その羽は、漆黒-④
客の部屋は、白星殿の一階、奥まった角にあった。
文官武官はみだりに部屋に立ち入ってはならないとかで、岳晋は到着を告げるなり引き返してしまい、ここから先は繊月ひとりでの対応だ。少し緊張しながら袖を掲げる礼をとる。
「失礼します。尹楽舗から参りました――」
「お待ちしておりました」
迎えたのは、白星殿の衣装をまとった宮妓だった。繊月とそう変わりない年頃の、すらりと背の高い女性だ。
「ご足労いただき申し訳ありません。お初にお目にかかります。旺喬と申します」
宮妓――旺喬は丁寧に一礼したのち微笑んだ。
育ちのよさそうな人だった。
まとう衣服は貸与の衣装で、花を模した髪飾りはどう見ても布製、耳飾りは組み紐。他に装飾品はない。さきほど豪快な要求をしてみせた宮妓らと比べるとだいぶ地味だが、所作が美しい。
そしてあっさりとした顔立ちの美人でもある。
肌はむき身のたまごのように白くなめらかで、目元はやさしい。うすい口唇がやや血色を欠いて見えるのは化粧をしていないからだろうが、それでもきれいだと思うのだから本物だ。
ひとまず威丈高な相手ではないことにほっとして、繊月も深く一礼した。
「ご丁寧にありがとうございます。繊月です」
「繊月さまですね」
「――さま?」
「お会いできて光栄です。どうぞ、お入りください」
首を傾げる間に、旺喬はさあと繊月を部屋の中へ招いた。
広々とした空間に架子牀はひとつきり――個室である。
(位持ちだ)
すぐに察したが、実際何位の宮妓なのかはうかがい知れなかった。
旺喬の質素な装いは上位に君臨する人たちとはまるで違うし、微妙な立ち位置であったらと思うとずばりと訊きづらい。このあたり、妙齢の女性に齢を訊けないのと同じ繊細さがある。
「繊月さま。どうぞ、こちらにおかけください」
にこにこと席を勧められた。あまりものの多くない部屋に、椅子はひとつきりだ。本来なら客こそ腰掛けるべきところである。
「あの……旺喬さま。わたしはただの楽器屋で、宮妓の方にそんな丁重にお迎えいただくような身ではないんですけども」
「何をおっしゃるのですか。夜雀に立ち向かい、打ち勝った方です。わたくしにとっては救国の士と言っても過言ではありません」
「いえ、過言ですよ。おおげさです。立ち向かってないし勝ち負けの問題じゃありません」
「まあ、慎ましい方なのですね。そんなところも尊敬いたします」
旺喬は感激したように胸に手を当てている。やはりおおげさだ。
話が妙な伝わり方をしているのだろうか。はたまた夜雀にひどく悩まされていたのだろうか。
なんだかよく分からないが、歓迎されているのは間違いないのでよしとして、さっそく用向きを訊いた。
「じつは、撥を直していただきたいと思っているのです」
旺喬はきり出した。修理の依頼だ。楽舗で引き受ける仕事のひとつである。
大店では雇いの技術者がそうした業務を請け負い、尹楽舗のような小規模店舗ではいったん品を預かったのち職人のもとに持ちこむのが慣例だ。
ただし、それは楽器本体の話で、周辺小物は修理するより新しいものを調達するのが一般的だ。
琵琶だろうか、と繊月は考えた。
琵琶に太鼓、楊琴、鉦……撥と言われてまず思いつくのはそのあたりの楽器だが、ほとんどの撥が消耗品で、手直しして長く使うのは琵琶の撥くらいである。
だが、旺喬が出してきた実物は、琵琶のそれとは明確に違った。
「はじめて見ます」
思わず身を乗り出してしまう。
細長い木製の柄の先端に、まるく削りだされた木の球がついた撥である。
形状としては鉦を叩く撥に一番近いが、鉦用の撥は先端が槌の形だ。そして二本渡されたので、二本で一対であろうと分かる。この点は楊琴に通じるものの、楊琴の撥は先端が羽根のように平たく、柄もよくしなる竹製だ。いずれも似て非なるものである。
「旺喬さま。こちら、何の楽器の撥なんでしょうか」
「石琴です」
「せっきん……」
聞いたことのない名だった。石の琴と書くらしいが、そうと教わってもぴんとこない。
撥がこの形なら、叩いて鳴らす楽器なのだろうが。
「……本体の方を見せていただくことはできませんか。存じ上げない楽器なので。不勉強で申し訳ありません」
