その羽は、漆黒-⑪
「――話がそれているわね。本題は旺喬さまのことだった」
珠佳が我に返ったように目をまたたかせた。
すっかり元通りの――しかしそれまでとはどこか違うふうに見える――つんと取り澄ました表情で、
「あいにくだけれど、旺喬さまのことはよく存じ上げないの。あまりお部屋からお出にならないし、お食事もお部屋でとられているとかで、お見掛けすることもないものだから」
「食事を、部屋で? どうしてですか」
宮妓は食堂に集まり食事をとるはずだ。岳晋たちもその機を狙って荷検めを行ったと言っていたのだから、間違いない。
「そこは可家の圧力か、士雲さまのお計らいがあったのではない? 可家の姫君ともなれば正真正銘の深窓の令嬢でしょうから、人前に出ないのがふつうであったはずよ」
「深窓の……そうか、そうですね。じゃあどうして……」
「なに?」
「ええと、どうして旺喬さまは貸与の衣装を着てらっしゃっるんでしょうか」
え……と、珠佳が目をまたたかせた。何を言っているのかという顔である。
しかしどうしても、繊月はあの装いが気になる。服だけでなく、化粧っ気のない顔も、梳いて流しただけの髪も、とても名家の令嬢にそぐわないと思うのである。
仮にあの日たまたまあの姿だったのであったとしても、繊月が訪ねてくるのは分かっていたはずだ。あえて質素に見せる必要がどこにあるのか――。
そう言うと、珠佳は「そんなこと」と小さく笑った。憐憫をふくんだような、苦い笑みだ。
「世話する者がいなくて、あれしかお召しになれないからでしょう」
「――え?」
「ある程度の家格の令嬢なら付き人も一緒に宮妓として宮入りするのが定石。でも旺喬さまの侍女は宮妓の試験に落ちたという話よ。だからおひとりで不自由されている。夜雀騒動が可家の工作だっていうあなたの想像も、同じ理由で否定できるというわけね。自分の世話もできない方に謀なんて無理でしょう?」
「な、なるほど。ものすごく腑に落ちました……」
貸与の衣装は子どもでもひとりで着られる簡素な作りだ。名家のご令嬢が着用するような、色合わせや重ね着の必要な豪奢な衣装とはまったく違う。
珠佳に意見を求めたのは正解だった。これで全部辻褄が合う。
(そう、全部)
みなぎる何かを捕まえるように胸の前でこぶしを握っていると、「気がすんだ?」と珠佳が柳眉を持ち上げた。
「はい! おかげさまで――あ、いえ。もうひとつだけ!」
「……あなた本当に遠慮なしね。なに?」
ややあきれ顔の珠佳に、繊月はずいと卓上でにじり寄る。
「白星殿の宮妓が見習いまで金銀宝珠できらきらなの、どうしてか分かりますか」
「ああ、あれ」
珠佳は興ざめしたように口元に袖をやった。あまり派手なものを好まないのか、それとも職務上そぐわないと考えているのか、頬に乾いた笑みを走らせて、
「出入りの商人が雅芸宮特価を謳い文句に売って回っているようよ。年頃の娘たちばかりでお客は多いし、みな定期的に給金をもらっているから代金を取りはぐれることもない。商人としてはありがたい稼ぎ場でしょうね」
「はあ……雅芸宮特価」
「ええ。わたしの目にはどれも魅力的な品には思えないのだけど。あなたの耳飾りの方がよほどすてきだと思う。似合ってるわよ」
指先で軽くつつくような仕草をして珠佳は笑った。
歳相応の女性らしいかわいらしい笑顔だった。
それからお茶を呑んでもう少し話をしたあとで、珠佳は台帳を持って帰っていた。
(面白い人だったな)
耳の房飾りをくるくると指先に巻きつけながら、繊月は軒下で長いことその人を見送る。
初対面の印象がよくなかったから構えてしまっていたが、話せば話すほど新しい一面が見え、その一方で才色兼備の印象はいっぺんだって揺らがなかった。
そんな人でも雅芸宮という籠の中ではひっそり隠れるように過ごさねばならないのだから、理不尽というか、世知辛いというか。
ままならないものである。
「――ん?」
遠ざかる珠佳を目で追っていたら、斜め向かいの楊飯店からとうとつに洋恂が顔を出した。
美人見たさに貼りついていたのか思ったが、前を見、後ろを見、繊月が首を傾げるところまで確認して、「旦那、空いたぜー」などと中に向かって手招きなどするから繊月もぎょっとする。
果たして、楊飯店の軒下から立派な体躯の持ち主がぬっと姿を現した。
繊月を見つけるやすたすたと道を渡ってきて、いつもどおりに丁寧にあいさつする。
「……何やってるんですか、岳晋さま」
「来客中とうかがって待たせていただきました。……今日はご機嫌がよろしくないようですね」
岳晋はにこやかである。正確に顔色を読んでいながら見ないふりとは、ずいぶん気安いものである。そうならこちらも遠慮なしだとばかり、繊月は視線をななめに放り投げた。
「べつに、警戒しているだけです」
「警戒、ですか」
「当たり前でしょう。珠佳さまがいらしているときに岳晋さままでやってくるなんて、間がよすぎます。珠佳さまのこと尾行してたんじゃないんですか?」
