その羽は、漆黒ー⑬
「旺喬さまが本当に直したかったのは、こちらの方だったんですよね」
繊月は疵を示すように撥を突き出した。
腕のいい職人に、質のいい膠を使って継いでもらったので、今でこそまっすぐな形を取り戻している撥。
だが、巻き布を――あの青い布をはずした瞬間は、ほんの少し加減を間違えただけで一本が二本なってしまいそうな、致命的な状態に陥っていた。
その惨状は、こうして直ったところを見ても思わず苦笑がもれるほど。
「正直寿命が縮むかと思いました」
「驚かせてしまったのですね。ごめんなさい。わたくしの伝え方がよくありませんでした」
「いいえ。このうえなく的確だったと思います。おかげでわたしはまんまと軽微な修理だと誤認し、気軽に請け負ってしまったんですから。旺喬さまの目論見通りですよね?」
問いかけると、旺喬は静かに表情を消した。
皮肉か嫌味に聞こえたのかもしれない。実際のところは、このお嬢さまのしたたかさに心の底から感服しているのだが。
「旺喬さま。可家のような歴史も資産もあるお家なら、商人にしろ職人にしろ、贔屓にしている者がいるはずです。この撥の疵は音色に直接影響する致命的なもの……本来ならなじみの商人を通じて買い替えを検討すべきところです。わたしも、事前にこの疵が分かっていたら、そちらを勧めました。けれど、旺喬さまは疵については触れないまま、雅芸宮での取引実績もないわたしに修理を依頼なさった。すべてを秘密裏に処理するためだと思います」
――そして、多額の修理費を払って全部を隠そうとしている。
「旺喬さま、嫌がらせを受けているんですね」
繊月は、言った。
こう率直では商人として二流三流と揶揄されるだろうが、ここは誤魔化されるわけにも、うやむやにされるわけにもいかない。直球で勝負するしかなかった。
二本で一対の撥をまとめて手に取り、突き出す。
「撥は二本とも折れていました。先日旺喬さまはこれを予備だとおっしゃっていましたので、普段お使いではなかったはず。先端のまるい部分に疵ひとつない点から見ても、日々の使用の結果として破損したものではないと判断できます。ではなぜこうまでひどく壊れたのか――考えたときに浮かぶ可能性はひとつだけです」
悪意ある第三者に、折られた。
すなわち嫌がらせである。
それでいて、おそらくこれが被害のすべてではない。
「今まで何本やられたんですか?」
繊月は旺喬を見つめた。
彼女が直近ですでに何本もの撥を新調したあとなのではないか――だからなじみの商人を頼るに頼れなかったのではないか――という可能性を、繊月は早い段階から疑っていた。
そして旺喬が食堂でとるべき食事を部屋でとっていると聞いた今、その推測が間違っていなかったと確信している。
珠佳は人慣れしていない深窓の令嬢ゆえと説明したし、みなも同じように考え納得しているのだろうが、それは、ほとんど初対面の繊月を気さくに迎え、お菓子まで分ける旺喬の振る舞いと一致しない。
旺喬は人を避けて部屋にこもっているのではなく、部屋を空けたくないのだ。
たとえば不在の間に部屋に異変があったというような、不安、あるいは脅威を感じたことがあったから。
(――へたしたら、貸与の衣装を着ているのだって……)
走りすぎる思考を、かぶりを振って自制した。
この先は旺喬自身に語ってもらわなくてはならない。
そのために今日、ここに来たのである。
しかし旺喬は何も答えず、目を伏せるばかりだった。
想定内である。
簡単に認めるようなら、はじめからこんな手のこんだことはしない。
「旺喬さま」
繊月は彼女の足元で膝をついた。
「撥の破損は士雲さまには報告していません。岳晋さまのお耳には入れましたけど、被害の状況を正しく把握してから報告しようという話になりました。わたしも岳晋さまも力になります。だから話してください。撥を折られたのはいつですか。犯人に心当たりは? ほかの被害も詳しく教えてください」
矢継ぎ早にたずねると、旺喬は繊月を見、ふわりと包みこむように笑いかけてきた。
「ありがとうございます、繊月さま。聡明な方だとうかがっていましたけれど、噂以上でした。そしてとてもおやさしい……」
安堵の混じった声音に、繊月も一瞬肩の力が抜ける。
心の扉が開かれたと思ったのだ。
だが、深窓の令嬢は続けざま、笑みをたたえたままで言うのである。
