立つ鳥の痕ー③
「さて、この笛だ」
黒曜殿に戻り、執務室へ続く回廊を進みながら、士雲が目をすがめた。
夜勤明けの者たちだろう、疲れた様子の武官や女官とすれ違うたびねぎらいの言葉をかけつつも、指先で笛をこね回しては「どうも分からん」としきりに首をひねっている。
「仮に荷検めで我々の目をかいくぐって隠し通したとして、なぜ今になってこれを手放す必要がある。しかもああも目立つように」
「そうですね……持て余したと考えるのが妥当でしょうが、処分の仕方は雑に感じます。粉々に砕けば証拠隠滅も可能でございますゆえ、あれほど大胆に捨てたということは、はじめから隠す意図はなかったように思います」
「ああ。むしろあれは見つけてくれと言わんばかりだ、気に入らん――うん?」
そのとき士雲が何かに気づいて笛を掲げた。小鳥の腹にあたる、底の部分に目を凝らしている。
「どうなさいました」
「何かついている。赤い――なんだ? 血痕か?」
士雲のしかめ面の横から、岳晋もそれを確認した。小鳥の腹から尾羽の裏に向かって、なにやら赤いものが付着している。確かに、一見すると血の着いた指でさっとふれたような痕だ。
「しかし血液にしてはやけに色味がはっきりしておりますね。鮮血にしろ乾いているにしろ、水につかっている間にうすくなってしまいそうなものですが」
「……ふむ。じっくり調べねばならんか」
と、二人で手元をのぞき合いながら執務室に続く角を曲がったとき、部屋の前に恰幅のよい文官が待ち構えているのに気がついた。
蝦蟇のようにえらの張ったその壮年の男。見かけない顔である。
「……どなたでしょうか」
「『鴉』の一派だ」
士雲が暗い目をしてつぶやくのを聞き、岳晋はすばやく一歩下がった。
鴉の濡れ羽色は墨色より深いが漆黒より浅い。そういう地位の持ち主だということだ。
「趙万徳が総首官殿にごあいさつ申し上げます」
濡れ羽色の文官は、士雲の前に進み出るなり丁寧な礼を捧げた。
対する士雲は、相槌に近い程度の礼を返し、「何用だ」とひと言で応じる。
親子以上の歳の差も黒の濃淡の差の前では些末なこと。宮中ではごく当たり前の光景である。
万徳は袖を掲げる格好のままゆるりと胸を起こした。
「宮妓の派遣をお願いに参ったところでございます」
「うかがおう。中へ」
岳晋が先に回って戸を開き、士雲が顎を振って促すと、万徳は「よろしいのですか」とやけにおおげさな手ぶりで喜んだ。
妙な反応だった。
宮妓の派遣は日常業務。基本的に断ることはない。にもかかわらずこの反応。難題かとひそかに警戒していると、士雲も同じように考えたのか、椅子に掛けるなり「特殊なご依頼か」と問うた。
すると万徳は「いやいや、そうではなく」と、首と左右の手を横に振り、
「拝察しますに、今はなんとも間が悪いようではございませんか。そちらは例の小鳥の笛でございましょう。今頃発見されたのですか。池の中から。はあ、難儀なことですなあ」
と、長く伸びた眉を大きく尻下がりの形にした。
なるほど、白々しい物言いをするわけだ。誰かが口をすべらせたのか、単に彼が地獄耳なのか。彼はすでに笛発見の報せを聞きつけていたらしい。
「……宮妓の入用の日と人数をうかがおう」
士雲は嘆息し、細事を聞き捨て本題を促した。すぐに「半月後に舞手を五名ほど」と注文が入るが、鴉のくちばしはなお動くのをやめない。
「やはり荷検めは失敗だったようですなあ。実物を見せて回らねば今も犯人は笛を手元に所持していたことでしょう。のちに発見できれば犯行を裏付ける証拠となったはず。やり方を間違われたようだ。策を打った者に責を問うた方がよいのでは?」
万徳の奇妙に大きな目玉がぎょろりと動いた。
その目は正確に岳晋をとらえており、主導者が誰であったか、とうに把握していると知らしめている。
非難したいのなら直接すればいいものを、持って回ったようなこの言い方。士雲の言った不快なさえずりというものの、これが典型なのだろう。
といって、ここで嫌悪を露骨にしては相手の思うつぼでもあった。黙してじっとこらえていると、代わりに士雲が「はっ」と声をあげて笑う。
