立つ鳥の痕-⑥
――雅芸宮に関わってはいけません。
母・呂曉君はことあるごとに繊月にそう言い聞かせた。
たとえば、街で宮妓らの奏楽会が催されたとき。
たとえば、近所の娘が宮妓になるのを祝ったとき。
繊月が雅芸宮を舞台にした読み本に夢中になったときはもちろん、自分の笛をじっと見ているだけのときにも母はちくりと言ったものだ。
そして当然、命の灯が今にも消えそうなそのときまでも。
今になれば、わけも語らないままよくぞそこまで念押ししたなと思うけれど、反対に、そこまで念を押したいわけがあったのだろうと思うと軽んずるわけにもいかない。
そういうわけで、
「無理ですよ」
繊月はくり返した。
台帳から疑わしい楽器を絞りこむ――という、要領さえつかめばさして難しくない作業。
岳晋は繊月に依頼したい。繊月はべつに受けてもいいが、やるならこの店でやるので、台帳を運びこんでほしい。しかし楽器の台帳は公文書ゆえ禁帯出。閲覧するには雅芸宮に行くしかない。
まとめるとこんなふうで、繊月としては「じゃあ無理です」と言うほかないのだが、寛容にして柔軟なはずの武官はなぜかこの件については食い下がり、未だ繊月の席向かいで粘っている。
「べつに台帳を見るだけなんですから、誰でもできますよ」
すっかりぬるくなったお茶をちびちび飲みながら繊月は言った。
少々疲れてはじめており、軽く姿勢がくずれている。
一方、岳晋は背中に棒を通したような凛々しさで「いえ」と首を振り、
「もっとも成果を出せるのは繊月殿をおいてほかにおられないと確信しております」
「そんな澄んだ目をして断言しないでくださいよ。いくら雅芸宮の女官がいまいちだっていっても、ひとりくらい優秀な人がおられるはずです」
「恥を忍んで申し上げますが、おりません」
「きっぱり言いましたね」
岳晋にここまで言わせるとはよほどのことではないか。それはそれでびっくりしていると、
「女官たちは夜雀騒動の始まりの時点で報告の遅れがありました。その理由は自分たちで調査を行ったうえで大きな問題ではないと判断した、というものです。その調査がどれほどの精度のものか不明ですが、結果的に騒動の発覚が遅れただけで何の役にも立たなかったのです。台帳の調査を指示しても期待した成果が出るとは思えません」
と、勢いこんで彼は訴えた。
士雲ほどではないにしても、彼も彼で腹に据えかねるものがあるらしい。女官があてにならないというのもよく分かった。分かったが、それとこれとはべつの話である。
「じゃあ宮妓の中からてきとうに見繕ってはどうですか」
「あなたがいいのです」
あやうくお茶を噴きそうになった。
「それ岳晋さまが真面目な顔で口にしていい台詞じゃありませんよ!」
「協力を仰ぐのに不真面目な態度でいるのはいただけないと思います」
不本意そうに眉を寄せているが、そういう意味ではない。
(くそぅ……いい人め)
未だかつて抱いたことのない種類の不満が繊月の口唇を尖らせる。
いやな奴なら客だろうと何だろうと遠慮なく叩き出せるのである。
「岳晋さま。もういっそのこと権力を振りかざすとか、大声で脅しつけるとか、大金を積んで買収を図るとかしてくれませんか」
「申し訳ございませんがそちら方面はあまり得意ではありません」
「でしょうね! というか、得意でもいやですよ。やめてください」
「結局私はどうすれば……?」
困り顔で見つめられても困る。繊月もどこへ向かっているんだかよく分からなくなっているのだ。
分かっているのはこのやりとりがすこぶる不毛であるということだけで。
(さてどうしたものか……)
葛藤に悶えているところに、来客があった。
「さっきからなんの喜劇だよ、もう」
笑いながら店に入ってきたのは、銀丈とかいうあの美々しい男である。
今日もひっそりと同行していたらしい。なぜ今になって姿を見せたのかよく分からないが、彼は十年前からの知り合いのような顔をして、「やあ鴨子ちゃん」とひらひら手を振ってくる。
なんとなく察していたが、人見知りという言葉とは縁の遠そうな人だ。
(そしてなんで鴨子で定着してるかな……)
じっとり睨んでいると、銀丈は立ち上がって迎えた岳晋の背を叩き、
「岳晋。簡単に引かなかったところは評価するけど、押しが弱いよ。もっとびしっと言ってやるべきだ。鴨子ちゃんのせいで自分の評判ががた落ちだ、って」
「え――?」
繊月は思わず背筋を伸ばして岳晋を見た。すると彼はあわてて首を振り、
「そんなことはございませんよ。銀丈殿、おやめください」
「やめないよ。きみが問題にしてないだけで、僕らけっこうそわそわしてるんだから。全部鴨子ちゃんのせいだよ?」
美々しい笑顔がこちらを向き、繊月はぐっと顎を引いた。
「どういうことですか。わたし、何かご迷惑おかけしたんですか」
挑むように問いかければ、妙な色気をはらんだ銀丈の目がとろけるように尻下がりになる。
「僕ら鴨子ちゃんの助言どおりに笛を見せて荷検めしたろ? あれ、笛も犯人も見つからなかったんで、宮中では失策だって言われてるんだよ」
