16話『夜に溶ける距離』
レオニスと入れ替わりで湯殿へ向かった。
トルネアの宿の浴室は想像以上に広く、湯けむりに花びらが浮かんでいた。
香料のほのかな匂いと、静かな湯音。
思わずため息がこぼれる。
――夢みたいな夜。
でも、現実の私は“セレーネに借りた身体”でここにいる。
そんな矛盾を湯に沈めるように、
しばらくぼうっとしていた。
*
部屋に戻ると、
明かりがまだ灯ったままだった。
ベッドの上には誰もいない。
ソファには、黒い上着を羽織ったままのレオニスが座っていた。
「……起きてたんですか」
思わず声が小さくなる。
寝ていると思っていたのに、彼はこちらを見た。
「足の包帯を」
そう言って、いつの間にか手にしていた薬箱を軽く掲げた。
「そこまで気を遣わなくても――」
「俺が気になる」
短い言葉に、言い訳がすうっと消える。
抵抗もできず、促されるままにソファへ腰を下ろした。
膝をついた彼の指が、湿った足首に触れた。
冷たさと熱の間みたいな感触に、心臓が跳ねる。
「湯の香りがするな」
穏やかな声。
それだけの言葉なのに、どうしてこんなに近く感じるの。
「……トルネアの湯、いい香りでしたから」
うまく笑おうとしたけれど、自分の声がわずかに震えているのがわかった。
「嫌じゃないか?」
「……へ?」
不意に落ちた低い声に、反射的に顔を上げた。
レオニスは視線を落としたまま、包帯を巻く手を止めている。
「触れるなと、言っていたから」
その真面目すぎる声音に、思わず口ごもった。
い、今さら……?
気づけば小さく笑っていた。
この人は、こういうところだけ律儀すぎる。
「て、手当てですから……」
そう言って誤魔化すように目を逸らす。
けれど足首に触れる指の感触が、妙に意識の奥に残って離れなかった。
「……でも」
彼の指先が少し動く。
包帯の隙間をなぞるように、ゆっくりと。
「足がむくんでて、ひどいんです。だから、あんまり見ないでください」
恥ずかしくて、声がどんどん小さくなる。
沈黙。
それから、かすかに息を吐く音。
「気にするな。俺は綺麗だと思う」
その一言に、心臓の音が跳ねた。
沈黙が落ちる。
包帯を巻き終えた彼の手が、ふと止まった。
「嫌でなければ……」
「えっ」
顔を上げると、レオニスは真剣な表情で私の足に視線を落としていた。
「むくみを取る。……痛みが出る前に、流しておいた方がいい」
「え、まさか……脚のマッサージってやつですか!?」
「そうだ」
「ていうか、そんなの自分でできますからっ」
「……俺のせいだ」
「え?」
ふいに落とされた低い声。
レオニスは視線を下げたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「馬車の中で、長い時間おまえに膝枕をさせた。
あれで、余計に血が滞ったんだろう。……すまない」
謝る必要なんてないのに。
真っ直ぐで、不器用で、優しすぎる声音に息を呑んだ。
「そ、そんな……気にしてませんから! だって、あれは私が――」
慌てて否定しかけた瞬間、指先が足首に触れる。
温もりがゆっくりと伝わってきて、思考が一瞬止まった。
「嫌ならやめる」
頬が熱くなる。
私が何か言おうとした、その瞬間。
「……ここでは冷える」
低い声。
言葉と同時に、そっと身体が浮く。
「ちょっ……!」
驚く間もなく、軽々と抱き上げられた。
胸の奥で、心臓の音が跳ねる。
「れっ、レオニス!?」
短く言い切る声が、耳元に落ちた。
息がかかる距離。
近すぎて、視線のやり場に困る。
そのままベッドに降ろされる。
ふわりと毛布がかけられた。
「……ここなら冷えない」
低く落ち着いた声。
けれど、近すぎる距離に呼吸が乱れる。
「ほら、足を」
「え……?」
「ここで、ほぐすから」
「えっ、あの、でもベッドの上でって……!」
「床より柔らかい方がいい」
迷いのない返答に、言葉が詰まった。
膝の下に彼の手が添えられ、指先が静かに押し流していく。
「っ……」
息が漏れる。
