その羽は、漆黒-⑨
(運の問題……なのか?)
また繊月の悪い癖が発動した。
士雲は中立の姿勢をとっていたとして、旺喬の方はどうなのだ――と考えてしまったのだ。
わざわざ敵陣にも等しい雅芸宮に乗りこんでくるのだ、ふつうに考えれば何らかのたくらみがあるものと推測できるし、下手したらそのたくらみがすべてにつながるやも――。
「繊月殿。何かお気付きですか」
急に岳晋に水を向けられ、心臓が跳ねあがった。ばっと顔をあげる。
「わ、わたし? ですか?」
「ええ。手が止まっておられますよ。何か考えておられたのでは?」
岳晋がにこやかに繊月の手元に視線を注ぐ。そこに半分だけ残った蒸しまんじゅう。先ほどまで湯気があがっていたはずなのに、すっかり熱を失っている。
「なんだ、鴨子。おかしなことがあるのなら申せ」
そそくさとまんじゅうを皿に戻すと、士雲が顎を振ってせっついてきた。片や、岳晋はやわらかな相槌で先を促してくる。やることは真逆だが、二人が待っているものは同じだ。
繊月はもぞもぞとその場で座りなおしてひと息ついた。
「考えすぎかもしれません。あと、失礼だったら申し訳ないのですが」
「前置きはいい。単刀直入に言え」
「――はい。夜雀騒動って、士雲さまに対する可家の妨害工作だって可能性はないでしょうか」
指示通り思いきりよく言ったとたん、岳晋の顔から笑みが消えた。士雲もしかりだ。いや、士雲は意図して表情を無にしたように見える。酒杯を傾け、まるで興味がないようなそぶりをしながら「続けろ」と言う。
「宇家と可家が勢力争いをしているのはわたしも知っています。だから、士雲さまが総首官を務める雅芸宮に旺喬さまがやってくるのなら、何か目的があるんだろうと思います。それに、可家は力のあるお家ですよね。旺喬さまの宮入りに際して上位に空きを作るよう要求してきてもおかしくないですし、それで白星殿三位に空きが作られたのなら、崔小雨が報復に走った理由にも真実味が出ます」
「なるほど。それゆえ可家の工作だと?」
「はい。水笛を買いに来た方は富豪の家の下男のように見えましたし、これはわたしの偏見かもしれませんけど、歴史ある名家って、偽装工作とか、細工とか、他人を利用するすべを知り尽くしているような気がします。崔小雨に報復をそそのかして実行させることくらい簡単にできるんじゃないでしょうか。――士雲さまも、とっくに想定されていると思いますけど」
士雲は、噛みしめるようにうなずいた。
「可能性のひとつとして考えてはいる。黒幕となるにはそれなりの財力と人脈が必要だ」
「旺喬殿はそのような謀をなさる方ではございませんよ」
岳晋が控えめに言葉を差しはさんだ。
それはつまり繊月の推測を否定するものか――と思われたが、士雲は彼の言をあからさまに聞き流し、代わりに、「そなたはどう思った」と、繊月に視線を向けてくる。
「――え。わたしですか」
「ああ。可家の姫と言葉を交わしたろう。どう感じた」
「どうって、いかにも箱入りという感じの、おっとりとした方だと思いました。接したのは短い時間だけですけど、旺喬さまの立ち振る舞いから悪い印象は受けませんでした」
「だがそなたは可家の工作を疑った。なにゆえだ」
なんだか尋問のようになっている。酒が入って少々とろけたような目をしているのに、「答えろ」と促す彼の声は妙に鋭い。繊月は少々怯みながら、
「ひとり質素ななりをされていたのが気になりました」
と、答えた。むっとばかりに士雲の眉根が寄る。
「質素か? 貸与の衣装をまとっているだけだろう」
「でも白星殿ではみなさん華やかな格好でした。ふつう名家のご令嬢なら、周りと張り合ったり、お家の権威を示すために、それなりのものをお召しになると思います。もちろん、ただの地味好みという可能性もあるんですけど……」
「けど――なんだ」
「いえ。貸与の衣装を着るのが無害を装うための演出だとしたら……なんというか、そうとう曲者じゃないかと思って……」
さすがにこれは考えすぎだという自覚があって、尻すぼみになった。だが、とても店のにぎわいに掻き消えるほどでなく、士雲が肩を震わせ笑い出す。
「そなたの発想はおかしい」
「だ、だから言ったじゃないですか。考えすぎかもって」
恥ずかしまぎれに前髪をいじると、「かまわん。それでいい。それが必要だ」と、士雲はやけに愉快そうに酒杯をあおった。そしてやおら繊月を見つめ、言うのである。
「鴨子。そなた女官になれ」
「――は?」
「女官になれと言っている」
二度目、同じ台詞を士雲は言った。
一瞬聞き間違いかと疑ったが違う。空耳でもないらしい。岳晋が恐ろしい勢いで振り向いている。
が、士雲はそちらにはちっとも気づかないまま、ときおり重いまばたきを挟んで答えを待っている。
繊月は、肩で息をついた。
大きく目を開き、士雲の尊顔を見つめる。
「……士雲さま。酔ってますね」
「酔ってなどおらん」
「酔っ払ってる人はみんなそう言います。もう、今日はお帰りになった方がいいですよ。はい杯を置いて、いったんお茶を飲みましょう。さ、ぐいっと一杯」
「やめろ。鴨子に指図されるいわれはない」
「指図でなく気遣いです。もー、そうやってすぐ機嫌が悪くなるのも顔色が悪くなるのも休息が足りないからですよ。重要なお役目も難しいお立場も分かりますけど、身体を壊したら意味ないですからね。ほら、岳晋さまも頭抱えちゃってるじゃないですか!」
