立つ鳥の痕-④
笛の音が陽気に踊っている。
満員御礼の店の中は絶えず注文の声が飛び、料理を盛った皿が人の間を縫うかのように次々と運ばれていく。
楊飯店は日暮れ前からにぎわっていた。
一番人気の「鶏の甘酢餡かけ」は、もう何度目の前をいったことか。繊月は胃を刺激する香りに切なくなりながら、ひたすら横笛を吹くことに集中している。
大衆食堂に合う、楽しい曲だ。
自分の店を閉めたら笛を吹きに街に出る――それは繊月の日課である。
父もなく、母もない。二人とも遅くに結婚したためすでに祖父母もなく、親類縁者の存在もよく分からない。くわえて父の遺した店が繁盛するとも思えない、となれば、外で稼ぐしかない。
さいわい蒼嘉国は歌舞音曲が暮らしに根づいているため、笛が吹けるだけでも仕事にありつける。歌劇や演劇の裏方はもちろんのこと、酒楼や飯屋、各種催事、冠婚葬祭に富豪の家の宴席など、数をこなせば食うに困らないくらいの収入にはなる。
とりわけここ、楊飯店は繊月のお得意さまだった。家のはす向かいという立地のおかげで、繊月がひまをしていればすぐ分かる。そんなときは「ちょっと笛吹きに来いよ」と、洋恂が声をかけてくるのである。
「繊月ー、今日は何食いたい?」
厨房から洋恂がひょいと顔を出し、繊月は笛を吹く手を止め「鶏甘酢!」と即答した。
「了解! できるまでもうちょっと頼むなー!」
「うん! 任せて!」
両手で笛を握りしめて宣言すると、足元からやる気が湧きあがってくる。
飲食店での賃稼ぎはこれがあるからやめられないのだ。
(まかない最高!)
浮かれながらふたたび笛を口唇にあてたとき、新たにひとりの客が入ってきた。
体格のいい男である。
服越しにも分かる上腕のたくましさに、これは見事とつい目を奪われる。
「――って、岳晋さまじゃありませんか」
顔まで目がいったところで、繊月は彼に駆けよった。「先日はどうも」と声をかけたが、岳晋は繊月を見下ろし少し不思議そうな顔をする。
「あ――すみません。これじゃ分かりませんよね」
繊月は顔にかけていた薄布をめくりあげた。とたんに目の前の表情が気安いものに変わり、
「繊月殿でしたか。失礼しました。すぐに気がつかず……ところで、その布は何なのですか」
「あぁ、衣装みたいなものです、気にしないでください。それより、お食事ですか? あいにく今満席ですけど、お待ちになります?」
繊月は耳の房飾りをぶらりと揺らしながら、女給さながらにたずねた。
しょっちゅう出入りしているので勝手が分かるのだ。なんなら、ほどなく奥の席が空くだろうことも読める。だが岳晋は「いえ」と首を振って席を断った。
「実は繊月殿をお訪ねしたところでした。お留守のようでしたので、お戻りまでこちらで待とうかと考えておりまして」
「そうでしたか。――あ、もしかして文が届きましたか?」
「はい。少々ごたついておりましたゆえ、うかがうのが遅くなりました。申し訳ございません」
「ああいえ、わたしの方も確かな伝手ではなかったので、届かないかもしれないと思ってはいたんですけど……何か問題でもありました?」
妙にじっと見られているのでそうたずねると、岳晋ははっと背筋を伸ばしたかと思うと、何か確証を得たような顔で、「お気になさらず。こちらの行き違いです」と妙に力強くうなずいた。
「はあ……行き違い」
よく分からない答えに首を傾げたとき、厨房から洋恂の明るい声が割りこんできた。
「おおー! 武官の旦那じゃないか! いらっしゃい!」
たちまち、葦の野原に風が走るがごとく目という目が集まってきて、あっちでこそこそ、こっちでひそひそ、ささやきが交わされはじめる。
下町では往々にして官吏が嫌われているものだ。武官と聞いて緊張が走るのは当然だが、そこに組み合わさるのが繊月だからなんとも具合が悪い。
(完全に「わけあり娘がなにかやらかした図」だもんねえ……)
現に女将である洋恂の母など、たった今配膳しようとした料理をそのまま持ち戻って、「あんた、お武官さまのお世話になるようなことでもしたの」と怖い顔をする始末だ。笑うしかない。
仕方なく「そんなわけないじゃないですか」と、いつもの調子で軽く流そうとすると、
「お世話になったのはこちらです」
と、広い背中が視界を遮った。岳晋である。
「先頃繊月殿から助言をいただき大変助かりましたゆえ、また性懲りもなく相談に参った次第です。しばらく繊月殿をお借りしてよろしいでしょうか」
