立つ鳥の痕ー①
雅芸宮の朝は早い。
庭の草花についた夜露が干上がらぬうちに朝の調べを翡翠仙女に捧げ、一番星のきらめきとともに夕方の調べを奉納するまで、宮妓らはひたすら歌舞音曲の修練に励む。
翡翠仙女への奉納のほか、宮中祭事や行幸、賓客の歓待、慰問など、宮妓の活躍の場は広いものだ。ゆえに、空が明るいうちに雅芸宮から音が消えることはほとんどない。今朝もすでに宮内のいたるところで管絃が鳴り、歌声が響き、舞姫らの袖や裾が風にひるがえっている。
「早いな」
背後から声がして、岳晋は振り返り、礼をとった。雅芸宮の主である宇士雲が、目鼻立ちのよい細面をあくびの形にゆがめながら露台に出てくるところだった。
「おはようございます。士雲殿」
「ああ、おはよう。今朝も変わりないか」
「はい。朝の奉納もつつがなく終了いたしました」
うなずき、士雲は露台の先で風に吹かれながら広く雅芸宮を見渡した。
この白皙の青年は三つ年少だが、二十歳にして帝からじかに大役を賜ったほどの人物である。生まれは代々高官を輩出する国内屈指の名家で、実父は今上陛下の片腕にして実母は先々代の皇妃の姪御という希代の血筋。高位を示す漆黒の官服をまとい、威風堂々と頂に立つその姿は同性の目から見ても惚れ惚れする。幼少の頃より傍に仕える岳晋にとってはなおさら、しゃんと伸びたその背が誇らしい。
「なんだ、じっと見て」
「いえ。今日はよい天気だと」
振り向く士雲にそう言ってごまかしながら、彼に倣って雅芸宮を見渡した。
四の殿舎と一の楼閣、それぞれをつなぐ丹塗りの回廊と、四の広場、八の池、間を埋める緑豊かな大小さまざまな庭園。一般に「街ひとつ」と形容される雅芸宮の敷地は、じかに歩いてみると広大にして複雑に感じるが、こうして俯瞰して見ると左右対称であり、きわめて整然とした造りになっているのがよく分かる。
四の殿舎のうち北に位置するここ――『黒曜殿』は、士雲を筆頭とする文官武官、さらにその下で実務にあたる女官たちが常時詰めている、いわば雅芸宮の管理部門である。外につながる唯一の門と、雅芸宮を囲う高い壁が殿舎の一部となっており、士雲の執務室から直接出られるこの露台は雅芸宮全体の様子をうかがうのにうってつけだ。
黒曜殿から見て左手――西には歌舞音曲のうちもっぱら歌を極める宮妓たちが集まる『紅花殿』があり、東には舞姫たちが集まる東の『耀風殿』、もっとも多くの宮妓を抱える器楽奏者のための南の『白星殿』と続く。
士雲は宮妓が過ごすそれらの殿舎にくわえ、雅芸宮の中心――池の中に建つ天鵬楼の最上階までじっくりと己が目で確かめる。そうして最後に岳晋の方に鼻先を向け、
「夜雀はどうだ」
「被害の申告はございません。静かな夜ももう五日目……解決したと考えてよいかと」
「そうか」
ようやく、彼は満足したように肩を下げた。
『――夜雀が啼いて、眠ることができません』
そんな奇妙な相談事が二人のもとに持ちこまれたのは、半月ほど前のことだ。
実際の事の起こりはさらに十日前で、みな、当初はどこぞから雀が迷いこんだのだろうとさして深くとらえていなかったが、報告からさらに五日の間夜雀が啼き続け、またその被害が白星殿に集中しているという不可解な点もあって、これは野生の鳥のすることではないと認識が改められた。
以降、士雲は深夜帯を中心に、黒曜殿の露台から闇に沈む雅芸宮を監視し続けていた。
あいにく白星殿は黒曜殿と対極の位置にあるため、実際に問題の鳴き声を確認することはできなかったが、それでも、彼はみずからの職責をまっとうすべく連日連夜この部屋に泊りこんでいたのである。
激務が災いしていっときは死人のように青ざめていた顔もようやく元通りの血色を取り戻しつつあり、周囲の者たちは二重に胸をなでおろしていたところだった。
「……結局あの娘の言うとおりに事が運んだというわけだな」
豊かな袖を揺らしながら室内に戻り、士雲は黒檀の机の上に三つ並んだ小鳥の笛のうち、端のひとつを手に取った。
その小鳥の、どこかとぼけたような目と、つんとつきあがったくちばし。
なんとなく売主の顔に通ずるものを感じながら、岳晋は深くうなずき同意を示した。
「女性の中で起こった騒動を収めるには女性の発想の方が適していたということでしょう。あの日繊月殿にお目にかかれたのは僥倖でございました」
掛け値なしの称賛だった。
繊月から買い受けた笛を持って、繊月の助言に忠実に荷検めを行ったところ、笛こそ発見されなかったものの夜雀被害の報告がぴたりとなくなったのだ。
悪戯程度なら、加害者を糾弾するよりも被害者が安眠できるようになることの方が重要――まさに彼女の言うとおりのところに落ち着いたことになる。
「興味深い方でしたね」
士雲のために椅子を引いてやりながら、岳晋はあらためてその人を称賛した。
「見かけは同年代の女性となんら変わりないように見えて、立ち振る舞いは熟達した高官のようでした。頭の回転は速いですし、弁舌も立ち、目端も利いて――」
