立つ鳥の痕-⑨
「笛を捨てた洪梅花ですが……どうも口がきけないようです」
岳晋が切り出したのは、黒曜殿の上階にある一室に通された後のことだった。
やたら広く、見るだけでも気後れしそうな高級な調度品が並ぶその部屋は、おそらく士雲の執務室だろう。例の、名前も分からない高貴な香りがほんのり漂っている。
当の本人は不在だが、通されたからには遠慮は無用とばかり、長椅子に腰を落ち着けてのんびり茶菓子をいただいていたが、さすがに岳晋のその言葉には背筋が伸びる。
「口がきけない……って、まったく話ができないということですか」
「はい。女官が聴取にあたっておりますゆえ、私もまだじかに会えてはおりませんが……生まれつき発語に難があるようで、会話が成立しないとか。今のところ認否も明らかになっていないと報告を受けております」
「ああ……そう言えば銀丈さまがおっしゃってました。まだ本人が認めていないって。そういうことですか」
おやつに出された甘じょっぱい豆菓子をつまみながら、繊月は女官に連行されていた少女のことをまなうらに浮かべる。
遠目に見たばかりで顔かたちはうろ覚えだが、そう言えば怒鳴られても小突かれても声はあげていなかった。
「でもゆうべ見つかったばかりでしょう? 時間をかければ筆談なりなんなりできるでしょうし、あの宮妓の私物を徹底的に調べれば夜雀になりすました手段も特定できますよね」
「あの者は宮妓ではございません。下女です」
へーーと、繊月は目と口とを大きく開いた。
下女とは雅芸宮の裏方を担う女たちだ。歌舞音曲にはかかわらず、炊事洗濯や雑用など、宮妓らの生活の部分を支える者たち。華々しい雅芸宮の、日陰で働く者たちである。
「あの子、下女だったんですか。それは意外というか、予想もしないというか……」
すっかり驚いて、「はあ……」と頬に手をやり虚空を見上げる。
だが、少し考えただけで何かおかしな気がした。
「岳晋さま。こういう言い方はなんですけど、下女って立場的には最下位ですよね。相手が女官であっても宮妓であっても、下女では喧嘩にならないというか、逆らうこともできないというか、同じように雅芸宮で暮らしていても住んでいる世界が違うような感覚でしたけど」
「ご認識のとおりです。しかしながら、あの者はふだんから宮妓や同僚の下女らからつらく当たられていた様子です。要領よくいかないことも多く、口汚い言葉をかけられていたことも分かっています。それで恨みを募らせていたと言われると、ある程度は動機があると思われます」
いじめに対する報復。
なるほどありそうな話である。表立って逆らえない相手にささやかな報復をするというのは、雅芸宮にかぎらず見られることだ。
(でも、ばれたら終わりだ)
あの下女は孤児――悪事がばれて追い出されるようなことになったら生きていけない。
総じて向こう見ずな傾向のある男児ならともかく、それなりに分別がつくはずの十歳の少女なら、自分の行動がどんな結果をもたらすものか想像できるのではないか。
よしんば宮内に留め置かれても、いじめがひどくなるだけだと、これも想像がつきそうだ。
(そもそも深夜に子どもがひとりで外に出るかって話で)
闇の中をひとりで進む度胸があるか――という意味でも、日中労働にいそしむ子どもが睡魔に勝てるのか――という意味でも、自分なら絶対に無理だろうと繊月は思うのである。
「……あやしくし」
指先で豆菓子をこねながら、思わずつぶやく。