「――失策、ですか」
「いえ。繊月殿、誤解なさらないでください。夜雀が鳴きやんだ時点で士雲殿からはご評価を」
「そりゃあ若さまは褒めちぎるさ。きみのこと大好きだもん」
「銀丈殿。しばらくご発言をお控えいただけますか」
「いやだよ。黙ってるとなんでもかんでもひとりでかぶっちゃうでしょ。きみの悪い癖」
軽く口論し始めた二人を眺め、繊月はおおよその状況を察した。
要するに、夜雀が鳴きやめばいいんでしょ――という素人考えが岳晋の足を引っ張った、ということである。
しかし果たしてそれは自分が責められることなのか。どうにも腑に落ちずに口唇をとがらせていると、「それにあの付け文!」と銀丈が声も高らかに言うから今度はきょとんとする。
「付け文?」
「銀丈殿、それは――」
「はいはい、岳晋は黙って。鴨子ちゃんだろ、あの三日月描いた文よこしたの」
「ああ、はい。そうですけど……付け文?」
「そう。あれのせいで岳晋は女にうつつを抜かして失策を打ったって、散々な言われようだったんだよ。どうしてくれるんだい」
めっ、とばかりにいかめしい顔をされ、繊月は「はあ」とあいまいに首を傾げた。
付け文とはいわゆる恋文のことだ。なかでもひそかにやり取りされるものを特別そう呼ぶ。あの文は確かに名を伏せたので秘密めいているが、内容はたいしたことではない。伝言さながら、ひと言書いただけである。また会えないか、と……。
「――あ」
繊月は、大きく口を開けた。その口から続けて「うわぁ」と悲鳴が漏れる。
「あの、つけ、付け文ではないです! 違います! 全然違います!」
「ええ。繊月殿のことです、そういう『てい』をとったのでしょう?」
と、当の岳晋が訳知り顔で言うのでさらに細くて高い悲鳴が出る。
「いえあの、『てい』とか、そういうつもりでもなくて」
「違ったのですか」
「え、ええと、その、他人に見られる可能性もあると思って、用件をずばりと書くのははばかられて。といっていかにも意味ありげな内容では逆に怪しまれますし、いっそありふれた言葉で簡潔にと思ったのですが――」
「……簡潔すぎて意味深になったということですか」
「そういうことです……」
がくりと頭を投げ打つように認めると、一拍おいて岳晋が肩を震わせ笑いだした。
「あなたが考えすぎる方だというのはまことでございますね」
「笑いごとじゃありませんよ。恋人や許嫁の方が目にしてしまったら大変なことです」
「無用のご心配です。どちらもおりませんし、この先妻を娶るつもりもございません」
「そう――なんですか? え? 待ってください。それはそれでどうなんですか。この世のどこかの誰かにとって何か大きな損失なのでは?」
「……申し訳ありません、おっしゃる意味がよく分からないのですが」
「……すみません。わたしも今自分で何言ってんだって思ってます」
と、互いにおかしな顔をして首を傾げ合ったところで銀丈が派手に吹きだした。
「鴨子ちゃん、きみ面白いね。その独特の路線、書庫係の珠佳ちゃんみたいだ」
「誰ですか、それ。知らない人を引き合いにしないで――ん? 書庫?」
恥ずかしまぎれに憤然と言い返したとき、ふいに頭に浮かんだことがあった。
耳の房飾りを大きく揺らし、席を立つ。考えるより先に身体が動いていた。
「繊月殿?」
不思議そうにされながら、書棚の前へと移動し、青い表紙の冊子を引き抜く。紐でつづった手製の冊子だ。すぐさま小口に指をかけ、目当てのところをじっと見つめる。
「……岳晋さま。楽器の台帳って黒曜殿の書庫にあったりします?」
「はい、おそらく。日常的に使用するものでもございませんゆえ。……そちらの冊子は?」
「母から聞いた話をもとに描き起こした雅芸宮の見取り図です」
は――と口を開ける二人の前に、繊月は開いた冊子を突き出した。
「黒曜殿はその真ん中に雅芸宮の中と外とを分かつ門があり、書庫は黒曜殿の中でも門の外側の棟にあると聞きます。これが事実なら、書庫は厳密に言うと雅芸宮ではないということになります。つまり書庫で台帳を閲覧する分には母の遺言をぎりぎり守ることができます」
堂々訴えると、一度銀丈と顔を見合わせた岳晋が、なんとも微妙な表情で繊月を見下ろした。
「……繊月殿。私が今さらこう申しあげるのもおかしな話ですが、いいのですか、それで」
「しょうがないでしょう。岳晋さまに悪評が立ったままでは寝覚めが悪いです」
「繊月殿。その点は本当に気になさることでは――」
「あー、鴨子ちゃん親切だね。いやあありがたい。お土産にお菓子持ってきたから食べながら打合せしよう。そうだ、その冊子あとで見せてよ。興味ある」
言いかける岳晋を押しのけ銀丈が矢継ぎ早に言った。
体格的には明らかに劣勢だというのに、のりと勢いだけで岳晋を圧倒している。
つねからそういう人なのだろう。真面目で謙虚な岳晋と足して割ったらちょうどいいのにと思う。いや、真逆な二人が組むからいい塩梅なのか。
いっときまじまじと観察していたが、じきにどうでもよくなり冊子を閉じた。
ひとまず土産の中身が気になるのである。