「おかしなことを言う。私は総首官として被害者にまず安眠をという考えを支持した。その手段が荷検めであり、その結果として夜雀が啼きやんだのだ、なぜ責を問う必要がある」
「しかしこのようなものを見てしまいますとなあ」
またもったいぶった言い方をして、万徳は濡れ羽色の袖の内側から四つ折りにされた簡素な紙を取り出した。それは何かと士雲が問えば、万徳はやけに芝居がかった仕草でそれを捧げ、
「黒曜殿の門番らが扱いに困っておりましてゆえ、持って参ったところでございます。なんでも、そちらの武官に宛てられた付け文だとか」
「は?」
「日常茶飯事でございましょう。彼の者は見目がよい。周りが妙齢の娘ばかりとなれば誘惑も多かろうと思われますゆえ、職務に身が入らぬのも仕方のないことかと。なあ?」
万徳の分厚い口唇にいやな笑みが這い上がった。
とんだ言いがかりである。
さすがに臓腑があぶられるような心地がし、首に、肩に力が入った。
それでも悲しいかな、許しがなければ口を開くことが許されない立場である。士雲から弁明を促されるのを待つしかなく、目線を送ってその機を乞う。
が、それは素通りした。
士雲が大仰に袖を払って立ち上がったのだ。
一瞬にして香の匂いが広がり、部屋の空気までもが一変するようである。
「超万徳。そなたの言うとおり、付け文などよくあることだ。私の腹心は宮妓らにことに人気だ。おかげで焚きつけには事欠かない。これもさぞかしよく燃えるだろうな」
嗤う士雲の手によって、文が取り上げられる。
「加えて言っておこう。今笛が見つかったということは、何者かが投棄したということだ。その瞬間を目撃した者がいるやもしれぬ。ゆえに、かえって犯人の足跡を追う好機を得たと考えることもできるが――万徳。そなたはどう思う」
「……確かに、おっしゃるとおりでございますな。宇総首官の手にかかれば雀の十や二十捕獲するなど造作もないことでしょうから、吉報が宮中を駆け回る日も近いことでございましょう。やあ楽しみでございます」
「左様か。それはよかった」
二人の高官は数舜笑みの仮面を向け合い、おのおのの黒の衣を翻した。士雲は袖を払って退出を促し、万徳は裾を返してそれに従ったのである。
「――たちの悪い鴉め」
戸が閉まるなり士雲が声低くつぶやいた。
緊張が解けると毒舌になるのは士雲の悪い癖だが、ここまでこらえただけでも立派なことだった。彼は本来気の長いたちではない。
「申し訳ございません、士雲殿。お手を煩わせました」
「たわけ。そなたが詫びることではないだろう。というか、どこのうつけだ、外から文をよこすなど。宮を下がった元宮妓か?」
「さあ……心当たりはございませんが」
ひとまず万徳の暴言もろもろを忘れ、畳まれたままの文を、二人して蜘蛛や蛾を見るようにやや遠巻きに眺めた。
雅芸宮に色恋を禁じる規則はない。むしろ世代交代や技術・楽才の継承といった観点から、宮妓が良縁を得て宮を下がることは歓迎されており、節度を保っているうちは宮妓と文官武官が恋仲となっても黙認されるのが一般的だ。
このため、雅芸宮で文が交わされるのはさほどめずらしいことではない――が、この文はどうも妙だった。
使われている紙は安価な流通品で、無造作に四つ折りにされただけ。あまりに色気がない。いっそ果たし状と言われた方がしっくりくる。
士雲も露骨に怪しむ表情だ。鼻に皺が寄っている。
「正直このまま竈にでも放りこみたいところだが、鴉どもの目に入った以上無関心でいるわけにもいかない。検めるぞ」
「ご随意に」
返事を聞くより先に士雲は文を開いていた。一日の多くの時間を共に過ごす間柄だ、本当に付け文であったとしても一方的な内容だろうと予想がついているのだ。
士雲はいかにも億劫そうな表情をしながら、老視のように目を遠ざけたり、近づけたりする。
その顔が、ふいにゆがんだ笑みを浮かべた。
「……なるほど、付け文だな、生意気な。あの細首絞めてやろうか」
「はい?」
ひらりと表裏を返された文を、岳晋は人相書きでも見るようにしかめ面で確かめた。
確かに自分に宛てられたものである。
しかし差出人の名前はない。
ただ消えそうに細い三日月が描かれた傍らに、丁寧な手蹟で一文、こう書かれている。
『またお会いできませんか』




