その羽は、漆黒ー⑮
いちおう怪我人を装い、岳晋に支えられるようにして士雲の執務室に到着すると、なぜか黒装束の男性ばかりが待ち構えていた。
「……あれ? 旺喬さまは?」
思わず部屋を見回すと、
「話にならないゆえご退出いただいた」
低い声が応えた。総首官殿である。
青天の霹靂からの不意打ちで心のゆとりが全滅しているのか、あるいは旺喬がすでに取り返しのつかない失言をしてしまったのか。彼はいつぞや岳晋が洪梅花と対話を試みていた奥の方の席で、絶好調に機嫌の悪そうな顔をしている。
(ま、機嫌がいいことなんて未だかつてなかったんだけど)
いずれにしても今さら引き返すわけにはいかないので、繊月は持参してきた包袱をいったん岳晋に預け、うやうやしく袖を掲げる礼をとった。
「士雲さま。参りました」
「ああ。こちらへ。座れ」
「……よろしいんでしょうか」
袖の内側で警戒しながら、ちらりと士雲の後方を見やる。
憲台がいかめしい顔をずらりと並べているのだ。
そのほとんどが先ほども見かけた強面武官だが、ひとりは新顔である。
鴉と言うより蛙と呼ぶべき顔立ちと腹回りをした、壮年の文官だ。
その官服は金糸の刺繍こそないものの、士雲の漆黒に匹敵するほど色味が深い。高官であることは明らかだ。
そんな人物を差し置いて下町の商人が席に着くなどどう考えても賢い選択ではない――と、繊月は考えるのだが、彼よりも格上の士雲からふたたび着座を促されると、今度は固辞することがかえって礼を欠くことになるから少々まごついてしまう。
「観衆がいるが気にするな。そなたは私の問いに事実をありのまま答えるだけでいい」
ひとまず静々と士雲の対座の位置に着くと、彼は役就きの人間にふさわしい威厳ある口調で切り出した。
おやと思う。
主導権を握られたというから憲台主体で尋問されるものと身構えていたが、いい方に予想が外れたようだ。
士雲相手なら互いの望む着地点が明確に分かっているし、多少は互いの考えを読みあえる。
これはだいぶやりやすいぞと思わず肩を下げると、その機を狙いすましたかのように蛙面の文官と目が合った。
にたりと笑われる。にこり、ではない。明確に「にたり」だ。
たちまち背中にぞわりとしたものが這い上がる。
(これは……本気でたちの悪い人かもしれない)
思わず固まってしまっていると、「お返しします」と、岳晋が横から割りこむ勢いで包袱を突き出してきた。反射的に振り向けば、彼は少しかがみ、荷をやり取りするほんのひと息の間に「ご安心ください。おそばにおります」と耳打ちしてくる。
いっぺんに安堵した。
岳晋はいちおう証人を連行してきた形だ、普段のように気さくに口きいてはならないのだが、そこにいてくれると思うとそれだけでもう心強い。
「――ありがとうございます」
繊月はその気遣いを荷ごと受けとり胸に押し抱いた。
憲台のことは暗幕か何かと思うことにして、あらためて士雲に目を向ける。
「士雲さま。なんでもおたずねください。誠実にお答えします」
「ああ。話はおよそ聞いているな?」
「はい。旺喬さまが申請された修理費が大きすぎて、疑問を持たれているんですよね」
「そのとおりだ。事前に届けのあった修理の内容と申請の額に乖離がありすぎるゆえ、不正を疑っている。なにゆえそのような事態になったのか、そなた説明ができるか」
できる。即答したいところをこらえ、繊月はいったん聞き返した。
「旺喬さまは何とおっしゃったんですか?」
「自分が相場というものを理解していなかったために過剰な額になった、と」
「――はあ、相場」
「戯言だ」
士雲が鼻で笑った。
確かに、箱入りの令嬢が主張するならぎりぎり成立しそうな線ではあるが、世間的にそれが通用するかと言えば絶対に「否」だ。憲台もやすやすと聞き容れはしないだろう。
旺喬を短時間で退出させたのも、こうなると得策だったのかもしれない。
(ま、軌道修正の利く範囲内ではあるけど)
内心ほっとしながら、繊月は着座のまま袖を掲げる礼をとった。
「申し訳ありません。見積もりも出さずに依頼をお受けしたのでおかしなことになってしまったようです。くわえて申し上げると、請求額も算出途中です。今時点でいくらと申し上げることができませんので、不正という表現は適切ではありません」
「そなたが請け負ったのは軽微な修繕だろう。複雑な計算が必要か?」
「必要です。こちらをご覧いただければお分かりになると思います」
