その羽は、漆黒ー⑭
「繊月さま、申し訳ありません。まさかこんなことになるなんて」
「大丈夫ですよ。なんとかなります」
青い顔をする旺喬を励ましながら、繊月はゆるりと前を向いた。
強面武官らに追いやられるように白星殿を出、黒曜殿へと向かっているところである。
二人の前後左右はその強面武官らがぐるりととり囲んでおり、さながら罪人の移送のようである。そのうえ「もたもたするな」だの「さっさと歩け」だのとやかましく言われるのだから、不満で頬が弾けそうだ。
繊月としては、まだ支払いを受けていないし、請求書だって出していない、取引として成立していないのだから不正ではない――という認識だ。
もちろん声を大にしてそれを主張したのだが、強面武官らには鼻で笑われている。
その態度にかちんときて、「士雲さまに直接説明します」と虎の威を借る作戦に出たのだが、これも鼻で笑われた。
結果、繊月の中でこの強面集団はすでに憎き敵という認識である。
(だいたい、不祥事が起こって困るのは雅芸宮の方でしょ)
包袱を抱きしめふんと鼻息を荒くする。
とりわけ士雲は監督責任を問われる立場だから、不正など存在しなかった――という結論で締めくくるしかないはずなのだ。
この呼び出しだってきっと形式的に事情を聴かれるだけ。
適当なところで金額を修正すると申し入れればすぐに承認され、一件落着となるに決まっている。
(――ただ気になるのはこの人が黙ってるとこ)
繊月はしんがりにつく銀丈に視線を送った。
にこりとよそ行きの笑みを返された。いらっとした。
胡散臭いほど馴れ馴れしいのが取柄であろうに、彼は先ほどからやけによそよそしいのである。
妙に距離を置いているし、「鴨子ちゃん」と呼ぶこともしない。それどころか目を合わせることもしない。
当然不審であるし、なんとなく強面武官らの目を気にしているような様子もあるので繊月も合わせているのだが、何かあるなら情報をよこしてくれと思う。
状況も分からないまま無策で飛びこむのはさすがに怖い。
探りを入れる時機をはかっているうちに、黒曜殿に到着してしまった。
階段を上がれば士雲の執務室である。もはや猶予がない。どうするか。
と、右に左に目玉を動かしていると、視界の端に美しい筋肉の持ち主がいるのに気がついた。
目が合った――と確信したら、迷うことなくみずからの裙の裾を踏んづける。
転んだ。派手に転んだ。
すぐさま旺喬が「繊月さま、大丈夫ですか!」と駆け寄ってくる。強面武官らは「どんくさい娘め。立て」という非情ぶりだがこれを聞き流し、繊月はその場に座りこんだまま大げさに顔をしかめた。
「足捻りました。死ぬほど痛いです。おぶってください」
掴んだのは銀丈の袖である。左右の目に強烈な念をこめて見つめれば、美男の皮をかぶったこの曲者文官は、「うーん、僕の細腕にはちょっと難しい任務だねえ」と愉快そうに笑う。
「じゃあ代わりの人呼んでください。若くて力持ちで好感度の高いお武官さまがいいです」
「注文多いな」
真顔で返されたときには、うってつけの人物が彼の背後に現れていた。
「あとはお引き受けします。銀丈殿は先に旺喬殿をご案内ください。すぐに追いつきます」
なめらかに言って、期待通りの偉丈夫、白岳晋は繊月のそばで膝をつく。大丈夫ですか、と何食わぬ顔で脚の具合を確かめようとし、繊月は繊月で「痛い、泣きそう」と喚く。完璧な合流だった。
「じゃあ岳晋、そっちはあとで連れてきて。ゆっくりでいいから。旺喬さま、参りましょう」
こちらも完璧な間合いで、銀丈が一行を誘導しはじめた。本気で心配しているのだろう、旺喬は何度も振り返るが、強面武官らは素通りだ。都合のいいのことだが、彼らよりも官服の黒が深い岳晋に、会釈すらしないのはどういうわけだ。内心首を傾げていると、
