それなのに、身体は正直に彼を求めていた。
触れられるたび、痛いほど心が脈を打つ。
まるで、愛しいという感情がそこに生きているみたいに。
でも、ダメだ。
私はこの先の未来を知っている。
深みにはまって、また痛い思いをするのは嫌だ。
――それなのに。
レオニスの腕の中にいると、その考えが遠い夢のように霞んでいく。
苦しいのに、温かい。
ふと、先程の夜を思い出す。
光街灯が川面に滲み、金糸の波がゆらゆらと揺れていた。
風に髪をさらわれながら、彼は何も言わずにその景色を見つめていた。
――クスリと笑ったレオニスの顔を思い出す。
あの時、胸の奥が熱くなって、その気持ちに気づかないふりをした。
もし、この時間がずっと続くのならと考えが過ぎる。
胸の奥が痛くてたまらない。
触れているのに、どこか遠い。
手を伸ばしても、いつかは届かなくなる。
これはただの情、同情、あるいは一時の錯覚。
そう言い聞かせるたびに、胸の奥が締めつけられる。
どうして――こんなにも苦しいのだろう。
なのに、触れられるたび、理性が音を立てて崩れていく。
この想いを育ててはいけない。
この温もりを、願ってはいけない。
だって、この先には“終わり”が待っているのだから。
この人は、リディアの元へ必ず戻る。
その未来を受け入れているのに、どうしてこんなにも――抗えないのだろう。
胸に残るぬくもりを両手で押さえつける。
まるで、その熱を心の奥に封じ込めるように。
――お願いだから、これ以上、惹かれませんように。