横目に睨むと、岳晋の目が端に逃げた。
「語弊があります。様子を見にうかがっただけです」
「やっぱり尾行じゃないですか」
「業務上やむを得ず、です。銀丈殿から情報をいただきましたゆえ」
「銀丈さま?」
「はい。――先頃繊月殿が雅芸宮にお越しになった際、珠佳殿が何かお渡しになったようだと」
ささやかれて、今度は繊月が目を泳がせる番だった。
あの男、あの現場を目撃していたらしい。
どこにいたのだろう。
そしてそれを黙って見ておきながら今頃告げ口するなど性格が悪すぎるのではないか。
「珠佳殿と何をやりとりなさったのですか」
問われて繊月は口ごもった。しかし現場を見られているのではしらの切りようがなく、しぶしぶ、尖らせた口でこう返す。
「……金品じゃないです。ついでに雅芸宮の備品でもありません」
「何であったとしても無断で持ち出されたのなら規則違反、処罰の対象です」
「知ってます。すみません。割符を返せということならお返しします。罰金だというなら、えー、ちょっと長期の分割になると思いますけど、必ず払います。でも珠佳さまは不問にしてください。それを約束してくださるなら全部白状します」
詫びのために下げた頭をすぐに振り上げ訴えると、岳晋は顎を引き、いっとき奇妙なものを見るように眉をひそめた。
「珠佳殿をかばうのですか。いつの間にそれほど親交を深めていたのですか」
「わたしが一方的に信奉してるだけです。珠佳さまはすごい人です。こんなところでけちがつくのはだめだと思います。――あ! ちなみに、今わたしはとても重要な情報を持っているので、無条件にわたしの要求を受け入れた方ががぜんお得ですよ!」
「……あなたも充分すごいですよ。どこでそのような交渉術を覚えるのですか……」
「これくらいは嗜みです。商売人ですから」
わざとらしく胸に手をやりにっこりすると、岳晋はなにやら物言いたげな渋っ面をしながら、しかし待つというほど待つ間もなく、完全敗北の様相で肩で息をついた。
「分かりました。お約束します」
「言いましたね! 破ったら三日三晩悪夢にうなされる地獄の子守唄を聴かせますからね!」
「どんな子守唄ですか。むしろ聴いてみたいのですが」
「本気で忠告すると、それはやめておいた方がいいです。――それより」
繊月は前後左右を見回しひと気のないことを確認し、岳晋の背後に回って店の中に押しこんだ。
そして約束通り、珠佳に返した物の正体と、その内容から得た事実を伝えることにする。
「珠佳さまの台帳のおかげで、夜雀の正体が絞りこめました」
「台帳に載っていたのですか」
「いえ。載っていませんでした」
たちまち、歓喜に輝いていた岳晋の顔が半端な笑みの形で固まった。
「――どういうことですか。載っていないのに絞りこめた、とは」
「言葉どおりです。台帳に記録されている『吹』の楽器はもちろん『打』・『弾』・『擦』すべての楽器を確認しましたけど、雀の啼き真似ができるものはありませんでした。つまり、宮妓が使っている楽器ではないということが確定したんですよ。これけっこう重要な発見です」
「……お待ちください。その口ぶりだと、宮妓以外が隠し持っているというように聞こえます」
「それがそうともかぎらないのが困ったところで」
「繊月殿。もったいぶらずにはっきりおっしゃってください」
「そうしたいのはやまやまですけど、推測の域を出ないので今はまだ言えません。でもこっちは断言できますよ」
焦れる岳晋をいなしながら、繊月はまだ誰にも告げていないことを、ここで明かした。
「夜雀騒動の鍵を握っているのはやっぱり旺喬さまです」
岳晋の顔から表情が消えた。「まだ疑っておいでなのですか」と問う声はそれまでより低く、見ようによっては少し怖い。
だが、繊月は「ええ」と耳の房飾りを振り、あえて軽やかに答えた。
「いろんな意味で疑ってます。――ああ、おっしゃりたいことは分かりますよ」
ずいと手のひらを押し出し、今まさに反論に出ようとした口を封じる。
「珠佳さまも岳晋さまと同じ意見でした。わたしの考えは妄想。見当違い。お二人が言うのならそうなんだと思います。でも、断言します。旺喬さまを清廉潔白と信じているなら甘いです」
立てた手のひらの向こう側、岳晋は黙って繊月を見つめている。
これが士雲だったら睨まれ、たたみかけられ、とても話にならなかっただろう。
岳晋はさすがに辛抱強い。そしてそれなりに繊月を信用してくれている。
だから言える。
「旺喬さまは誰にも明かしていない秘密を持っておられます。そしてそれはおそらく、士雲さまにとってとても都合の悪いことです。明日、撥を納品しに行くときにそのあたりを暴こうと思っています。たぶん、いえ、間違いなく荒れると思います。そのときは助けてください。岳晋さまが頼りです」
繊月もまた岳晋を見つめ、言った。
それは嘘偽りでもなくおおげさでもなく、切実な本音。
岳晋なしではとても戦えない。