「――女のお守りか。似合いだな」
上段から嘲笑が降ってきて、繊月は即座に声を尖らせた。
「今何か聞こえましたけど」
「空耳ですよ」
答えたのは岳晋である。
振り向きもせず繊月の足首に視線を注いでいる。放っておけということらしい。
いちおう彼の意図を汲んで黙ったが、繊月の目は強面武官らの背を睨み、口唇は自然と嘴さながらに突きあがった。
みな揃いも揃って薄笑いを残して去っていくのだ、気に食わない。
「なんなんですか、あの人たち。さっきから態度悪すぎなんですけど」
一行が階上に消えたあと、憤慨あらわに訴えると、岳晋は静かに「憲台です」と答えた。
とたん、嘴の口がいっぺんに大きな輪の形に変化して、素っ頓狂な声が勝手に飛び出す。
「憲台って、あの憲台ですか!」
他国では監察などと呼ばれている、文武百官を取り締まる特別な官職のことである。
時に白を黒に替えてしまうほど強い権力を持っているため、世にあまた存在する読み本の中では敵役や嫌われ役として描かれることが多い。
実際、この鷹揚な武官がまともに相手にしないくらいだ、各方向から嫌われていそうである。
「でも、どうして憲台が雅芸宮に? そんな大事になってるんですか」
「正直、状況はよくありません」
周囲に気を配りながら、岳晋は素早くこれまでの経緯を語った。
それによると、始まりは今朝一番。発端はやはり、旺喬の高額な修理費の支払い申請だった。雅芸宮の会計担当者が高額な修理費を不審に思って士雲に報告してきたその裏で、べつの経路から直接憲台に報告があがっていたのだという。
「それが発覚したのが、憲台が乗りこんできた後でした。こちらは完全に後手に回り、憲台に主導権を奪われているところです」
「だから約束の時間においでにならなかったんですね」
「申し訳ございません。私の判断の誤りです」
岳晋は額を撫でさすり、深いため息とともに悔いた。
士雲のもとに一報が届いたとき、繊月にその金額の妥当性を問うてから対処しては――と彼は進言したらしい。ちょうど午餐の時間に約束していたから、繊月の到着を待つ選択をしたのだ。
「そんなの結果論じゃないですか。ただ間が悪かっただけです」
繊月はきっぱり言った。顔をあげる岳晋に、「それよりも」と額を寄せて確認する。
「今のお話だと、士雲さまはまだ撥の破損や嫌がらせについてご存じないようですけど?」
「はい。そばに憲台が張りついておりますゆえ、お伝えしにくい状況です」
「ということは、士雲さまはただただあの高額請求に困惑しているわけですね。わたしたちはその大半が口止め料だと理解できますけど」
そして修理費に口止め料を上乗せするのが適正であるかと言うと「否」である。
何事も記録に残る雅芸宮では接待や交換条件など金品によらない方法で口止めするのが定石だ。
このあたりを心得ずに馬鹿正直に申告してしまうあたり、いかにも世間知らずのお嬢さまらしい。
「ひとまず、わたしは旺喬さまの取引相手としてうまいこと証言して、まるく収めなくちゃいけないってことですね。――あ、肩お借りします」
方向性が見えたところで、ひと言断り、岳晋の肩に手を添え腰を浮かす。
いちおう右足を痛めていることにして、つま先を軽く持ち上げてみせると、すかさず岳晋も立ち上がり、壊れ物を扱うように支えてくれた。
「おぶっていきましょうか」
「いえ、遠慮しておきます。嘘偽りで筋肉を無駄遣いさせるなんてわたしの信条に反します」
「――はい?」
「それに、ちまちま歩いた方が時間が稼げます」
うん間違いない、と持論の正当性を噛みしめ、繊月はきょとんする岳晋の袖を引き先を促した。
決して急ぎたくはないのだが、時間を喰いすぎて怪しまれては元も子もない。
岳晋の手を頼りにひょこひょこと階段をあがっていく。
もちろん、その間もひそかな声のやりとりは絶えない。
