唄う鴨子―③
しかして迷子は無事親元へと帰り、繊月は大満足のうちに肩で息をついた。
「ありがとうございます、お武官さま。助かりました」
振り仰いで礼を言うと、武官は襟を直していた手を止め、
「私は何も。あなたの方こそ、見事なお手並みでございましたね」
と、にこやかに返した。
武官らしからぬやわらかな物言いである。このあたりは都の中でも端の方――庶民が庶民らしく暮らす一帯で、日常的に見かける武官は他者に対して横柄であったり粗暴であったりするのがつねだから、彼の立ち振る舞いは少し――いやかなり新鮮だ。
よく見れば顔立ちからしてやさしげで、目元の涼やかな美男でもある。はじめこそ怯んでしまったその大きな身体も、今や力強さと頼りがい以外に感じるものもない。
(いやしかしほんと、すばらしい肉体美……)
口を開けっ放しにしているのにも気づかずその立派な胸筋に見惚れていると、武官がふと不思議そうな顔をした。
「よく武官だとお分かりになりましたね」
そこで繊月ははっと我に返って、「そりゃあ分かりますよ」と、胸に手をやり力強くうなずく。
「筋肉がとても美しいので」
「……はい?」
「ああ、筋骨隆々でいかにもお強そうだということです。それに――」
ついつい漏れた本音をもっともらしく言い換えながら、繊月はにっこりして指先を下に向けた。
「履物が、武官の方々が愛用なさるものだと思って」
指摘した瞬間、彼の履く長靴の底がざりっと地面の小石を擦った。
武官の視線がすばやく上下する。すわ警戒させてしまったかと思ったが、ふたたび目が合ったときにはその口元にはやわらかな笑みがのぼっていた。
「この短い間によくご覧になっていましたね」
「お武官さまがあの子を抱き上げたから目に入ったんですよ。おやさしいんですね」
「そんなことは」
「謙遜したところでもうばれてしまってますよ」
恐縮する武官を軽くからかって、繊月は少々大げさに左右の袖を重ねる礼をとった。
「なにはともあれ、お声がけいただいたのがお武官さまでよかったです。おかげで早々に解決できましたし、気分よく仕事に行けます」
「お仕事ですか。では、お時間ちょうだいするのは難しいでしょうか」
「へ?」
「少々お話をうかがいたいのですが」
半端に袖を浮かせたまま、繊月は目をぱちぱちさせた。
「……あの子を泣かしたのを見咎めて足を止められたんじゃなかったんですか」
「子どもの涙を拭っている方を咎める理由はございませんね」
もっともな話である。納得する一方、ではどうして――とさらに疑問を口にしようとしたとき、武官の目線が繊月の肩の向こうにちらと流れた。それと同時に背後で立ち止まる足音があって、繊月は反射的に振り返る。
瞬間、その姿が目に入るより先にその人が香った。
庶民の身では名も分からない、いかにも高級そうな香の匂いが漂ったのだ。
(お偉いさんだ)
察したときには、いかにも良家のご令息らしい雅やかな装いの男が横顔を見せていた。
思いのほか若い――繊月とそう変わりない年の頃の、細面の美男である。育ちの良さがひと目で分かる足運びで悠々繊月の正面に回ったかと思うと、当たり前のように武官を従える位置に立ち、ゆらりと袖を払うように振り向く。
切れ長の目から視線が流れた。
「そなた、めずらしい笛を持っているな」
何の前置きもなくその人は言った。
起伏の少ない口調だ。それでいて、表情もない。ただ痺れるような緊張感だけがそこにあって、繊月はいそいそと袖を掲げ、その内側で細い息を吐く。
(……真正のご令息だよ、これ)
背丈は武官の肩ほどしかないにもかかわらず、思わず息を呑むようなこの威圧感。
関わってはならないと直感が告げているが、つい今助け合ったばかりの武官に答えを促すようにうなずかれたのでは、知らんふりするわけにもいかない。
ひと呼吸する間だけ葛藤し、仕方なく、繊月は袖の内側で「はい」と返事をした。
「笛と言っても、おもちゃのようなものですけど」
「そうであろうな。雅やかな音ではなかった」
「そういう笛ですので」
なにせガアガアとやかましい笛だ、奏楽にふさわしいものでないことは確かである。
しかしそれがなんだというのか。
鴨子の声で耳を汚したとか、騒々しいだとか、難癖つけられるのか。もしや花嫁行列から苦情の訴えでもあったのか。
どうにも落ち着かない気分で、何事かささやき合う二人の男を盗み見る。