総首官の不審の表情に向け、繊月は一対の撥を捧げた。旺喬の部屋から連れ出される寸前にひっつかみ、包袱の結び目に差し込んでおいた、修理済みの撥だ。
鮮紅色の布が巻かれたものと、それを剥がしてしまったもの。まとめて差し出したが、士雲は剥き身となった片方だけを手に取り、つぶさに眉間に深い皺を刻む。
「なんだこの疵は」
「ご覧のとおり、折れたところを修復したあとです」
「布を巻きなおすだけではなかったのか」
「そのつもりでしたが、布をはずした際にその疵に気がつき、本当に修復が必要なのはそちらだと気づきました。わたしの確認不足です、ひらにご容赦ください」
深々と頭を下げる。
旺喬に誘導された部分はあったものの、この疵に気づくのが遅れたのは繊月の落ち度である。ここは大人しく詫びておかねばならない。
といって、泥の全部をかぶるつもりもなかった。
袖の下からちらと士雲に目線を送り、さあ詳細な説明を要求してくれと訴える。
彼は気の短いたちだが聞く耳は持つ人だ、一から十まで仔細に説明すれば一定の理解は得られる。
あとは繊月が出す請求額に合うよう旺喬の申請額の修正が認められれば、最短にしてもっとも軽い負担で問題解決、めでたしめでたしである。
と、早くも終点を見据えて鼻息を荒くする繊月だが、士雲はと言えばそんな繊月の視線に気づかないまま、疵の目立つ撥を縦に横に斜めにと、角度を変えて眺めはじめた。
そうかと思うと、「なるほど」ととうとつにうなずき、
「獣膠を使っての修繕だな。これはそなたの手には余る。職人を雇ったのだろう。この仕事を見るに相当な腕利きを頼ったようが、名のある職人はたいてい大店に囲いこまれているものだ。店主に心づけでも渡さねば本人への取次ぎさえ受け入れられなかっただろう。手付金も要求されたであろうし、この短期で納品までとなると工賃にもそれなりに色をつけねばならない。想定を超えて資金を要したのは間違いないな」
「――おっしゃるとおりです。さすが士雲さま」
まさしく一から十まで彼の言うとおりだった。岳晋に報告する際に端折ったところまで正確に読んでいるのだから、思わず手を打って感激してしまう。
だが、喜色を表したのは繊月だけだった。疑問の声が飛んだのだ。
「――そうだとしてもあの金額にはなるとは思えないのだがなあ」
例の蛙面の文官だった。一同を代表するようにのっそりと緩慢な動きで前へ出てくる。
この人がまた妙な笑みを浮かべているから、繊月も思わず顎を引いた。けちがつくことは想定内であったし、反論の準備もあったのに、いつものようにすんなり言葉が出ない。
代わりとばかり、士雲がゆるりと首を回した。
「確かに乖離はあろうが、当初想定していた差額よりは現実味がある。違うか、万徳?」
「総首官殿の仰せのとおりでございます。が、残る差額も決して小さくはございませんゆえ――」
「あくまで不正と考えると? 可家の姫がわざわざこのような手を使って小金を集める必要はなかろうと思うが」
「もちろん、それも総首官殿の仰せのとおりでございましょう。私めが推測しますに、元凶は可家の姫君でなく」
「この娘が不正を働いたと言いたいのか」
士雲の口調に鋭さが増した。
繊月をかばうというよりは、邪魔をするなという牽制のように聞こえた。
おそらく士雲は適当なところで手打ちにしたいのだ。岳晋が言っていたとおり――そして繊月が目論んでいるとおり――士雲はほどよく筋が通ったあとで旺喬の申請額を修正させて事態を収束せようとしている。
(この蛙がよけいなことを言わなければ――)
一同の注目が集まる中、「いやいや」と彼はやけにおおげさに首と両手とを振ってみせた。
そうして奇妙に明るい笑みを浮かべ、まさしく夏の夜を騒がす蛙さながら大きく口を開いて、
「その娘はむしろ被害者でございましょう。未熟な若者はなんにつけてもかもにされやすい。総首官殿が仰せになった心づけや手付金のあたりで法外な額をとられたに違いありません」
「――はい?」
思わず振り向く繊月に、蛙の文官はまたもにたりと笑ってみせた。そして言うに、
「気に病むことではないぞ、お嬢さん。誰しも駆け出しの頃には苦い思いをするものだ。未来ある若者の勉強代と思えば、こちらとしても多少の誤差は目をつぶる用意がある」
つまり泥をかぶれと彼は言っていた。
しかも、不正を企てた悪人になれと言うのではない、ぼったくりに遭った可哀想な娘になれと言っている。
(この蛙……!)