「え、ええ……いつも好きに来て好きに帰りますから、ねえ」
途端におろおろしはじめた女将に、岳晋は礼を言って拱手した。
傲慢な下級武官が粗暴に振舞うのが一般的なこの界隈で、岳晋の丁寧な所作はなかなかの衝撃を運んだようだ。他の客も彼に釘付けで、店の空気も一変する。
さすが岳晋さま好感度が高い、と感服する一方、少しばつがが悪くもあり、繊月は小さくなって彼に頭を下げた。
「……すみません、岳晋さま。お気をつかわせて」
「いえ。助かったのは本当ですし、相談事があるのも本当です。お時間いただけますか」
「はい、もちろん。……そちらも、何かあったんですか」
ささやく岳晋につられて声を落とすと、彼は他人の耳目を気にするように、わずかに顎を上下させるだけの相槌を打った。
「小鳥の笛が見つかりました」
「……それは計算外」
繊月の口からぽろりとこぼれた余計なひと言に、武官の目が大きくまたたいた。
「計算外というのは、どういうことでしょうか」
道を一本渡って尹楽舗の店内に移り、お茶の支度まで終えたところで岳晋は真意を問うてきた。それまで黙って席に着き、店の品などを眺めていたので聞き流したのかと思いきや、ただ機会を待っていただけのようだ。繊月は円卓に茶器を並べながら、振り向けられた視線を苦笑いで受け止める。
「すみません。あんな偉そうに助言しておいてなんですが、正直、そんなにあっさり見つかるとは思わなかったんです。――あ、侮っていたわけではなくて。単純にびっくりしたってことです。さすが岳晋さま、仕事がお早い……」
「私が見つけたわけではございません。見つかっただけで」
「荷検めで見つかったのなら岳晋さまの功績でしょう?」
「荷検めは空振りに終わりました。――いえ、夜雀は啼きやみましたゆえ、完全に空振りとは言い切れないのですが」
妙な言い回しに、繊月は彼の向かいに腰かけながら首を傾げた。
「空振りってどういうことですか? 被害がやんだのなら万々歳では?」
「そのつもりでしたが、少々事情が変わりまして……ことが陛下のお耳に入ってしまいました」
勧めた茶器を受けとりながら、岳晋が声を落とした。
陛下――ということはつまり皇帝陛下である。
下町生まれ下町生まれの繊月は、その事実をいったんきちんと認識したのち、「それはそれは、なんというか」とおおげさに身を縮めた。そして、難儀だな――という率直な感想は、胸の内だけで続ける。
今上帝は、強烈な悪評が聞かれないかわりにみなが熱狂するような何かを成しとげたわけでもない、庶民にとってはよくも悪くも空気のようなお方である。
しかしこの蒼嘉国において絶対的な存在であることは間違いない。そのお方にまで報せが届いたのなら、悪戯騒ぎもきっちり解決しなくてはならないのだろう。
「さいわい、笛を捨てている者を見た、と証言する者が複数出ておりますゆえ、遠からず犯人が特定できるのではと思っております」
「なんだ。それなら安心じゃないですか」
「ええ。ですがそのときのためにあらゆる疑問を解消しておかねばと思いまして、うかがった次第です。こちらをご覧いただけますか」
岳晋が懐を探り、小さな巾着を取り出した。
紐が解かれた口からのぞくのは、少しとぼけた表情をした素焼きの小鳥だ。ああ、と思わず笑みがこぼれる。
「先日の水笛ですね」
あのとき彼は三つ持ち帰ったはずだが、今あるのはひとつだけ。巾着ごと卓上に置かれると巣で親を待つひな鳥のようでかわいい。
「おひとつだけ……ということは、もしかしてこれが見つかった笛ですか」
「はい。昨日の朝、雅芸宮の池に浮いていたものです。どうも前日の消灯から朝までの間に何者かに投げ捨てられたようで、ひとりの宮妓が発見し、我々が回収いたしました」
「――昨日、ですか?」
軽く目を見開き、繊月はとっさに笛を手にとった。
ざらりとした素焼きの質感が指先をほのかに刺激する。
「おそらく荷検めをすり抜けたのだと思われます。不正ができぬよう万全を期したつもりでいましたが、お恥ずかしい話、手抜かりがあったようで――」
「手抜かりはないと思います」
みなまで聞かずに繊月は言った。
怪訝そうに眉を寄せる岳晋の鼻先に、突きつけるように笛を差し出す。
「荷検めをすり抜けたんじゃありません。これ、先日わたしが売ったばかりのものですから」