「もしそのやさしさでわたくしの我儘を許してくださるのなら、どうかその目を閉じて、耳を塞いで。報酬を受け取ってお帰りになってください」
「放っておくということですか」
「撥が直ればよいのです」
旺喬は言う。寸前の儚い笑みとは真逆の、決然とした口調である。
当然、容易に受け入れられる主張ではない。
「よくありませんよ。奏楽に必要なものを破損させるなんて、宮妓の――いえ、楽器をたしなむ者の尊厳を傷つける卑劣な行為です。翡翠仙女のお膝元で、そんな蛮行を許してはいけません」
「でも悪いのはわたくしですから」
「旺喬さまが? 悪い? 被害者じゃありませんか」
「加害者を生んだのがわたくしなら、わたくしこそが悪です」
旺喬は小難しいことを言いながら、少し遠い目をした。
そこにいったい何を見ているのだろう。「わたくしは招かざる客ですから」などと、彼女はぽつりとこぼすように言う。
「……どういうことですか、それ」
「わたくしは、人さまとは違う環境に生まれ、人さまとは違う育ち方をいたしました。この先も、人さまとは違う生き方をするのだと思います。ほかの宮妓の方々にとってみれば、異質……いるだけで心の平穏を脅かしてしまうのです」
つまり、俗に言うところの「浮いている」ということを、彼女は自覚しているらしかった。
もっとも、真の意味での深窓の令嬢が、自分自身の体験からそれを学ぶ機会があるとは思えない。
「それ、誰かに言われたんでしょうか」
「はい。わたくしが雅芸宮に来ることは、たくさんの金魚が遊ぶ池に緋鯉が放たれるようなもの……混乱が生じることも、利害関係が複雑になることも、それがみなさんの心を騒がせるということも、丁寧にご説明いただきました。分かったつもりでいたのですけれど、わたくし少しも分かっていなかった。実際にこうして人さまの感情が形になって見えるまで、少しも分かっていなかったのです」
だから悪いのは自分だと、旺喬はくり返した。だから耐えねばならないと、膝の上で両手を握りしめている。
何言ってんだろうと、繊月は半ば呆れた。
確かに彼女の主張は一部理解できる。
蒼嘉国二大名家のご令嬢。その存在感は並ではない。
表立って言えないことを陰でこそこそ噂されることもあるだろう。周囲のよからぬ感情が、本人ではなくその所有物に向かうこともありうるし、実際にそれが起こってしまっている。
わけあり娘だからこそ理解できる。旺喬が事前に受けた忠告はきっと大げさなものではない。
だが、旺喬は繊月とは違う。絶対に違う。
「旺喬さま。雅芸宮は才能ある人に広く門を開いています。欠格要件に当てはまるというのならともかく、そうではない特定の誰かが『来てはいけない』ということはないと思います。それでほかの誰かに影響が出たとしてもお互いに譲り合えばいいだけ。それができないのなら周りの方々にも非はあります。士雲さまもそうお考えですよ。――金魚と緋鯉の話をしたの、士雲さまでしょう?」
そこではじめて、旺喬が純粋な驚きを見せた。目をまるくしたのだ。
「どうしてお分かりになったのですか」
「だって士雲さま、人を生き物に例えるのがお上手ですもん」
思わず苦笑いが混じる。
鴨子だの猪だの、例えるものによっては侮蔑のようにも聞こえることもあるが、すばやく本質を見抜いて類似の何かに置き換える、という意味で彼の例えにははずれがない。
金魚と緋鯉の話にしたってそう。
厳しい現実を突きつける一方で、彼は理解してもいる。
鯉は金魚を捕食しない。金魚も鯉を攻撃しない。共存は可能だと。
「旺喬さまが難しいお立場なのは分かります。士雲さまも分かっておいでですよ。ご自分だって『緋鯉』ですもん。雅芸宮に来られる前なら厳しいことをおっしゃるでしょうけど、旺喬さまが決心なさっておいでになったのなら、士雲さまも受け入れているはずです」
さすがに、士雲の個人としての本音がどうなのかは知らないが。
少なくとも、雅芸宮を預かる身として政敵の娘が自滅するのを悠然と待つ選択はない。彼の高官としての自覚と矜持は本物だ。
「この嫌がらせにしても、仮に旺喬さまが耐え忍んだところで雅芸宮で問題が起こっている事実に変わりはありません。ことが露見すれば士雲さまは解決に尽力なさると思います。きちんと相談なさるべきですよ。なんだかんだ言って責任感の強い方ですし、今なら厄介事を持ちこんでも喜ばれるんじゃないでしょうか」