あらためて、下町の風景にはそぐわない、洗練された二人組だ。
花嫁行列見たさに集まっていたはずの婦女子の視線をきれいにさらっている。なりゆき彼女らの視界に入る繊月は、さながら白鳥の群れに紛れこんだ鴨子を見るような目をされていた。とんだもらい事故である。
(いったい何の用なんでしょうね……)
考えても予想がつかず、繊月はそろりと後ずさりした。
これから仕事に出かける身としては、揉め事は御免だし、面倒ごとも御免だ。いざとなったら全力でこの場を逃げ出さねばならない。さらにそろりと距離をとる。
と、そのとき踵がこつんと何かにぶつかって、繊月は眉をよせて振り返った。とたん、いったいいつからそこにいたものか、これまた見知らぬ男の笑顔がずいと迫ってくるから臓腑が口から出そうになる。
「どこ行くの、お嬢さん。若さまの話はまだ終わってないよ?」
男は華の笑顔でやたら甘やかな声を放った。
明らかに三人目である。
こちらは肌の白い女顔で、長い睫毛と微笑む口元に壮絶な色気を漂わせた美形である。
「……ふ、伏兵……」
「いやだな。そんな物騒に見える? ほら、虫も殺せなさそうな顔をしてるでしょ」
しかも面倒くさそうな人である。繊月は瞬時にその美しい顔に背を向けた。
(今日は美男の見本市でもやってるのか)
半ば投げやりに考えながら、袂にしまっていた鴨子の笛をつかみ出す。
こういうときに怯えず震えず、かえって腹が据わるのは性分である。
逃げられないのなら攻めるしかない。
攻めるなら先手必勝。
繊月は勇ましく口火を切る。
「この笛に何かご用ですか」
右手を突き出したその瞬間、武官とご令息が同時に振り向いた。
すばやく視線をかわしたのち、答えたのはご令息の方だ。とがった顎をぐいとしゃくって見せる。
「それで雀の鳴き真似ができるか」
「雀? これは鴨子の笛です。鵞鳥や、豚の鳴き声に近づけることはできますが――」
「雀だと言っている」
「できかねます」
しかめ面になりそうになるのをこらえながら、やや強めに言い直す。
偉い人はそれなりに尊敬するが、偉そうな態度には寛容になれない、これもまた性分である。
「その笛では不可能……ということは、ほかの笛なら可能ということですか」
今度は武官がたずねてきて、繊月は「そうですね」と軽くうなずき指を折った。
「梟に郭公、鶯に隼、もちろん雀も……さえずりを真似られる楽器は多くあります」
「お詳しいのですか」
「うちは楽舗ですから。いくらか扱いがあります」
答えた瞬間、彼らをとりまく空気がさっと変わった。ご令息がずいと近づき、上から威圧するように睨んでくるのだ。
「そういうことは早く言え」
「申し訳ありません。下賤の者が高貴なお方に無駄に口をきいてはならないと思いまして」
「――殊勝な台詞とその表情がまったく合っていないようだが」
「あいにく生来このような顔です、ご容赦ください」
真顔で言い返してやった。
その物言いに武官が面食らい、背後の美形がふきだし、ご令息はと言えば頬を引きつらせたが、まるごと気にしないことにする。
ここで別れれば二度と会うことのない相手である。何も怖くない。
繊月はすっかり開き直り、すまし顔で礼をとった。
「おみ足をお止めするのも恐縮ですから、失礼いたします」
「――待て。我らは雅芸宮の者だ」
その瞬間、繊月は腰を折ったままぴたりと動きを止めた。
「……雅芸宮?」
「ああ。そなたのようなきわめて庶民的な楽舗の娘なら生涯一度は縁を持ちたいだろう、あの雅芸宮だ」
勝ち誇ったようなご令息の声がつむじに降ってくる。
「……そうですか。雅芸宮のご関係者さま。なるほど、なるほど」
繊月は、ゆっくりと顔をあげた。
急に温度の下がった声に相手方は警戒的な表情だが、些末なことだ。
繊月はすっと背筋を伸ばすや会心の笑みを浮かべ、
「あいにく死んだ母から雅芸宮に関わるなと言われています」
「――は?」
「では、そういうことで」
雑に一礼し、袖を振っていっきに大路へと駆け出でる。
「あっ! そなた、待て!」
とたんに苛立った声が背中に投げつけられた。
背後の美形が「おお、大胆」と笑う。
武官が追ってくる気配もはっきり感じた。
しかしすぐに花嫁行列と行き会って、振る舞い菓子に殺到する人々の中にえいと飛びこんだら、それまで。
小柄な繊月はあっという間に人波にまぎれ、見事に逃げおおせたのである。




