第一話 村一番の臆病者
辺境の小さな村、エルム村。
山々に囲まれたその村は、とても、とても――それはもう、とてつもなくのどかで静かな場所だった。
村の外には広い草原が広がり、その先には森が見える。
家畜の飼育や農作物の栽培も盛んで、村人たちは皆、豊かで穏やかな暮らしを送っていた。
争いとは無縁。
魔物の姿を見かけることもなく、盗賊に襲われることもない。
朝になれば畑へ向かい、昼には仕事に汗を流し、日が暮れれば家へ帰る。
そんな平穏な毎日が、ずっと続いていく。
――誰もが、そう思っていた。
───
そんなエルム村には、他の村とは大きく異なる特徴があった。
村全体を覆う、強固な結界。
それは、遠い昔から存在していたものではない。
魔王が討たれた、あの日。
エルム村には、この強力な結界が張られた。
古代の書物を紐解けば、その結界が他の村とは比べものにならないほど強力なものであることが分かる。
では、なぜ、この村にこれほど強力な結界が張られたのか。
その理由については、後に説明がある――はずだ。
その結界に守られるようになってから、エルム村には長い年月の間、一度たりともモンスターが入り込んだことがない。
魔物が村に入ってこない。
襲われる心配もない。
だから、今日も安心して暮らせる。
それが、エルム村では当たり前だった。
そして――
アルト・クロードもまた、その「当たり前」の中で生きてきた。
特別な才能があるわけでもない。
剣が得意なわけでもない。
魔法が使えるわけでもない。
どこにでもいる、ごく普通の十五歳の少年だった。
ただ一つ。
アルトには、どうしようもないほどの臆病さがあった。
魔物の話を聞くだけで顔が青ざめる。
少し大きな物音がすれば肩を跳ねさせる。
危険な場所には、絶対に近づかない。
村の外へ出ることさえ、彼にとっては一大決心だった。
そんなアルトにとって、このエルム村は最高の場所だった。
魔物はいない。
危険もない。
何より――怖いものが、ほとんどいない。
だから彼は、心の底から思っていた。
この村で暮らしていれば、
きっと一生、平和に生きていける。
そんな彼にとって、魔物とは遠い世界の存在だった。
そもそもアルトは、十五年間、一度も魔物を見たことがない。
それでも、魔物の話を聞けば怖がった。
誰かが「昔、魔物に襲われたことがある」と話しているだけで、そっとその場から離れていく。
本人に言わせれば、実物を見たことがないからこそ怖いらしい。
どんな姿をしているのか。
一家に一冊は必ずある古文書で、ちらっとだが、その姿を見たことはある。
とても悍ましい姿だった。
何でも噛み砕いてしまいそうな牙。
獲物を切り裂く、鋭い爪。
頭には、見るからに恐ろしげな角。
人間とはかけ離れた、異形の姿。
――怖い。
どれほど強いのか。
自分よりも遥かに強いだろう。
いや、比べものにすらならないか。
もし自分の前に現れたら、どうなるのか。
――死ぬ。間違いなく。
考えれば考えるほど、怖くなった。
だから――
この村で、何事もなく暮らしていければいい。
それだけで十分だった。
それ以上なんて、望んでいなかった。
――あの日までは。
───
その日の朝も、エルム村はいつもと変わらなかった。
「ふぅ~! 今日も清々しい朝! 小鳥たちの囀り! 焼きたてのパンの香り! 母さ~ん! 飯まだ~!?」
アルト・クロードは、その日、異常にテンションが高かった。
なぜか。
それは――
アルト・クロード。
黒髪に、キリッとした目。
身長は百七十センチほど。体格もごく普通で、どこにでもいそうな少年だ。
本日、めでたく十六歳を迎えたのである。
十六歳の誕生日。
母、ミネル•クロードからは、こう聞かされていた。
――今日は、村中の人たちが祝ってくれるらしい。
このエルム村では、十六歳になると少年から青年へと移る。
そして、十六歳を迎えた者のために、村を挙げて祝いの祭典が開かれるのだ。
だから、アルトは浮かれていた。
すごく。
「も~、アルト~! そんなに浮かれてたら、青年どころか村から追い出されるわよ」
「え……まじ? ほんとに? ごめん……浮かれるのやめるわ」
アルトは青ざめた顔で、ぷるぷると身体を震わせていた。
「母さん、嘘だよね? え? ほんとに?」
「調子乗ってすいませんでしたぁ!」
ミネルは、そんなアルトを見て笑った。
「もう、うそうそ。冗談だって」
「……ほんと?」
「ほんとよ。アルト、そんなにビビりじゃ、青年になれないよ」
「死んだ父ちゃんも、あんたのことが心配で、そんなんじゃ成仏できないわ」
「父さん……」
アルトは、少しだけ俯いた。
そして、小さく呟く。
「俺、十六歳になったよ」
───
「アルト、今日も暇そうね」
「いや、うーん……暇ではあるけど」
「今日は、あんたのために村中の人が祝ってくれるんだから、あんたも食料くらい取ってきなさい」
「魚でもなんでもいいから」
「ええ? もしかして、俺一人で行くの?」
「当たり前でしょ」
「……」
「こわいじゃんよ~」
「なあにが怖いだよ。十六にもなって、一人で川にも行けない息子なんていらないよ!」
「えぇ……」
「そんなに無理なら、隣の家のカミアちゃんでも誘って行きなさいよ」
カミア・スコット。
アルトの幼馴染だ。
