その羽は、漆黒-②
早朝の街に魅惑の香りが広がっていた。牛骨出汁のにおいだ。
(そういえばこの通りには牛骨麺の露店があったなー)
繊月は鼻を利かせながら、人もまばらな通りをふらふらと行く。
近頃は朝夕すっかり冷え込むので、あたたかい汁物が恋しい。夜通し働いた後ならなおさら、空っぽの胃がきゅうと切なくなって、どうにも我慢ができなくなる。
(朝から牛骨麺は贅沢だ……贅沢だけどおいしいのは分かってる……しかし贅沢……)
葛藤しながらも、気づけば店に吸い寄せられていた。恰幅のいい店主が「いらっしゃい」と目じりを下げて笑いかけてくる。
歓迎されたのでは食べるしかない。ここで引き返しては失礼だ――と正当化し、路上に出された椅子に腰かけ一杯注文した。
「繊月殿」
そのとき思わぬ人物に声をかけられ、繊月は「おっ」と口を開けた。岳晋である。
「岳晋さま。おはようございます」
「おはようございます。先日はたいへんお世話になりました。お食事ですか?」
大股で歩み寄ってきた岳晋は、こんな時間に、という意味合いを含む視線で、繊月の手元を確認した。まだ料理は届いていないが、箸の準備は万端である。繊月はにっこりした。
「ゆうべ仕事をがんばったので、ご褒美です。もしや岳晋さまも夜勤明けですか?」
「はい。ちょうど繊月殿をお訪ねしようと思っていたところでした。お伝えしたいことがございまして」
「はあ……なんでしょう」
耳飾りをぶらりと揺らして首を傾げた。
夜雀騒動の顛末ならすでに聞いている。
洪梅花は、銀丈が根気よく付き合ったことで池に投げ入れたものが笛ではなく石であったと打ち明けることができ、晴れて無罪放免となった。どうも水面に虫が湧いていたので、それを追い払うために石を投げたらしい。
そして彼女の前でおおげさに虫を怖がっていたという見習い宮妓の崔小雨が、悪戯についても偽装工作についても自分のしたことだと認めた。が、冤罪を生みかけた教訓から裏付け調査を充分に行う方針で、すべてを解明するまでは時を要するだろう――という話だった。
まさか十日と待たずに全容解明と相成りました、とは言うまい。
(いくらなんでも笛を買っていった客の面通しくらいは頼んでくるでしょうし)
もしや用事とはそれか――と、気も早く考えているところで、どんぶりが運ばれてきた。
透きとおった牛骨出汁の中にずっしりとした平麺が沈み、くたくたの青菜と、いかにもほろほろとくずれそうな牛肉の塊が添えられている。
ふんわり立ち昇る湯気が薫り高い。深呼吸するだけでもう幸せだ。
「岳晋さま。お話、食べながらでもいいですか」
「もちろんです。……美味しそうですね。ご一緒しても?」
「どうぞどうぞ。ここの麺はおすすめです」
手を差し出したら彼は迷いなく向かいに腰かけ、ほどなくそちらにも料理が運ばれてきた。
同じどんぶりのはずなのだが、さすがは美しい肉体の持ち主、彼の前に置かれるととても小さく見える。なんだかひとりだけ損しているようでもあった。そもそも、この量で足りるのだろうか。
と、また勝手に心配していたら、目が合った。にこりとされたが、下瞼に少々疲れが見える。
「岳晋さま。なにか急なご用でもあったんですか。わざわざ夜勤明けに訪ねようなんて」
「あ、いえ。急というわけではないのですが……なんというかこう、あまり深く考えずにうかがった方がいいような気が……いえ、こちらのことなのですが……」
歯切れが悪い。なるほど何か言いにくいことだなと察した。
気づかなかったことにした。
なにはともあれ、まずは牛骨麺である。いただきますの声も高らかに、つるんと麺をすする。ひと口目からうまみのかたまりだった。れんげを使って汁まで堪能すると、自然、熱いため息がこぼれる。
「しみるー……」
「美味しそうに召し上がりますね」
「だって美味しいですもん。夜通し働いた身体には格別に効きます」
目を細めていた岳晋が、ひょいと眉をあげた。
「夜通し、というと?」
「小遣い稼ぎに行っていました。店の売り上げだけではとうてい食べていけませんので。ゆうべは妓楼だったんですよ」
答えた瞬間、岳晋が噎せた。
「あ、色は売っていませんよ。笛を吹いているだけです。客寄せの曲を吹いたり、場を盛り上げてくれとか、逆に興を削いでくれとか、客を早々に寝かせてほしいとか、いろいろと注文があるので意外に人を選ぶんですよ」
ほら、と腰帯に挿した横笛を見せたが、岳晋はまだ噎せている。
「あ、なじみのお店がおありなら言ってください。かち合わないように気をつけますので」
「……無用のお気づかいです。ございません」
強めの咳払いののち彼は言った。
そうだろうなと思う。
この人が廓通いなど想像がつかない。そもそも、士雲の下についているのでは遊んでいるひまもなさそうだ。真面目な男が誰かに入れこむ姿というのも、見てみたい気がするけれど。
などと、またよけいなことを考えながらずるずると麺をすすっていると、ようやく呼吸の落ち着いた岳晋が、無駄に麺を上げ下げしながらちらとこちらを見た。
「……あまり年若い女性にお勧めできるところではございませんが」
「女ひとりで生きていくのに仕事を選んではいられませんよ。妓楼の金払いの良さは別格です。そこらの食堂よりずっと丁重に扱ってくれますしね」
笛を吹くのはたいてい夜半過ぎまでだが、夜道のひとり歩きは物騒だからと言って明るくなるまで空き部屋で休ませてくれる。一般の飲食店ではこうはいかない。たまに妓女らがくれるお菓子や小物も品質のいいものばかりだし、妓楼にいる者はわけありがふつうなので、親近感や連帯感もある。つまりとても居心地がよいのである。
と、説明したところで分かるまいと、どんぶりを抱えて最後の一滴まで出汁を飲み干した。ぷはっとひと息つく。すると、先ほどからすっかり動きの鈍っていた岳晋の箸がついに彼の手から離れた。いったい何なのか、「よい機会かもしれない」などと彼は独り言ちている。
岳晋は、懐を探って小さな巾着を取り出し、卓上ですいと繊月の前まですべらせた。いつぞや小鳥の笛を納めていたものと同じ袋だった。
「なんですか?」
「士雲殿からお預かりしました。先日ご協力いただいたお礼です。お納めください」
「わたし、何もいらないと言ったはずです。笛の代金をもらいすぎてるんですから」
「持っているだけでは何の役にも立たないものです。ひとまずご確認ください」
妙に頑なな物言いに首をひねりながら、そろりと手を伸ばす。
果たして中から出てきたのは、割符だった。見たことはないが見れば分かる。手のひらに収まる程度の細い板に半分だけ屋号が記されているそれ、商人向けの雅芸宮の入場許可証――すなわち雅芸宮御用達の証だ。
「……うちの品ぞろえを分かったうえでこれをよこすとか、いやがらせですか」
苦笑いしながら眺めていると、きれいに二分割された尹楽舗の屋号越しに、岳晋が首を振ってきた。横に、である。
「宮妓が一名、繊月殿のお越しをお待ちです。近々お時間ございますか」
思いのほか真剣な表情に、繊月は割符を握ったまま目をぱちくりとさせた。