「とんでもないことです。ご存じなくて当然です。一点ものですから」
「一点もの!」
「はい。ですので、申し訳ありません。軽々にお見せできないのです。心苦しいのですけど」
「そ、そうですか……あ、全然、大丈夫ですよ。なんとかなりますので。いえ、なんとかしますので」
内心ひいと悲鳴を上げながら、繊月は必死に言った。一点ものの貴重な楽器だなんて、かえって出てこない方がいい。うっかり傷でもつけたら大変なことだ。
繊月は回りすぎる頭を持っているのだから、今ある情報を手がかりに推測すればいいのである。
繊月は、二本の撥をじっと観察した。末端から先の方へ、つうと指先でなでてみる。
「……撥を使用するということは『打』の楽器ですよね。本体の材質は石。名に琴とつくなら、平置きの形で、かつ複数の撥で同時に二音以上を鳴らすことが可能であると推測できます。つまり、石磬を寝かせたような楽器――という認識で間違いないですか」
石磬も『打』の楽器で、大きさのちがう石の板をいくつも吊って、槌型の撥で叩いて音を出すものだ。一般的に小さくうすい石ほど高い音が、大きく厚い石ほど低い音が鳴るもので、見た目こそ武骨だが、良質な石が使われたものはとても澄んだ音が鳴る。
「は、はい。まさにおっしゃるとおりです! さすがです!」
旺喬は指を組み合わせて声を上げた。まるで透視が当たったかのような感激ぶりだが、このくらいなら想像しうる範囲の話だ。むしろこの先こそまったく想像がつかない。
「……で、これのどこを直せばいいんでしょうか」
撥を差し出し、率直にたずねる。
この構造なら、使用するにつれ石に接する先端部分が摩耗していくだろうと見当はつく。が、現状傷もなく、きれいな球体を保っている。柄もまっすぐで歪みはなく、握る位置を示したものか、青い布が巻きつけられているので手垢が気になるということでもない。
舐めるように観察しても、直しどころが見つからないのである。
しかし旺喬は「ここです」と、迷いなく指で指し示した。巻かれた布の端である。
「……ここ、ですか?」
「はい、ここです」
念を押して確認したのち、繊月はいっとき無言でそれを凝視する。
(……これ、ほつれとか、ささくれとか、そういうやつでは……)
鼻息だけでひらひら動きそうなほどの小さな『疵』である。
これが気になるのならそうとう神経質だ。いやもう、謎かけかとんちでも挑まれているのではないか。
繊月は旺喬を真正面に見た。きらきらと輝く瞳で見つめ返された。悪意はまったくうかがえなかった。うかがえるのは、純然たる期待と希望である。
だから繊月は恭しくそれを掲げ、「お預かりします」と頭を下げるほかなかった。
商売には時に芝居気も必要――これは父の教えである。
(……つまるところ礼代わりなんだろうな)
旺喬の部屋を辞し、黒曜殿に向かいながら繊月は思った。
夜雀騒動への協力に際し、謝礼も報酬も受け取らないと宣言したから、士雲だか岳晋だかが気を回して仕事を斡旋した。そして取り急ぎ発注できるものがこれくらいしかなかった、というところだろう。
なんだか空振りしたような気分だが、客の気持ちに応えるのもまた仕事だと、てきとうなところに落としこんで、預かった撥も包袱の中にしまい、胸に抱えて黒曜殿を目指す。終わったら士雲の執務室に立ち寄るように言われているのだ。繊月としても、いちおう総首官さまにごあいさつくらいは、と思っている。
宮妓らの熱心な修練の様子を横目に、往路とはべつの道を使おうか、そうなら紅花殿と耀風殿、どちらの側を回って行こうか、考えながらぶらぶら歩く。
あちこち見て回りたい気持ちはあるが、勝手をしてはいけないだろうという良識が上回っている。いろいろ見て回って、欲が出てもいけない。何の欲か――自分でもよく分からないが。
結局来た道を戻る形になり、雅芸宮の中心、天鵬楼の足元に差し掛かったとき、ふと、前方に女官の姿があるのに気づいた。
げ――と、思わず声が漏れる。
華奢な身体で立ちふさがり、紅い眦をした目でこちらを睨む、その人。
書庫係の珠佳である。