痛みではない。むしろ、じんわりと温かい。
それが余計に、心臓を落ち着かせてくれない。
「我慢しなくていい。痛むなら言え」
「い、痛くないです……!」
慌てて否定した声が少し上ずる。
レオニスは黙ったまま、淡々と続けた。
まるでその手つきが、すべてを知っているかのようで。
――ずるい。
沈黙のなか、ふと彼が口を開いた。
「……もう少し強くするか?」
「だ、大丈夫です! それ以上はっ……!」
「そうか」
短く答えた声がやけに優しい。
ってか、優しいんだけどっ、そういう問題じゃない。
触れた指は、思っていたよりも硬かった。
剣を握る人の手。節ばった骨の感触が、肌の上に伝わってくる。
けれど、その動きは驚くほど丁寧で――まるで壊れものに触れるようだった。
この世界に来て初めて私を抱いた同じ男とは思えないほどに。
押し流す指の跡を追うように、肌の奥から熱がゆっくりと滲み出していく。
冷たかった足先が次第にあたたまり、それと反比例するように、胸のあたりばかりが熱くなっていく。
その手は、冷たくもなく、温かすぎるわけでもない。
ただ静かに、確かにそこにある“体温”で。
変な気分になる。
ただ、胸の鼓動だけが落ち着かない。
心臓の音がやけに大きく響いて、自分のものじゃないみたいだった。
息を呑むたび、彼の手がほんのわずかに動く。
その度に、熱がまた一段、深く沈んでいく。
――夜の静けさが、余計にそれを際立たせていた。
沈黙。
互いの呼吸音しか響かない部屋。
どうしよう。
足のマッサージなのに、身体が火照る。
触れられているのは膝下のあたりだけなのに、
そこから伝わる熱が、まるで全身を巡っていくみたいで。
息を吸うたび、彼の手の動きがわずかに止まり、
そのたびに、心臓が勝手に跳ねた。
見てはいけないと思うのに、視線が勝手に彼の手を追ってしまう。
大きくて、節の浮いた手。
軍人のそれなのに、不思議と、ひどく優しい。
――この人の手が、こんなにも温かいなんて。
胸の奥で何かがじんわりと溶けていく。
そして不意に。
レオニスの唇の熱が、肌に落ちた。
呼吸が肌にかかる。
顔を上げられない。
肌の上をかすめた息の温度だけで、
足先まで一瞬にして熱くなる。
触れたかどうかも分からないくらいの“何か”が通り過ぎる。
心臓が跳ねる音を、誤魔化すこともできない。
「嫌なら、言ってくれ」
小鳥が餌をつまむように、軽く肌の上をレオニスの唇が刺激する。
「くすぐったいです」
誤魔化すようにそう言って、私はのがれようと脚を引く。
だが、微動だにしない。
膝上にあった手が、肌の上を滑るように太ももを上がってくる。
その瞬間、ビクンと身体が跳ねた。
「くすぐったい?」
「くすぐったいです、っていうかそれマッサージじゃないですよね」
「すまない、つい」
つい!?
「足を舐め回したくなった」
おいおいおい!!いつから変態ヒーローになったの!!
「嫌か?」
毎回それ聞くの反則でしょ。
「嫌です」
そう言ったのに、レオニスは私の片方の脚を高らかに上げると、肌の上に舌を這わせた。
「……んっ」
不意に、生々しい声が口から漏れてしまった。
「甘い香りがする」
嫌かと問いかけるくせに、全く止めようとしないレオニスは、軽々と持ち上げた私の脚を器用にもみほぐす。
悔しい。
それは気持ちいい。
片方の手は確かに揉みほぐしてくれてはいるけど、オプションに舌がついていて、おまけに空いた手でさするように肌の上を滑らせるものだから、身体が度々跳ねてしまう。
嫌だと振り払うのは簡単だけど、そうしないのは、私も本当に嫌だとは思わないから。
そして、レオニスはそれ以上のことはしないから。
次第にもどかしくなってきて、私の呼吸も乱れてくる。
「セレーネ」
私の名を呼び、ざらつく舌を脚に這わす。
何度も、何度も。
おかしくなりそうだ。
次第に身体が自然とよじれて、私はくるまった毛布に顔を埋めた。
息が上がっているのを知られたくない。
「レオニス、もう大丈夫」
私がそう声をかけてやっと、レオニスの手が止まった。




