その羽は、漆黒-⑥
「遅い」
ようやく士雲の執務室にたどり着くと、いかにも機嫌の悪そうな声が飛んできた。
「……申し訳ございません、繊月殿。今少々気が立っております」
「そのようですね」
戸口で出迎えてくれた岳晋と目を見かわし、彼の立派な体躯の陰からそっと室内をうかがう。
すぐに、執務机でふてくされたように頬杖をつく士雲と目が合ってしまった。
げんなりしつつ、丁寧に一礼して入出する。
「お待たせして申し訳ありません」
「ああまったくだ。一件の用聞きにどれだけ時間がかかっている」
「御用聞きはすぐに終わりましたが、そのあと書庫係の珠佳さまに呼び止められまして」
「珠佳だと? あやつがそなたに何用だ」
しかめ面で士雲が言う。
意外にも末端の女官のことまで把握しているらしい。少々驚きつつ、繊月は腹を押さえ、
「えーと、夜雀騒動がなかなか終わらないと、愚痴を聞かされました」
と、うそぶいた。
その手の下には珠佳から押しつけられた冊子の固い感触がある。
大きさこそ札くらいのものだが、いかんせん厚さがあったので襟元に忍ばせることができず、どうにか帯の下に押しこんで固定したのだ。
見た目も動きも違和感が出ないよう四苦八苦していたからこそ時間がかかったのだが、もちろん初っ端からばらすわけにはいかない。
繊月は何食わぬ顔で二人に向き合った。
「あれから崔小雨はすべて話したんですよね? まだ決着しないということは、矛盾でもあるんですか」
「ああ、矛盾だらけだ」
疲れたように、士雲がふたたび頬杖をついた。
「あの娘、聴取には素直に応じているが、悪戯には小鳥の水笛を使い、その笛を池に捨てたと言い張っている。確実に半分は偽りだ」
「……確かに、そうですね」
池に捨てられたのは後から持ちこまれた偽物である。そして、悪戯に使った笛が小鳥の水笛だという自白も、今時点では真偽を確かめるすべがない。
「ついでに、笛は雅芸宮に上がる際に親におもちゃとして持たされたとも言ってるが、この点も妙だ。同室の者も親しく口をきいていた者も、あの娘があの笛で遊ぶ姿は見たことがないと言っている」
「加えて、申告された持参品の中にふくまれておりません」
つまり矛盾だらけというわけだ。
「ちなみに、悪戯の目的って分かっているんですか? 動機、というか」
「ええ、まあ。いちおう自白しておりますが……」
と、言いさした岳晋の視線が士雲のもとに流れたのを見てとり、「あ、言えないことなら大丈夫です」と、繊月はあわてて手を振った。だが、
「崔小雨の目的は報復だ」
思いがけずあっさりと、士雲が明かした。もう姿勢を正し、その細面から苛立ちも消している。
「少し前に白星殿三位の宮妓が宮下がりした。輿入れのためだ。だが、崔小雨はそれを、三の位を空けるために仕組まれた縁談だと考え、みなに嫌がらせをしたと供述している」
「……はあ。報復……?」
いったん受け止めたものの、首を傾げずにはいられない。
「それ、筋通ってますか? 仕組まれた縁談だとして、どうして白星殿のみなさんに嫌がらせするんですか? それに、なんで崔小雨が仇討ちみたいなことをする必要があるんでしょうか。師弟関係とか、親類縁者とか、そんな感じだったんですか?」
「いえ。同室の者たちは、崔小雨がその宮妓によく懐いていたと証言しておりますが……」
「宮下がりした宮妓の方も、崔小雨に形見分けのように銀の簪を残している。崔小雨が一方的に慕っていただけではなさそうだ。だが、今のところ報復を考えるほど双方の間に深い縁があるとの情報はない」
「ということは、それも嘘かもしれないってことですか。本当は別の目的があるとか?」
何気なく口にすると、さっと空気が変わったのが分かった。
またよけいな知恵を回してしまったらしい。
察して、繊月は口をつぐんだ。
ひとまず、事態が小康状態にあることはよく分かった。
「……鴨子。珠佳は何か言っていたか」