と、そこで唐突に鴨子の笛を突き出し「吹き矢ではありません」と真剣に訴える、真面目に愉快な姿が浮かんで笑ってしまいそうになった。
「なんだ?」
「――いえ。まれに見るすぐれたお方でございました。女官の中に繊月殿のような方がおられたら、此度の騒動もああ手こずることはなかったのでしょうね」
「あんな生意気な女官などいてたまるか」
たちまち士雲が不機嫌になって、どかりと椅子に腰を下ろした。
初対面で軽くあしらわれたことをしつこく根に持っているのだ。腹いせとばかりに小鳥の笛をこねくり回している。
その様子は威嚇してきた猫に腹を立てるようで少しおかしいのだが、
「だいいち、鴨子のような女官がいたら『猪』が荒ぶるだろう。面倒だ」
という意見には、同意せざるを得なかった。
猪とは当代雅芸宮の女官長・陸媛清のことである。
その人の立派な体型と、よくも悪くも物事に一直線に猛進する気質が猪さながらであることから、その呼称がついた。
今回の夜雀騒動にしても、「野生の雀の仕業である」と決めつけ報告を怠ったばかりか、その判断が誤りであると指摘してもあれこれ弁明するばかりで未だに非を認めない。宮妓として現役であった頃の功績があって、女官となったのちも厚遇されてきたようだが、肩書ばかりで中身が伴っていないのは明白だ。
そういう意味では確かに、士雲にすらおもねらない繊月とはとうてい合いそうにない。
「まったく。猪といい『鴉』といい、寝床でじっとしていればいいものを……」
士雲のぼやきに、岳晋は顔をあげた。
「外部で何かございましたか」
「ああ。夜雀の件が陛下の耳に入った。鴉どもが騒いだのだろう」
たちまち指先まで緊張が走った。
猪同様、鴉もまた士雲が特定の相手を指して使う呼称だ。
こちらは個人ではなく、集団。
黒服をまとう官人の中でも比較的高位にある者たちで、濡れ羽色の官服をまとい、鴉のように群れては騒ぎ立て、縄張りを奪い、利を狙う――漆黒をまとう士雲にとっては、その多くが彼の地位を揺らがしかねない警戒すべき者たちだ。
猪たる女官長とは別次元で厄介な存在である。
「……陛下から、何かお咎めが?」
「問題ない。私に一任すると仰せだ。だが、鴉は気ままにわめく。方々で好き勝手にふれまわっているようだ。荷検めで犯人を逃した、策を打った者の責を問え――とな」
「荷検めを主導したのは私でございます。罰してまるくおさまるのでしたらいかようにも」
頭を低くすると、すぐさま士雲のあきれ顔が振り向けられた。
「何を言っている。結果的に夜雀が啼きやんだのだ、そなたはむしろ功労者であろう。連中はただ難癖つけて私の手足を奪いたいだけだ。不快なさえずりを聞くこともあろうが、惑わされるな。言いたいことはそれだけだ」
「……承知しました」
応じながら、しかし気持ちが濁ってゆくのは止められなかった。
夜雀騒動について、雅芸宮ではすでに円満解決の潮流にある。犯人は挙がらなかったが平穏な夜を取り戻し、抜き打ちの荷検めで生まれかけた宮妓らと文官武官の軋轢も、どうにか穏便におさめたところである。今さら外で騒いでくれるなというのが本音だ。
「若さま。銀丈でございます」
廊下で訪いを告げる声があった。
急ぎ戸を開くと、「やあ岳晋」と、華々しい美貌の男がにこりとする。
李銀丈。士雲の補佐を務める文官だ。まとう官服は鈍色――黒と灰色の中間で、位としては中級程度が、それは職務にとらわれないためのあえての位付けだと、一部の者は承知している。
護衛としてつねに士雲の傍に控えている岳晋とは違い、彼は一日の大半を宮内の巡回に費やすのだ。表向きは宮妓らの御用聞きとして。しかし実際は宮妓らの監視のために。
彼は士雲の目であり、耳なのである。
そんな彼が朝も早くから訪ねてくる妙に、岳晋は思わず声を暗くした。
「何かございましたか、銀丈殿」
「ああ、若さまにお目通りを、という宮妓がいてね。取次ぎを頼むよ」
ゆるい口調で答えた彼の後ろには、半分子どものようなおさげ髪の宮妓が、落ち着かない様子で控えていた。
白星殿の宮妓だ、とひと目で分かる。
宮妓たちは所属する殿舎に通じる色合いの衣服を――紅花殿なら赤や桃色、耀風殿なら黄や橙、白星殿なら緑や青を――身に着けるからだ。これはなにも規則として定められているものではないが、自前の衣装を用意できない者はそれぞれの殿舎にちなむ色合いの衣装を貸与されるため、私服をまとう者もおのずとその配色に倣うのだ。
その宮妓は薄青の貸与の衣装をまとっていた。
顔つきからして幼く、宮妓としても日が浅いのだろう、礼のとり方もぎこちなく、あいさつも拙い。本来なら雅芸宮の主である士雲の前に出るべき者ではなかった。
なぜこんな者を――と、少し不審に感じているかたわらで、銀丈に「さあ」とやさしく促された宮妓は、緊張しきりの様子でその場に平伏し、こう申し立てるのである。
「白星殿の二の池に、小鳥の笛が浮いてます――」