指を差せば、士雲もようやく従者の恨みがましい視線に気がついた。
怯んだように顎を引きながら、「私は悪くない」と、謎の言い訳をはじめる。やはり酔っ払い以外の何者でもない。
岳晋が、ため息をつきながら膝でにじりよってきた。
「……申し訳ございません、繊月殿。こんなはずではなかったのですが……」
「あ、大丈夫です。思ったよりも士雲さまが過酷な状況で、なんというか、やさしくしなきゃいけない気になってきました。わたしもちょっと本気出します」
勢い任せにポンと叩いた腹を、「本気?」と岳晋が不思議そうに眺めた。
「あ、べつにお料理食べつくすとかじゃないですよ!」
「ええ、そうでしょうが……何をなさるおつもりですか」
「秘密です」
笑顔できっぱり言い切った。岳晋なら最初にこうして線を引いておけば強く出まいと計算してのことだったが、思ったとおり、彼はもの言いたげにしながらいちおう黙った。代わりに、「おいそなたら、私を置いて話を進めるな!」と酔いどれが騒ぐ。
「はいはい、大丈夫ですよー、ぜんぜん進んでないですからねー」
「適当にあしらうな、無礼な鴨子め!」
「士雲さまそろそろ面倒くさいです」
もう帰ってくれ。
切実に思ったとき、折よく「繊月さん、ちょっといいですか」と外から童女の声がかかった。禿だ。どこぞの部屋で宮妓が笛を所望しているのだろう。
これ幸いとばかり、繊月は帯に挿した笛を引き抜き立ち上がった。
「すみません、仕事みたいです。わたしはここで失礼します」
「待て、鴨子――」
「繊月殿。行ってください。こちらのことはお気になさらず」
「ありがとうございます」
身を挺して行かせてくれた岳晋に心からの礼を言い、繊月はぱさりと顔に薄布をかけた。
(このまま士雲さまには休んでもらおう、そうしよう)
思いながら、手招きする禿のもとへ一直線、走った。
繊月が出ていくと、部屋はいっぺんに静かになった。店の賑わいは届いているがどこか遠く、物寂しさすら感じる。
「……なんなのだ、あの顔の布は」
士雲がとうとつにつぶやいた。
張り合いを失ったのか、すっかり力の抜けた様子で繊月の去った帳の向こうを眺めている。
「衣装のようなものだとおっしゃっていましたよ。以前も、笛を吹く際に着けておいででした。危なげないところを見ると、あんがい視野は確保できているようですね」
「……おかしな鴨子だ」
毒づきながらまた酒杯を傾けようとする手を、岳晋はすばやく押しとどめた。
「士雲殿。今宵はそれくらいで。落ち着きを失っている自覚はおありでしょう」
しかと目を合わせて言い聞かせれば、いつも自信満々に物事をとらえている彼の双眸はそろりと脇に逃げた。
酒杯がおとなしく手放され、直後に、深いため息が聞かれる。
「……なにひとつ思い通りにいかない」
「仕方のないことです。多くの者の思惑が複雑に絡んでいる状態でございますゆえ。焦ってはなりませんよ」
「無理だ」
士雲は言う。強い口調に反して、無防備にさらされたうなじがなんとも頼りない。
当然かと思う。
右も左も敵ばかりという環境下で重責を負い、困難続きで休む暇もない。
そこにきて、味方に欲しい相手にはあれだけきれいにはぐらかされたのだ。
挫けたくもなるだろう。
部屋の外から笛の音が聞こえてくる。
「繊月殿ですね」
すぐに分かったのは、いつぞや、鴨子の笛で迷子に聞かせていた子守唄だったからだ。
またどうして妓楼で子守唄なのか――その選曲に少し笑ってしまったが、そう言えば以前、妓女の要望に応じてさまざまな曲を吹くのだと言っていた。寝かしつけたい客でもいるのかもしれない。大の大人が子守唄で寝入るものかは、定かでないが。
「よい音ですね」
聞き入るうち、ほっとまるい息がこぼれた。
繊月の笛は一般的な笛と比べてかなり大振りだ。帯に挿していると太刀と見まごうほどで、そうとう扱いづらいはずだが、紡がれる旋律は少しの滞りもなく、絹糸を水にさらすようになめらかに流れている。
それでいて、笛が長い分だけ音が深く響くようだ。
繊月の子守唄は、店の喧騒にまぎれるわけでもなく、さりとて聴け聴けと強く主張するでもなく、隙間にするりとすべりこむように、寄りそうように、耳に届く。まさしく子守唄にふさわしく。
さすが、高級妓楼に出入りが許されるだけある。繊月は奏者としても優秀だった。
「……士雲殿。ひょっとすると、繊月殿は女官よりも宮妓でいる方が活躍するのではないでしょうか。――士雲殿?」
返事がないと思ったら、いつの間にか彼はこっくりこっくり舟をこいでいた。あわてて傍で膝をつきその身を支えると、一瞬、瞼がうすく開く。
「士雲殿。お帰りになりますか」
「……んー……」
是とも否ともつかぬ返事をし、吸いこまれるように彼は寝入った。遊び疲れて突然力尽きていた、子どもの頃を思い出すような寝顔だ。
やわらかな気持ちがこみ上げてくる。
「……今宵はゆっくりお休みください」
健やかな寝息を立てる主に声をかけ、そうするのはもう何年ぶりのことだろうか、まさに幼子にするように、頭をなでる。
そうしながら、やさしく彼を包むこの旋律がよい夢を運んでくれればと、願わずにはいられなかった。




