その羽は、漆黒-⑧
「はい。今行きます」
空きが出たのだろう。
さあ出番だと、急いで冊子を帯の中にしまい、笛をつかんで控室を出る。
栄安の妓楼は、たいてい二階から三階建てで、中央部分が吹き抜けになっている。正面から入店するとすぐに鳥の双翼のような大きな階段があり、吹き抜けをぐるりと囲うように回廊が造られ、外壁に沿って小部屋が並ぶというのが一般的な構造だ。
そして、客寄せはどこも、大通りに面した上階の一室で、戸を開け放して行う。そうして通りに向かって芸を披露し、往来の人々の関心を引くのである。
今もまたそのつもりで回廊を正面に向かって急いでいると、「ああ、こっちこっち」と店の男衆に呼び戻され、なぜか最上階に続く階段の方へ案内された。その先は特別室である。
そして怪訝の表情で進んだ帳の向こうには、雅芸宮に君臨する名家のご子息と美しい肉体を持つ武官が、美女らを侍らすでもなく豪華な膳を囲んでいるのである。
「……なにしてるんですか、お二人で」
「自ら行き先を吐いておいてこの事態が予測できなかったのか。そなた頭の回る鴨子であろう」
酒杯を傾けながら士雲が鼻を鳴らした。
また絶好調に口が悪い。ご機嫌も、斜めどころか捻じれているようである。繊月はげんなりしながら、「何かご用でしょうか」と事務的に返す。
「ひとまず座れ」
「あいにくわたしはこの店の者じゃありませんし、わたしのお客は妓女のみなさんです。よってこの店のお客さまのご要望にお応えする義務はありません」
「口の減らん鴨子だな」
「うるさいと思うなら呼ばなきゃいいんですよ」
苛立ちに苛立ちをぶつけ返して睨みあっていると、「お二方とも、そのくらいで」と、岳晋が間に入ってきた。
「せっかくの料理が冷めてしまいますよ」
よく見れば、彼らの前に並んだ炙った豚肉や蒸しまんじゅう、餡のかかった白身の魚などはきれいに三人前あった。
「本当に食事のお誘いだったんですか」
「――はい」
微妙な間はなんだろうか。
にわかに警戒するも、さあさあと席を勧められ、豪勢な料理を目の前にすると何もかも吹っ飛んだ。
(炙り肉香ばしい! おまんじゅうふかふか! お魚ふっくら、甘酸っぱい!)
ちょうどお腹も減っていたので箸も進む、進む。
「お口に合ったようでなによりです」
「……わたし何も言ってませんけど」
「お顔で分かりますよ」
「餌付けのしやすい鴨子だな」
二人はそれぞれ種類の違う笑みを浮かべていた。
見なかったことにした。ここまで来たらもうなんとでも言えという気分である。
開き直ってばくばくいただいていると、「商談はいかがでしたか」と、岳晋がたずねてきた。
「商談? ――って、ああ、旺喬さまのことですか。おかげさまで、いい取引ができましたよ。ありがとうございました」
軽く頭を下げながら、なるほどと繊月は理解した。ぱっと顔をあげ、
「商談の中身を報告しろということだったんですね。すみません、気が利かず。旺喬さまって、可家のお嬢さまですもんね。無関心でいるわけにはいきませんよね」
急いで箸を下ろすと、二人は一転、妙な顔をして凝視してきた。
「……なにか?」
「……繊月殿。それは、旺喬殿がおっしゃったのですか。その、可家の方だということは」
「――いえ。道々で、小耳にはさみまして」
とっさに誤魔化す。今時点で珠佳の台帳の存在を知られるわけにはいかないと思ったのだが、それどころではなさそうだ。岳晋が、まるで旺喬の素性を伏せていたような口ぶりだったので。
「えっと、知るべきでなかった、ということなら忘れますけど……」
右に左に目玉を動かし、二人の表情を盗み見ていると、士雲は「かまわん。周知の事実だ」と言い捨て酒をあおった。
でしょうね、と繊月は胸中で応じる。
台帳に、彼女の名は『可旺喬』とあった。
可家といえば先祖代々高官を輩出し続けている名門中の名門だ。それこそ士雲の生家・宇家と並び立つほど格の高い家として有名で、当主は今生陛下の片腕として働いており、宇家の当主と宮城の勢力を二分していると聞く。それが当代ばかりの話でなく、何代にも渡って続いているから、『宇可双肩』という――宇家と可家はこの国の左右の肩であるという――言葉が誕生したほどだ。
おそらく、旺喬は雅芸宮に在籍しているどの宮妓よりも家格の高い令嬢だろう。一点ものの楽器を所有していたり、撥に巻いた布のほんのわずかなほつれを外注して直そうとする、そのあたりの感覚はいかにもという感じだ。反対に、装いが質素な点がよく分からないが。
とにかく、彼女がいやでも周囲の関心を引く存在だというのは間違いない。
(で、士雲さまにとっては敵対勢力のお嬢さま、と……)
宇家と可家は宮城の勢力を二分する、いわば政敵。庶民の間では「宇可は飼い猫までもいがみ合う」と風刺されるくらいだ。士雲のみならず岳晋までもが妙な反応をするのはそういうわけである。なかなか、繊細な問題をはらんでいる。
様子をうかがっていると、士雲がちらと視線をよこした。
「……鴨子。受けたのは撥の修理だと聞いたが相違ないか」
「はい。素人でも直せるような軽微なものです。正直、お代をいただくほどでもないくらいの」
「代金は請求しろ。特別な計らいがあるなどと勘繰られては面倒だ」
「分かりました。そうします」
ここは素直にうなずきながら、士雲は中立を貫く姿勢なのだなと察した。正しい判断だろうと繊月も思う。
自分の統括する組織に敵方のご令嬢がいるとなれば、厚遇しても冷遇してもきっとどこからか物言いがつく。無駄に敵を作らないために無難にやり過ごすのが最良の策だ。
(でも、宮入りしてすぐに旺喬さまを白星殿三位に起用してる……)
この点は、政治的な事情というか、忖度というか、庶民には考えも及ばない大きな力が働いたに違いない。
結果、元いた白星殿三位の宮妓が宮を去ることとなり、崔小雨が逆恨みし、夜雀騒動に発展したのだから、士雲にとっては不運だ。




