その羽は、漆黒-⑩
「おーい、繊月」
遠くから洋恂の声が聞こえとき、繊月はがくんと落ちかけた顎をあわてて振り上げた。
ほんのりと翳をふくんだような、秋曇りの午前。いつもどおり軒先を掃き清め、商品にはたきをかけ、ちっとも動きのない出納帳を眺めながら店番をしていたのだが、いつの間にか居眠りをしてしまっていたようだ。
客が来ないせいだ。実入りがないので近頃はもっぱら夜に妓楼で稼いでいて、よけい昼間に眠くなるという悪循環。身体にも悪いのだが、待ち人がいるだけに店を閉めるわけにもいかないし、同じ理由で昼間の賃仕事にも出られない。つまり店番しながらうつらうつらしても仕方がないわけで……。
「繊月、いるんだろー」
洋恂の声が間近に聞こえ、繊月は今度こそ覚醒した。はいはい、いますよーとあわてて軒先まで出て、煮炊きのにおいが染みついた幼なじみの料理人を出迎える。
「なに。どうしたの、洋恂」
「おまえんとこのお客だよ。店見つけらんないって言うんで、連れてきた」
「あ、ありがとう! すみません、お客さま――」
と、洋恂の横から顔を出した瞬間、紅い眦をした佳人と目が合った。
「珠佳さま!」
「……どうも」
そっけなく目礼を返すのは、まさしく雅芸宮の女官、書庫係の珠佳である。
深い赤紫の服といい、いつもの戦化粧のような顔といい、相変わらず迫力満点。しかし美人は美人なので、この下町では田んぼの畔に咲いた大輪の牡丹のような、奇妙に圧倒的な存在感を放っている。
「繊月、どこでこんな別嬪さんと知り合いになったんだよ。紹介しろよ」
「商売先の方だよ、失礼はやめて。ほら、もう戻って。――珠佳さま、どうぞ中に」
洋恂を追い立て、代わりに珠佳を店に案内する。そして入口の戸をしかと閉めてしまってから、
「おいでくださってありがとうございます」
繊月は最敬礼であいさつした。珠佳もいちおう型通りに一礼して見せたが、顔をあげるや目を細め、袖の内側からぴらりと一枚紙を出して見せる。
「借りたものを返すのにこんなところまで呼びつけるなんて、どういう了見かしら」
これ見よがしに鼻先で揺らされるそれは、先ごろ繊月が雅芸宮に送った文であった。前回の反省を踏まえて「お借りしていたものをお返しいたしますのでご来店ください」と懇切丁寧に書いたのだが、不興を買ったらしい。
(でも文句を言いながらちゃんと来てくれるんだよねー)
思わずにやつきそうになって、繊月は「すみません」と急いで頭を下げた。
「思うところがあってご足労いただきました。お詫びにご飯でもお菓子でも奢ります」
「けっこうよ。そんなことよりも結果を見せて」
にべもない答えに肩をすくめながら、珠佳に席を勧めつつ自分もその向かいに着いた。そして、さっそく借り物の冊子を、卓上をすべらせるように珠佳の手元に差し出す。
「お返しします。ありがとうございました」
「結論は?」
受け取った冊子を流し見しながら珠佳は問う。気が短いというか合理的というか。士雲に通じるものを感じて少しおかしく思いながら、繊月は答えた。
「すみずみまで読みこみましたが、雅芸宮に雀の啼き真似のできる楽器はありませんでした」
「そう。では、やはり崔小雨は小鳥の笛を使っていた……という理解でいいのかしら」
「いえ。それはべつの理由から否定できます。理由は士雲さまに訊いてください。わたしの口からは言えません」
「――訊かない方がよさそうね。いいわ。ひとまずそういうものだと思うことにする」
数舜目をすがめたのち、珠佳は手元でぱたんと黒い表紙を閉じた。
「それで?」
紅い眦をした目が繊月を見る。
「この台帳に手がかりはなかった――ただそれを伝えるためだけにわたしを呼びつけたのではないでしょう? ほかに何が必要なの」
問い返され、いよいよ笑ってしまいそうになった。
相変わらずつんとした物言いなのに、欲しいところに投げ返してくるこの的確さ。さすが由緒正しい女官。士雲が引き抜くはずだよと思いながら、繊月はずいと身を乗り出した。
「わたし、女性目線が欲しいんです」
「――おかしなことを言うのね。あなただって女性じゃない」
変な顔をする珠佳に、ぶんぶんと大きく首を振る。
「珠佳さまでないとだめです。わたし、夜雀騒動に関しては男性陣からの話しか聞けていないんですよ。雅芸宮は女社会ですし、士雲さまたちが見ているのはあくまで外側からの雅芸宮……なにか見落としているところがあると思うんです」
力説すると、珠佳はまた少し目をすがめ、うなずいた。
「――一理あるわね。具体的に、何を知りたいの?」
「夜雀の鳴き声が聞こえていた場所を、できるだけ詳しく」
「承知したわ。見取り図でも描きましょうか」
「いえ。準備してあります!」
繊月は飛び跳ねるように席を立った。
打てば響くというような、絶妙な噛み合い具合に興奮していた。
新しいおもちゃを披露する子どもさながら、急いで冊子を持ってきて広げると、珠佳もまた迷わず指を伸ばして白星殿の南側をなぞる。宮妓の部屋が並ぶあたりだ。