いつもの「あやしくし」が風に前髪が浮き上がるくらいのものなら、今の「あやしくし」は後ろ髪を強く引っ張られるくらいの感覚だ。とうてい無視できるものではない。
と、目をすがめながら考えこんでいると、岳晋が首を傾け、繊月の顔をのぞきこんできた。
「何かお考えですか」
「あ、はい。ちょっと違和感あるなと思って」
姿勢を正してそう返すと、まるでその答えを待っていたかのように、
「私も疑義があると感じておりました」
岳晋が深くうなずき同意を示した。いわく、
「目撃者が多くおりますゆえ、洪梅花が笛を捨てたことは間違いございません。ですが、あの者は孤児です。寄る辺ない者が、しいて己の居場所を失うような真似はすまいと考えておりました。まして、深夜に笛を鳴らすなど報復としてはささやかすぎます。仮に鬱憤がたまっていたとして、どれほど憂さが晴らせるでしょうか」
つまり、しでかしたことと、そのために得るもの・失うものがつりあわない、という主張だった。おおむね繊月の考えと重なる。
ひょっとして試されたのだろうか。
一瞬そんな穿ったことを考え構えてしまったが、大きな身体でほっと息をつく彼に打算的なところは見当たらない。せいぜい答え合わせをして満点を確信したような表情だ。
繊細な問題なので誰彼かまわず意見のすり合わせを行うわけにもいかなかったのだろう。
わざわざ人が寄りつかないこの部屋に招いてはじめて切りだしたのだから、彼もそうとう慎重になっていると分かる。
(そのわりには部外者相手にあっさり暴露したな)
少々危機管理的な面で心配になったが、それはそれとして、繊月の方も二度、三度とうなずいた。
「やっぱりおかしいですよね。やっていることはまさしく子どもらしい悪戯なんですけど、状況とまったく合わないと思います」
「同感です。繊月殿のおかげで捨てられた笛が偽物だと判明しましたし、笛を購入したのが繊月殿のお見立て通り、どこかの屋敷の下男なら、雅芸宮で孤立状態にある幼い下女と真っ当なつながりがあるとは思えません。本人も知らぬうちに利用されてしまった可能性が高いかと」
「え――」
つまんでいた豆菓子が膝の上に転げ落ちた。だがその行方に頓着するひまもなく、「待ってください」と繊月は声を上げる。
「それじゃああの子、濡れ衣着せられそうになってるってことですか。口の利けない子って分かっていて? それ、あんまりでは? それに――そう。調べてるの、女官なんでしょう? 大丈夫なんですか」
「……状況はよくありません」
岳晋は一転して表情を暗くした。
「現段階で偽装工作があった事実を知るのは私と士雲殿と銀丈殿だけです。他の者は犯行に使われた笛と捨てられた笛が同一のものだと認識し、『犯人が証拠隠滅を図った』と当然に考え、洪梅花を犯人だとして終息に向かう流れになっております」
「い――いやいや、意味が分かりません。他の人たちにも話せばいいだけですよ」
「そうできればいいのですが、偽装が露見したと分かれば、真犯人が口を封じにかかる可能性がございます。洪梅花のためにも、今はまだ伏せている方が賢明であるかと。先ほど複雑だと申し上げたのはそういうことです」
ひそめた声で告げられて、どきりとも、ひやりともつかぬ衝撃が繊月の胸を揺さぶった。
偽装工作だの口封じだの、飛び出す単語があまりに重くなっている。
ことはただの悪戯のはずで、こう手のこんだことをしてまで――よりによって不憫な境遇にある子どもを利用してまで――誤魔化すほどのことではない。ないはずなのだ。
(――これ、やっぱりただの悪戯ではない?)