一瞬にして腹の内側で激情が燃え上がり、繊月は眉を吊り上げ口唇の先を突き上げた。
つぶさに不穏なものを察知したらしい、傍らの岳晋が控えめに咳払いし、向かいの士雲が針の視線で威圧してくる。どちらも落ち着けと言いたいのだろうが、あいにくこの状況下で黙っておれる性分ではない。
「お言葉ですが、わたしの支払ったものはすべて適正な額です」
繊月は、言った。
脱力する二人の美男を尻目に、蛙の文官のぎょろりとした目を倍の眼力で睨み返す。
「わたしが商人として経験が浅いことは間違いありません。ですが、だからこそ、事前に複数の同業者にたずねて回りましたので、いずれも相場から大きくはずれるものではありません」
「ほう。ではなぜあれほどの請求額となったのだろうなあ」
「わたしがお勧めしたからです」
一同がむっと顔をしかめた。
あらかた情報を共有している岳晋も驚きを隠せぬ様子で見下ろしてくる。
「どういうことだ。仔細に申せ」
警戒的に投げかけてくる士雲に、繊月は手のひらを差し出した。正式には、彼が握ったままの撥の方に、だ。
「まず申し上げます。その撥の損傷は通常の使用や経年劣化に伴うものではありません。悪意ある第三者の手によるものです」
「なんだと」
「予備の撥が二本とも同じように折れていたので間違いありません」
このとおり――と、布が巻かれたままだった撥も剥き身にしてみせると、士雲はおろか憲台の面々までもがはっとして一対の撥に釘付けになった。
同じような場所に生じ、同じように修復された、同じような疵。
偶然の産物でありえないことは一目瞭然だ。
「待て。私はかような被害申告など聞いていないぞ。誰が、なにゆえそのようなことを」
「それを明らかにするのはわたしの領分ではありませんのでまったく考えていません。でも楽舗の人間として、撥が折られる被害があったのなら対策のご提案はさせていただきます」
「対策とは?」
問うたのは、岳晋である。ここまでうまい具合に影に徹していたのに、興味が先走ったのかすっかり前のめりである。
繊月も開き直りの笑顔で彼を仰いだ。
「簡単です。素材を見直すんです」
「素材……ですか」
「はい。現状、撥は木製です。軽くて扱やすく、調達もしやすいですが、耐久性という意味ではやや弱いものです。折られる被害があったのなら、折れない素材での作り替えを検討すべきだと思います。有力候補は、金属」
「なるほど。金属製なら折れることはございませんね」
「はい」
自信満々にうなずく。
大半はついさっき思いついたばかりの適当な作り話だったが、発想は悪くないと自負していた。
そして、掴みも悪くなかったようだ。士雲が興味津々とばかりに身を乗り出してきたのである。
「その撥、もう作ったのか」
「いえ。金属と言ってもいろいろですし、音色にも影響するでしょうから、どんな素材がもっとも適しているのかひととおり試してみなくては。鉄がいいか銅がいいか……ひょっとすると純金、純銀が合うかもしれませんね」
「試作だけで途方もなく金がかかるな」
「合わない素材は売ってしまえばいいんですよ。それであらかた元手を回収できるつもりです。初期投資は相応に必要になると思いますけど」
「……ふむ。かの姫の希少な楽器に使用するものとなれば、それこそ信用のおける腕利きの職人が必要だな。素材の調達先も精査せねばならん。混ざりものなどあっては話にならぬゆえ――」
士雲が腕組みしてぶつぶつ言いはじめた。言い逃れのためのはったりが、思いのほか刺さったようである。
いや、実際に金属製の撥を作ってみればいいのだ。被害防止の措置として効果があるのはもちろんだが、撥を変えることで旺喬は新しい音色に出会えるかもしれない。
(……とか言って、まだ旺喬さまに了解とってないんだけど)
ここまでくれば旺喬も理解するしかないだろう。
ことのはじまりは彼女なのだ、これくらいの泥はかぶってもらわなくては。
繊月はふうと肩で息をついた。ぐるんと首を回し、蛙の文官以下憲台らの方に目を向ける。
「以上が旺喬さまの申請額についてのご説明です。何かご指摘ございますか」
あえて目を爛々とさせて問いかけると、大の男が揃いも揃って目を泳がせた。
下町の楽舗の娘にこんな形で反撃されるなど想像もしなかったのだろう。
蛙の文官もたるんだ頬肉をどうにか持ちあげ笑みを作っているが、さっきまでの不気味さを演出するほどの余裕はないようだ。
「……私めには無駄が多いように感ぜられますがね」
「――そうですよね!」
待ってましたとばかりに繊月は声をあげた。
とたんに蛙の文官ふくめ憲台の一団がそろってへんな顔をする。
またおかしなことを言いだすとでも思ったのだろう。そのとおりだ。
「今後絶対に被害がないと分かれば、高額な費用をかけて金属製の撥など調達する必要なんかないんですよ。憲台のみなさんって宮城内の悪事を取り締まるのがお役目ですよね? 犯人を見つけ出して懲らしめてくだされば、悪事を働こうなんて思う人もいなくなると思うんです。そのへんどうにかなりませんか」
「……は……」
「なりますよね! なにせ憲台のみなさんですもんね! 期待しかありません! ね? そうですよね?」
右に左に笑みを振りまく繊月に、応える者は誰もいなかった。