「夜雀が出たというのはこの一帯。主に宮妓から被害の声が上がっていたわ。騒動の間は昼間に欠伸をかみ殺す宮妓を何人も目にしたし、奏楽の精度が下がって叱責される宮妓もいた。被害の範囲は広いものよ」
「……ということは、崔小雨の言うとおり、狙いは白星殿の不特定多数、ということですね……」
食い入るように見取り図を注視していると、「そんなことまで知っているの?」と珠佳が不審そうに眉をひそめた。
「あなたよほど士雲さまに信用されているのね」
「成り行きですよ。たまたまわたしが役に立つ情報を持っていたから、とことんまで使い倒したいんだと思います」
「そう。――それが分かっていて、この台帳を精査した結果を士雲さまより先にわたしに知らせるのはどういうわけかしら」
急に詰問口調に変わって、繊月はぎくりと身をすくませた。すかさず、珠佳の白い面がずいと迫る。
「夜雀被害の発生場所だなんて、士雲さまでも岳晋さまでも、訊けば答えてくださるでしょう? 本当に訊きたいことはほかにあるのではなくて?」
ねめつけられて、繊月は震えた。恐怖ではない。感動に打ち震えたのである。
「珠佳さま、切れ者すぎませんか! 痺れます……!」
「冗談言っていないですみやかに白状なさい」
「あ、はい、すみません」
頭をかきながら、繊月はちらと珠佳を見た。うながすように顎を振られた。つくづく士雲のようだと思ったが、それはそれで都合がよかった。彼に訊くように訊けばいいのである。
「旺喬さまについて教えてください」
投げかけると、珠佳の取り澄ましたような表情がいっぺんに警戒色にとってかわった。
華奢な肩が目に見えてこわばり、卓上でくつろいでいた両手がきつく握り合わされる。
(やっぱりこのへんに突っこむのは禁忌、か)
相手は蒼嘉国二大名家のご令嬢。軽はずみなことを言って関係者の耳に入ればことだ。珠佳はとくに、士雲に引き立てられた人だから、日頃から言動に気をつっているのだろう。
――だからわざわざここまで来てもらったし、軽めの質問からはじめたのだ。
繊月は、たたみかけた。
「雅芸宮に可家のお嬢さまがいるってこと、珠佳さまの台帳を見てはじめて知りました。旺喬さまは士雲さまと敵対する家のお嬢さまですよね。どんな方か知りたくて」
「……どんなって、あなた旺喬さまから何か受注したのでしょう? お会いしたのではないの」
「お会いしました。おっとりして、いい意味でお嬢さまだと思いました。でもしょせん商売の上での接触ですし、第一印象がすべてではないはずです。ふだんのことが知りたいんです」
珠佳の目が迷うように泳いだ。
「……知ってどうするというの」
「夜雀騒動が可家の工作かどうかの判断材料にします」
「は――」
卵をまるごと放り込めそうなくらい、大きな口を開けて珠佳はほうけた。ぶるりと震える。
「待って。意味が分からない。工作? ですって?」
「はい。崔小雨が騒動を起こした理由が白星殿三位の交代だったと聞いたんです。でも崔小雨とやめていった宮妓の関係性があいまいで、白星殿のみなさんに報復する理由もよく分かりません。だから、崔小雨の義憤を隠れ蓑にして可家が工作を仕掛けたんじゃないかと疑って――って。珠佳さま、そんな引かないでくださいよ!」
気づけば珠佳は蛇か蠍にでも出くわしたような顔をしていた。袖を口元にやってゆるゆると首を振り、
「引くわよ、引く。飛躍しすぎだわ。あなた物語の読みすぎではないの」
「あ、それは、はい。否定できません」
その点は、苦笑いで素直に認めた。
「雅芸宮周りの書物をむさぼり読んでいた時期があって、雅芸宮が政治の道具だった時代があったと知っていたんです」
皇后の妹が女官長として雅芸宮を支配した時代。
三つの名家の令嬢が雅芸宮三殿舎の筆頭宮妓となって覇権を争った時代。
凶作にあえいだ時代は貴族の令嬢らを押しのけ豪農の娘が権力を握った歴史もあるし、先帝の時代は宮妓から側室に召し上げられる例も多かった。
当然、雅芸宮のそうした動きは多方面の権力図に影響する。
「政略結婚ならぬ政略的雅芸宮入りって、昔からあるんですよね? 放っておいてもいい縁談が舞いこむはずの旺喬さまがわざわざ雅芸宮にやってくるのに目的がないとは思えません。現実として、士雲さまは今疲弊してますから。たくらみがあって現状があるなら作戦通りですよ」
「本当に待って。落ち着いて。それは考えすぎよ。仮にそんな動きがあったとしても、士雲さまなら早期に察知して大々的に手を打てる。因縁のお家同士だからこそ常日頃から動向を抑えているものでしょう? 夜雀騒動が後手に回ったのはその警戒網の外で起こったからだわ」
「……なるほど。とても参考になります」
繊月はすぐさま持論を引っこめ、うなずいた。
旺喬は謀などしない――そう言いきった岳晋と、珠佳の考えは一致する。
それこそ繊月が一番知りたかったことだ。
士雲は明言を避けたが、彼が目をかけている二人が言うのなら、これは可家の謀ではない。それならそれでいい。
(――でも、そうなるといよいよおかしくなってくるんだよね……)
繊月はちらと棚の方を見た。昨日直し終えた旺喬の撥が、二本きれいに並べてある。