瞬時に推測が走り出し、あわてて首を振ってそれを自制した。
ことは悪戯でも事件でもいいのだ。なぜそうなるのかということも、今はどうでもいい。重要なのは、先のこと。
「岳晋さま。ちゃんと調べてあげてください。ただでさえ不幸な身の上なのに、無実の罪で雅芸宮を追われるなんて酷ですよ」
「そうしたいのはやまやまですが、申し上げたとおり、状況が許しません。偽装工作があった事実を隠して洪梅花を放免とするには、周囲の者を納得させるだけの理由が必要です」
「必要ですか? 岳晋さまがお命じになればどうとでもなるはずです」
双眸にまっすぐ訴える。
岳晋はのんびりした田舎の出だから人を従わせる発想がない――銀丈がそう言ったことは忘れていないが、そうした発想がないのなら覚えればいいだけだ。彼が墨色の官服に袖を通すようになったのがいつのことだか分からないが、今まで放置されていたことこそ問題だと思う。
果たして、岳晋は目を反らした。繊月の言葉を拒絶するように、瞼を伏せたのである。
「私にそのような権限はございません。この墨色は飾りです」
岳晋は言った。謙遜とは違う、さりとて卑屈であるというのとも違う、自明の事実を語るような顔で官服の胸部を抑えている。
繊月はその言葉、その仕草に、はっきりと不快を覚えた。
彼の謙虚な姿勢は好ましく思っていたが、今このときばかりは嫌悪の方が濃い。そんなことだから女官に舐められるのだと、口走ってしまいそうになる。
もちろん、だめだ。
ここは感情的になってはならない場面だ。それくらいの理解はある。
繊月は、無理やりに深呼吸した。
「飾りでも張りぼてでも、やってみせるのが責任というものです」
岳晋が瞼を起こした。
ひと息見つめ合う。表立って反発するような表情ではない。だが感情の読めない顔だ。
頼むから反論してないでくれ、と繊月は願った。これまでただただ印象のよかった人だ、今さら失望などしたくない。
「私は――」
岳晋が言いさしたときだった。
「なにを騒いでいる」
続きの間から士雲が姿を現した。
寝起きのだるさを引きずるような足取りだ。実際、横になっていたのかもしれない。服が少々乱れている。だが、話は聞いていたようだ。不機嫌な顔がそれを証明している。
都合のいいことだった。繊月はすぐさま腰をひねり、矛先を変えた。
「士雲さま。聞いていたんですよね。なんとかしてください。士雲さまのご命令なら誰だって従います」
訴える繊月に、まず返ってきたのは冷ややかな視線だった。
士雲の口唇がかすかに笑みの形をとる。
「下女は追放する」
「――はい?」
「理由は岳晋が言ったとおりだ。あの下女はいずれ遠からず消される。雅芸宮に血を流すわけにはいかない」
耳を疑った。
冤罪の可能性をはなから無視して下女を見捨てようというのである。
おかしい。おかしいだろう。あまりにおかしいので頬が引きつり、奇妙な笑い顔になってしまいそうだ。
「……なんですか、それ。外でならどうなってもいいってことですか? そういう問題じゃないでしょう!」
思わず立ち上がって抗議すると、すかさず岳晋が立ち塞がった。
身体の大きな彼のこと、急に至近の位置に立たれると身がすくむ。だが、「どうか冷静に」と語りかける声音はいつもどおりにおだやかで、
「繊月殿ならお分かりになるはずです。雅芸宮は夜間男子禁制。陽が落ちれば我々の目が届きません。あらかじめ場所を選んでおけば、追放した形をとってでも外に出た方が安全です」
「でも、濡れ衣を着せるということでしょう? まともに反論できない子どもに対してすることじゃありませんよ!」
「――やかましいぞ、鴨子」
鞭打つように士雲の声が響いた。
すべてを呑み込む権力者の声だった。
苛立ちを隠せない鋭い目が先月を捉えている。
「たかが下女ひとりがくびになるだけのこと、そなたに何の関係がある」
「ありません。ありませんよ。でもわたしには分かります」
こぶしを握り締め、繊月は反論した。
士雲からも、岳晋からも距離を取り、しかし絶対に怯むまいと両足で床を踏み締め訴える。
「わけがあっても後ろ指さされるのはしんどいものです。わけもないのに後ろ指さされて生きていくなんて――ましてあんな小さな子がありもしない罪を背負って生きていくなんて、わたしは見過ごせない」
「ならばそなたのよく回る頭を使ってあの下女の無実を証明してみせよ」
士雲は返した。
当たり前のように岳晋を従える位置に立ち、どうしてか岳晋よりもはるかに圧倒的な存在感を放ちながら、
「もちろん、偽装工作があった事実を伏せ、百人いたら百人が納得するように。――できるものなら、な」
最後は酷薄な笑みを浮かべていた。
まさしく彼は高官だと、知らしめるような笑みだった。




