その羽は、漆黒ー⑫
雅芸宮に銅鑼が鳴る。時を告げる銅鑼である。
天鵬楼と各殿舎の最上階で同時に打ち鳴らされるそれは、広大な雅芸宮のすみずみまで響き渡り、宮妓らの一日を正確に管理する。
今聞こえてくるのは午餐を知らせる銅鑼だった。
蒼嘉国ではたいてい食事は朝夕二回とるのがふつうだが、宮妓は歌舞音曲の修練のため意外に体力を消耗する。そこで、日が中天に昇る頃に休息とともに軽食をとる。これが午餐である。
おもに甘味が出される午餐は、一日のうちでもっとも宮妓がはりきる時間である――とは、かつて深酒した母が笑いながら語ったことだったが、銅鑼が鳴るなりぴたりと修練の音がやんだところをみると、大げさな話ではなかったらしい。
きっと今頃宮妓らはきゃっきゃとはしゃぎながら食堂へ向かっているのだろう。
(――で、岳晋さまが現れないのはどういうわけだ)
黒曜殿の門前である。
いつぞや出入りの商人が長い列を作っていたその場所で、繊月はつま先立ちしてひとりきょろきょろと待ち人を探した。
予定では、午餐の時刻にここで岳晋と落ち合い旺喬の部屋を訪ねることになっていた。
割符の確認と手荷物の検査で時間を食うことは分かっていたので早めに到着し、それら検査はすでに常駐の文官らがすませてしまっている。いつでも行ける態勢だった。
「あのー、岳晋さま呼んでいただけませんか? 約束してるんです」
少し待っても来ないので、検査係の文官らを捕まえ頼んでみた。すると、ニ名の検査係は一度顔を見合わせて、
「出直した方がいいよ、お嬢さん」
「ああ、上は大騒動みたいだから」
と、内緒話の様相で言った。
どうやら何かあったらしい。
あの岳晋が人を遣るゆとりもないのなら、大騒動というのも過大な表現ではなさそうだ。
(……仕方ない。ひとりで行くか)
少し迷ったが、決めた。
どうせ行き先は分かっているし、今日は時間に限りがある。
午餐の時間が終わるまでに旺喬の秘密を暴き、その意図を把握しておかなくてはいけないのである。
(ひと気がない方が打ち明け話もしやすいはずだし)
そうして、文官らに言伝を頼んで、繊月は黒曜殿を出発した。
時折強く秋風に身を縮めながら白星殿へと向かう。
先日は池にかかる橋を渡りきらないうちから百とも千ともつかぬ多くの音の粒を聞いたものだが、今日は一転、静かだ。
殿舎の中に入れば、思惑どおり、廊下にはひと気がない。きっと食堂で午餐を楽しんでいるのだろう、姿の見ない宮妓らの笑いさざめく声が、潮騒のように聞こえてくるばかりだ。
「繊月さま! ようこそおいでくださいました」
目当ての部屋へたどり着くと、旺喬はぱっと顔を輝かせて繊月を迎えた。
先日同様、貸与の衣装をまとい、化粧せず、髪をくしげずったままという飾らない姿である。
「こんにちは、旺喬さま。間の悪いときに来てしまって申し訳ありません」
繊月は頭を下げた。ちょうど午餐の膳が運ばれたところらしく、下女があわただしく部屋を出ていったのだ。
「いいえ、かえってちょうどいい時間でした。甘栗が届いたので、ぜひ一緒にいただきましょう」
旺喬は屈託なく繊月の手を引いた。
知り合ったばかりの楽舗の娘を、まるで古くからの友人のように部屋に招き入れ、椅子を勧め、甘栗まで分けてくれるのである。
あやしくし。
ほっくりと甘い栗を楽しみながら、繊月は胸の内でつぶやいた。
秘密を暴きに来たはずなのに、かえってこちらが引っ掛けられそうで怖かった。
甘栗をつまんでは頬に手をやり幸せそうに味わう旺喬は、今日もおっとりとしてにこやかで、秘密を抱えているなどおくびにも出さないのだ。
しかもその秘密は、ほかならぬ旺喬自身の手によって繊月にばれているのに、泰然としている。
(どういうつもりだろ)
もぐもぐしながら用心深く観察してみたが、ちっとも読めない。
旺喬の様子は変わらないままだ、この調子では茶菓子を楽しみ、撥の受け渡しが終わったらすみやかに帰されそうである。
もちろんそんなことではいけない。
(よし、つつこう)
繊月は腹を据えた。
先手必勝の信条に従い、甘栗の山から手を引き、包袱を手繰り寄せる。手巾で指先を拭うのも忘れない。
楽器に触れる手は清潔に。
商人の基本であり、器楽の奏者の基本である。
「旺喬さま。撥をお返ししますね」
繊月は何食わぬ顔で撥を取り出し、手渡した。
わずかなほつれが見られた青い布が鮮紅色のものに巻きなおされ、新品さながらに生まれ変わっている。
その出来栄えは、旺喬が両手を組みあわせて感動の声をあげるほど。
「ありがとうございます、繊月さま。とてもきれい。丁寧なお仕事ですね」
「――それだけでお分かりになるのですか」
繊月は、言った。
まるで振りかかった水しぶきを大袈裟に払うようなその物言いは、我ながら感じが悪いと思う。
しかし、撥を撫でさすっていた手がぴたりと止まったことで、ようやく手ごたえのようなものを感じる。
ここぞとばかり、繊月は続けた。
「もう少しよく見られた方がいいのでは? ご要望どおりかどうか。気を揉んでらしたはずですからーー」
「繊月さま」
みなまで言わぬうちに、旺喬が身を乗り出してきた。さらりと髪が流れる音さえ聞こえてきそうな至近の距離から、杏仁型の双眸が見つめてくる。
「お代はこちらで。後ほど支払いがあろうかと思います」
と、彼女はなにやら手の内に握らせてきた。
小さくたたまれた書付だ。
金額が書かれているのだろう。
請求書も出していないのに性急なことだ……と手の内で控えめにその内容を確かめると、直後に目を剥くことになった。
桁を誤ったかと思うような額が記されていたのだ。
「多すぎます。こんなにいただけません」
「それはいけません。もう申請してしまったのですから、受け取っていただかないと困ってしまいます」
突き返そうとした手を、旺喬はやんわりと押し戻してくる。
言葉どおり、眉尻を下げて困ってみせるが、要はこれで全部黙っていろということである。
とんだお嬢さまだ。
それとも、生まれながらに富と権力を備えていると、こんな振る舞いが当たり前になるのだろうか。
繊月は、うすら寒いものを感じながら、決然として首を横に振った。
「受け取れません。何度でも申し上げます。これは、だめです」
「繊月さま。一流の商人は言葉にしない要望もくみ取り、叶えてくれるものだと聞きます」
「あいにくわたしは三流です。このようなものを見たら、何があったのだろうと想像しますし、どういうことですかと率直にたずねます。わたしは今日、それをおたずねに来たんです」
繊月は言った。もう迷いはない。旺喬に渡した撥のうち一本を取り返し、淡紅色の布の結び目に手をかける。
旺喬が細い息を飲み込んだのが分かった。
かまわず布を剥いだ。
すっかり裸にしてしまうと、その柄の真ん中には痛々しい疵が現れる。
無残に折れ曲がり、皮一枚ぎりぎりつながっていたようなところを、膠でどうにか繋ぎ止めた痕である。