「はあーあ……なんでうちの子は、こうにもビビりなんだか……」
ミネルは呆れたようにため息をつく。
「カミアちゃんは、あんなにもいい子なのに」
「母さん、カミアと俺を比べんなよ~」
「あんたがそんなんだからでしょ!」
「早く行ってきなさいよ」
「一匹も釣れないなんて許さないからねー!」
「ああ~、分かったよ、母さん」
「日が暮れる前に帰ってくるんだよ」
「はーい」
「行ってきまーす」
───
「て、ことで……」
アルトは家を出ると、少しだけ歩いた。
そして、ぴたりと足を止める。
「よし。やっぱ怖いから、カミアの家に向かおう」
アルトは即決だった。
一人で行けと言われたアルトであったが、母・ミネルにバレないよう、忍び足で少し離れた場所にあるカミアの家へと向かった。
カミアの家は、アルトの家と同じような木造の家だった。
小さな庭には花が植えられ、玄関先には薪がきれいに積まれている。
エルム村の、どこにでもあるような普通の家。
アルトは玄関の前まで来ると、少しだけ深呼吸した。
そして――
コンコン。
扉を軽く叩く。
「おはようございまーす」
返事はない。
「カミアいますかー?」
もう一度、扉を叩いた。
しばらくすると、中からバタバタと音が聞こえてきた。
やがて扉が開き、出てきたのはカミアの母親だった。
長い髪を揺らしながら姿を現す。
村でも五本の指に入るほどの美人として知られている彼女は、豊かな胸元と大人の女性らしい色気を持っていた。
歩くたびに胸元がわずかに揺れる。
そんな彼女が、アルトに優しく微笑みかけた。
「あら、アルトくん。今日で十六歳になったのよね。お誕生日おめでとう。やっと青年になったのね。素敵な一日にしてね」
カミアの母親にそう言われ、アルトは鼻の下を伸ばしながら答えた。
「あ……ありがとうございます……」
そして、彼女の姿をちらりと見ながら、心の中で呟く。
「それにしても……いつ見ても綺麗だ……。美しすぎる……」
その瞬間――
横から蹴りが飛んできた。
「ぐはぁっ!」
アルトは盛大に吹っ飛んだ。
くるくると宙を舞い、そのまま地面をゴロゴロと転がっていく。
「アルト! あんた、何、人のお母さんにデレデレしてんのよ!」
そう叫んだのは、カミアだった。
肩まで届くほどの茶色い髪に、少し大きめの瞳。
母親譲りの整った顔立ちで、まだあどけなさの残る少女だ。
明るく活発な性格で、笑ったときにはぱっと花が咲いたような笑顔を見せる。
アルトの幼馴染であり、村でも評判のいい女の子だった。
「もう、カミア! アルトくんになんてことするの!」
「だって! お母さんのこと、下心丸出しで見てたじゃない!」
盛大に吹き飛ばされたアルトは、地面に倒れたまま伸びている。
「……」
「アルト?」
「……下心じゃない。純粋な美しさへの感動だ……」
「同じでしょ!」
「同じじゃないよぉ……」
カミアの母親はアルトに近寄り呪文を唱えた。
「癒しの風よ、彼の者を包め。
痛みをさらい、傷を閉じ、
再び力を与えよ――
《レーヴ》」そう唱えるとカミラに蹴られた時の擦り傷や痛みが見る見る治っていく。
レーヴ。
初級魔法を習えば、誰でも使える回復魔法だ。
ただし――俺は使えない。
「もう、お母さん。そんな変態に魔法なんて使わなくていいのに! ふん!」
「あらあら」
カミアの母親は困ったように笑うと、アルトの耳元に顔を寄せた。
「ごめんね。うちの娘が」
「……!」
アルトは一瞬、固まった。
そして――
なぜか正座になった。
「いえ! 全然! カミアさんはとても良い子ですよ! これからもずっと仲良くしたいと思ってます!」
そう言うと、アルトは満面の笑みを浮かべながら、カミアの母親の手をぎゅっと握った。
「むふふ……」
「……」
カミアは、その様子を無言で見つめていた。
「……アルト」
「な、なに?」
「次は殴る」
「なんでぇ!?」
「ふん!」
カミアはそっぽを向いた。
「それで、アルト。要件はなんなの?」
「ああ、そうなんだよ。それが、かくかくしかじか――」
アルトは母親に言われたことを説明した。
「そんなの、一人で行ってきたらいいじゃない」
「やだよ。カミア強いじゃん。何か出たらどうすんのさ」
「何も出ないわよ。この村、魔物だっていないし」
「それはそうなんだけど……」
「だったら一人で行けるでしょ?」
「いや、でも……」
アルトは言葉を濁した。
「……怖いじゃん」
「はぁ……」
カミアは呆れたようにため息をついた。
「あそこの森の中にある川でしょ?」
「あんなところ、ミュルしか出ないわよ」
「でも、そのミュルが魔物だったらどうするんだよ……」
「ミュルは魔物じゃないでしょ」
「……そうだけどさ」
「もう、ほんとにビビりなんだから」
カミアの母親は、二人のやり取りを見ながら微笑んだ。
「もう、カミア。アルトくん、今日が誕生日なんだし、せっかくなんだから行ってあげなさい」
そう言って、カミアにそっとウインクをする。
「……っ」
カミアは一瞬、目を丸くした。
そして、少し俯く。
頬がほんのり赤くなっていた。
「……分かったわよ」
小さな声でそう答える。
アルトはというと――
「やった! カミアが来てくれる!」
何も気づいていなかった。
このときのアルトは、母親とカミアの間で交わされたその意味を、知る由もなかった。