「喜ぶ? 士雲さまが? なぜですか」
「旺喬さまの被害が夜雀騒動と無関係ではなさそうなので」
「――え?」
ふたたび、純粋な驚きの顔を、旺喬は見せた。
ぱっと、飛びつくように詰め寄ってくる。
「それはどういうことでしょうか、繊月さま」
「どうって。お聞きになっていますよね。夜雀騒動を起こした崔小雨は、旺喬さまがおいでになる前の白星殿三位の宮妓にとても懐いていたと」
「――では、夜雀騒動の原因も、わたくし……?」
旺喬が口を覆ったその瞬間、繊月はみずからの失言を悟った。
(旺喬さまには知らされてない――)
そんなばかなと胸の内で叫んだが、現実として旺喬は絶句してしまっている。
いや、こんなふうに衝撃を受けてしまうから、あえて伏せられていたのか。
「あ、あの。旺喬さま、すみません。わたし、余計なことを申し上げたかもしれません。崔小雨の証言には筋の通らないこともあるとうかがっています。士雲さまも疑っているようですし、すべてが真実とは限りません。だから夜雀騒動が旺喬さまのせいだなんてことは……」
全身で冷や汗をかき、しどろもどろに言葉を継ぎながら、しかし途中でこれではだめだと繊月はかぶりを振った。
この場を取り繕っても何の解決にもならない。どうせ最後に平身低頭で詫びねばならないのなら、図々しく最短経路を選ぶ方がいいのではないか。
そう考えたときには、もう口が動いていた。
「旺喬さま」
無理やり視界に押し入るようにして、凍ったように動かない彼女と目を合わせる。
「この際はっきり申し上げます。標的ははじめから旺喬さまおひとりだった可能性があります。撥を折った犯人は崔小雨か、その共犯者かもしれません。撥を折られた時の状況、詳しく教えていただけませんか」
「――わたくしは撥が直れば充分です。夜雀の件も、もうすんだこと。どうか蒸し返さないでください」
旺喬の目に光が戻る。その口調も、動揺を消し去った凛然としたものだ。
「さあ、黒曜殿で支払いを受けて、お帰りになってください」
二本の撥を取り上げられ、あらためて、桁違いの金額が書かれた書付を手の中に押しこめられた。
彼女はなにがなんでもこの件を秘密裏に片づけるつもりらしい。
失敗した。
やはり岳晋を待つのだった。
あちらこちらの小さなずれが、どんどん事態をこじれさせている。
こんなことなら最初から士雲に報告して一緒に大騒ぎした方がずっとましだった。
もはや目も合わなくなった旺喬の背中を前に痛烈に後悔した、そのときである。
「旺喬さま。失礼します」
訪いを告げる声がした。銀丈の声だった。
旺喬が緊張した表情で戸口に立てば、やたら甘やかな美形の、華の笑顔がひょいとのぞく。
「あぁ、旺喬さま、すみません。うちの若が今すぐお話したいと我儘を言ってまして。ご足労いただけませんか」
銀丈は調子よく左右の手を擦り合わせた。彼らしい、親しみやすさと軽薄さの境界線を行き来するような態度である。
しかし彼の後ろ、部屋の出入り口に、あたかも退路を断つかのように強面の武官が並んでいるのを見、実質的には総首官からの招集命令なのだろうと直感した。やたら物々しい雰囲気なのである。
「……士雲さまが、どのようなご用向きでしょう」
旺喬が戸惑いを隠せない様子でたずねた。
つい、という感じで彼女が繊月を一瞥したのは、秘密がばれたのではと考えたからだろう。
繊月も一瞬その可能性を疑ったが、撥が折られていたことは岳晋にしか話していない。そして彼は旺喬の口からそれが語られるまで待つと言った。さらに言うならその話は尹楽舗の店の中でした。
外に漏れようがない。
「あなたには嫌疑がかかっている」
口を挟んだのは、銀丈が連れてきた武官の中のひとりだった。
強面揃いの中でもひときわいかめしい、壮年の武官である。
心なしか岳晋らがまとうものとは意匠の違う官服を着用しているように見えるが、気のせいか。
不思議に思ったが、すぐにそれどころではなくなった。その武官が言ったのである。
「可家の姫。あなたには実情にそぐわぬ過大請求を行った、不正取引の疑いがある」
「不正? なんのことでしょうか」
問い返す旺喬の傍で、繊月はひそかに握りこぶしを固くした。
先ほど旺喬に握らされた書付。
これこそまさに、過大な修理費である……。
(一難去る前にまた一難か……)
繊月は思わず、天を仰いだ。