「岳晋さま。いちおう確認です。今の状況なら、説き伏せなくてはいけないのは士雲さまではなく憲台の方――という認識で間違いないですか」
「そう理解していただいてけっこうです。憲台は不正を暴こうと息巻いておりますが、士雲殿は最終的に正しい金額に修正されればそれでよいとお考えです。旺喬殿をお呼びになったのも、糾弾のためではなく疑惑を払拭するためです」
繊月はうなずいた。読み通りである。
「しかし説明がつくものですか。あの金額は、修復分の費用を含めたとしても過剰に思えますが」
「もちろん多すぎますよ。それなりに物入りにはなりましたけど、あの額の正当性を主張するには弱いです」
「ではどうやって説明を?」
足を止めた岳晋を、繊月はひたと見つめた。
「――手っ取り早いのは弱小商人に全責任を負わせて宇可両家の子息息女を守ることです」
とたんに繊月を見る目が大きく開かれる。
「お待ちください。そのような選択をするとお思いですか」
「士雲さまならそういう判断をしてもおかしくないです。現にわたしが旺喬さまを訪ねる時間に憲台を差し向けてますし。明らかに狙ってますよね」
とくに怒る気も、責める気もなく繊月は言った。
お偉いさんとはそういうものだし、庶民とはそういうものだ。
逆に、貴人に付き従っている岳晋がまず真っ先にこの手を採らないのがおかしいのである。甘い、ともいえるのかもしれない。
だが、この気のやさしい武官は「ありえません」と強く首を振るのである。
「仮に士雲殿がそのような手段をとるのでしたら何をおいても私が止めます。この件に関しては繊月殿にはまったく非がございません。あなたをお守りするのが最優先です」
「――そう、ですか……」
「気のないお返事ですね。ひとりで泥をかぶるおつもりならこのままお帰りいただきますが」
鼻先で圧をかけられ、繊月は小さく肩を跳ねあげた。
ちょっと保険を掛けるくらいのつもりだったのに、思いのほか真摯な言葉を返してくるからびっくりする。
「えーと、あの、岳晋さま、誤解です。泥なんかかぶりません。まるく収めないとうちの看板にだって傷がつくんですから、目指すところは一緒です」
つまり無実の証明、汚名返上である。
岳晋が一度階上に目をやった。
「打つ手はございますか」
「向こうさまが無条件に金額の訂正を受け入れてくれるなら楽勝ですけど」
「それは難しいかと。今の憲台は士雲殿と良好な関係にない者ばかりです。生半可なことでは引き下がりません」
「え。待ってください。それじゃあ、不正だのなんだのと騒ぐのはただの嫌がらせ?」
「隙があると見ればいっせいに嘴を突き出してくるのが今の憲台です」
「……嘴」
その時妙な予感が働いた。耳の房飾りを大きく揺らし、岳晋の端正な顔を仰ぎ見る。
「岳晋さま。もしかして士雲さま、憲台の人たちをあだ名で呼んでます?」
「はい。――鴉と」
ちょっと頭を抱えくなった。
たちの悪そうな予感しかしない。
「このまま医務室に寄りましょうか。少し落ち着いて考えを整理した方が――」
「だめです。一刻も早く士雲さまのところに行かなくては。旺喬さまがおかしな釈明をなさったら取り返しがつかなくなります」
「では、もう名案が?」
たちまち期待の色が浮かぶ双眸に、繊月は力強くうなずいてみせた。
「落としどころは全方向痛み分け……わたしももちろんですけど、旺喬さまにも士雲さまにも負荷を担っていただきます。細かいところはあとでどうにかするとして、目下、疑惑を否定して憲台のみなさんにお帰りいただくことを最優先にします。詳しく説明しておいた方がいいですか?」
「いえ。あなたが一刻も早くとおっしゃるならそうするのが最善でしょう。お任せします」
岳晋は笑った。
惜しみなく示されるその信頼に、背筋が伸びる思いがする。