「珠佳さまですか?」
内心ぎくりとしながら、「裏付けが取れないから士雲さまが自白を受け入れないとか、そんなことをおっしゃってましたね」と、繊月は早口に応えた。そして「偽装工作をご存じならもう少し捉え方が違うんでしょうけど」と、余計なことまで口走ってしまう。
実際、彼女が偽装について理解していたならこの冊子を出すのも早かったと思う。今さらだが。
「……あの。どういう方なんですか、珠佳さまって」
繊月はおそるおそるたずねた。
思いのほか士雲の覚えがめでたいのでは、と感じたからだ。書庫での出来事を思えば悪しざまに罵られてもおかしくないのに、士雲はしかめ面をするものの、今のところ罵詈雑言が出る様子はない。
「優秀な方ですよ」
代わって答えたのは岳晋だ。彼こそ書庫で不快な思いをしたはずだが、その口調は好意的で、
「珠佳殿は士雲殿が雅芸宮に赴任する際に引き抜いてこられた方です。ただ、雅芸宮とは水が合わないようで、前任の部署ほどご活躍ではありませんが」
「……あ、なるほど」
いっぺんに納得した。
珠佳は試験に合格してその職に就いた、由緒正しい女官だということだ。才色兼備はすでに知るところだが、その経歴ならおそらく家柄も悪くない。
片や雅芸宮の女官たちは、素養を欠く宮妓あがりの者ばかり。しかもその多くは宮妓であった頃に良縁に恵まれず、実家にも戻れずやむなくその道を選ばざるをえなかった者たちだ。
年経た者も、鬱屈を抱える者も多い。
珠佳がなじめるはずがない。彼女が手柄を捨てでも雅芸宮を出たいというのは本音だろう。
(でも、職責からは逃げない、と)
少し笑ってしまう。つんけんしていてもやはり彼女は由緒正しいすぐれた女官だ。
台帳の中身も信用できそうである。
不謹慎だが少し楽しみになってきた。
繊月は、そのまま包袱を抱えなおして姿勢を正した。
「では、今日はこのあたりでお暇しますね。またお品をお届けに上がります」
「もうお帰りになるのですか」
なぜか驚いたような岳晋に、「はい。用はすみましたし」と、繊月はうなずく。
「紅花殿や耀風殿も見学なさってはいかがですか。よろしければそのあとにお食事でも」
「あ……ありがとうございます。でもお気持ちだけいただきます。今日は忙しいので」
飯時には早いのに何を言っているのか。内心首を傾げていると、
「店を閉めたあとは暇であろう。顔を貸せ」
士雲までもがそんなことを言いだすから疑問も警戒も成り代わり、繊月はいっそう強く包袱を抱きしめ「夜は夜で仕事があります」と訴えた。
本当のところ今時点で何も予定はなかったが、ちょっと楊飯店に行って笛を吹けば嘘にはならない。
(ついでに鶏甘酢でも食べようかな。固焼き麺も捨てがたい。そろそろ火鍋も美味しい季節だ)
芋づる式にそれら料理の香りまで思い出してうっとりしていると、傍らの岳晋が「また妓楼ですか」と声をひそめた。微妙な表情である。が、繊月はといえば正反対に、天啓を得たように晴れやかな顔になる。
「妓楼――そうです、妓楼です!」
「今宵はどちらへ?」
「うーん……金花院、かな」
たった今思いついたところだが、なかなかの名案だ。
金花院はこの国一番の格を誇る名店中の名店。あそこなら飛びこみで行っても歓迎してくれるし、客寄せの笛を吹き、部屋が埋まれば空きが出るまで休ませてくれる。なにより、夜になっても明かりはたっぷり、使い放題。台帳を読むのにうってつけだ。
奮い立つような思いで、繊月は包袱を抱きしめた。
「すみません、わたし急ぎますので! 失礼します!」
「あ、繊月殿――」
「待て、鴨子!」
「あ、お見送りはけっこうです! ごきげんよう!」
房の耳飾りをふわりと揺らし、繊月は駆け出した。
気持ちは高級妓楼に一直線、関心は腹の冊子に集中していた。
だから気づかなかった。
高貴な香りの漂う執務室の中、二人が意味深に目を見交わしていることに。




