天使
*
マイラ=グウェリンが銀狼の毛皮の上で頭をもたげたのは、既に、昼食時を過ぎた頃だった。
彼女の変化に気づいた銀狼が足を止め、マイラの方を振り仰ぐ。
『どうしました』
話してももはや事態は変わるまいと思うからか、フェルディナントは先ほどから気軽に声をかけてくる。あんまり話しては、ますます呪いが深くなるのではないか――そんな不安を感じながらも表に出さないようにして、マイラは答えた。
「ひとつ、思いついたことがある……んです、けど」
言っても良いものか、彼女は迷った。
人との距離の取り方が、物心ついて以来ずっと抱えている、彼女の問題だった。
今は相手がフェルディナントなのだからなおさらだ。
心を決めるためにマイラは取りあえず銀狼の背から降り、その前に回り込んで、雪の上に膝をついた。王子様の瞳をのぞき込む。あのときと同じまなざし。
『どんなことですか?』
王子様は全く屈託がない。自分のような悩みなど生まれてこの方抱いたことさえないのだろう、そう思い、マイラは微笑んで、辺りを見回した。
そこはエスメラルダの中心部のはずれだった。グウェリン家からは、〈神殿〉を挟んで対角に位置する、果樹園や畑が始まるあたりだ。
心を誰かに打ち明けるのが、ずっと恐ろしかった。
パトリシアの変節以来、本心を打ち明けたら、否定され、弱みを握られて利用され、拒絶されるのではないか――そんなかすかな恐怖が、心の奥底にこびりついて離れなかった。
でも。
――あの子も、あの人も、幻じゃなかった。
昨日コンスタンスと話して、七年前のあの少女が、自分の心が生み出した都合のいい友人などではなく、そのまま存在していたのだということを知った。
そして今日。
ずっと『片思い』してきた相手が、七年前に木の上でこちらを見ていた、あの王子様と同じまなざしを持ち続けていることを知ったのだ。
「……私ずっと、ここから人を逃がすことばかり考えていました」
それはきっと、自分がここから逃げることばかり考えていたからだと、マイラは今初めて気づいた。
ずっと逃げたかった。ここではないどこか――あの子たちがいるどこかに、たどり着くことばかり考えていた。
でも、銀狼の背に揺られているうちに、気づいたのだ。
――あの子たちは今ここにいる。
コンスタンスは人魚の国にいてくれるはずだけれど。ユリウスも、フェルディナントも、今はこの国にいる。マイラのすぐ近くに。
だからもう、一人じゃなかった。
「だから……だからもう、逃げなくてもいいんじゃないかなって、なんだか、初めて気がついたんです。この状況で逃げたらきっと、後悔する。そんな気がする。
ここは紛れもない、私の故郷です。曾祖母が愛した……守ろうとした……人魚の骨を使って空気孔を無理矢理開けてでも、ここに住み続けようとした国。私はずっと嫌いだったけど、でも、今日初めて思ったんです。どうして嫌いだったんだろう? って。嫌う必要も本当はなかったはず。そう思って、気がついたんです。
私は……私の本当の望みは、逃げたいんじゃなかった。出て行きたいだけだった。ここを出て行くなんて許さない、自分だけ自由になるなんてひどい、それは裏切り行為だって言われていたから、そう思いこんでいただけだった。
私は、ここから出てみたい。アリエディア以外にも、もっともっと、知らない世界を知りたい。色々なものを見て、楽しいことをいっぱいして、満足したら……大好きな人と一緒になら、……いつかは、帰ってきたいんです」
『そうですか』
「はい。だから」
マイラは微笑んだ。
七歳のあのとき以来、本当に久し振りに、心底から微笑んだ気がした。
「人だけじゃなくて、できれば、この国も守りたい。欲張りだけど、でもそうじゃないと、この国とここの人たちが平和で楽しく暮らしていてくれないと、私、出ていっても心の底から楽しめない、ですから」
『はい』王子様は苦笑したようだ。『そうでしょうね』
「ええ、だから、それなら……エスメラルダに中枢は一つしかない。そこを守ればいいんじゃないかな」
『どうやって?』
「そもそも人魚は、なぜ〈神殿〉を巻き込んだんでしょうか。本来なら、こっそり勝手に、好きなだけ開けられるはず……伝承のとおりなら、人魚が世界を滅ぼしたいって思った時点で、それを食い止めるなんて人間には無理だったはずなんです。でもまだ世界は続いていて、ここでも人魚は、〈神殿〉を巻き込まないと〈扉〉を開くことができなかった。〈神殿〉の協力がないと近づけなかったんです。それって、何らかの力がおのおのの中枢を人魚から守っているということで――そしてここでは、その力って、この剣だったんじゃないのかな」
言いながらマイラは頷いた。エスティエルティナが飛んできたときの、ティティの反応は激しかった。
『……』
「それならこの剣が、あの泉に戻ればいい。放棄してもすぐに飛んできてしまうかもしれないから、もういっそ、私がそこに行けばいいんじゃないかなって、思うんですけど。どうでしょう」
フェルディナントはしばらく黙っていた。
ややして言った声は、苦笑を含んでいた。
『気がつかないといいなあと、思っていました』
「えっ」
『しょうがない。……エスメラルダは少し広すぎて、綻びを完全に遮断することは難しそうだと僕も思っていました。そもそもこの〈壁〉に穴を開ける石の名が〈人魚の骨〉というくらいです、人魚が〈骨〉を別の方法で手に入れることはいかにもありそうじゃないですか。……守る範囲は狭い方がいいに決まってる。いいですよ。行きましょう。でも先に言っておきますけど、貴女が中枢のそばにいる限り、僕もそこにいます』
マイラは黙った。何と言っていいのかわからなかった。
まさかそんなことを言ってもらえるなんて、考えもしなかった。
生きていてほしいと思っていた。本当なら、何とかしてまいてでも――そう、曾祖母が曾祖父を置き去りにして行ったように、フェルディナントを置き去りにしていくべきなのだとわかっていた。それが可能かどうかは別として。
でも。
マイラは、銀狼の鼻先に手を伸ばした。
すべすべした手触りの毛皮をそっと撫でる。
「私は、曾祖母よりずっと、冷血なのかもしれない。利己的なのかも。わがままなのかも……呆れられないと、いいんですけど」
『どういう意味でしょうか』
「……私は貴方が好きです。フェルディナント=ミンスター・アナカルシス。ずっと好きでした。話したこともないのに……七歳の時、木の上の貴方を見たときからずっと。自由な世界の象徴のように思っていました。……なのに私は、貴方に無事でいてほしいと思うのに、それ以上に、今一緒にいてほしいと思っています」
『……』
「……力を貸して、ください。貴方を巻き込むのは申し訳ないし、危険にさらしたくないけど、でも。お願い。私と一緒に来て。私の望みを叶えるために。私に力を貸して」
『アルガス=グウェリンもきっと』
湿った黒い鼻が、そっと、マイラの鼻に触れた。
冷たい感触に、胸が震える。
『その言葉が欲しかったと思います。マイラ=グウェリン。僕の命は貴女のものだ。エスティエルティナ=ラ・マイラ=エスメラルダ。僕はようやく、自分だけのお姫様を見つけました』
銀狼の瞳がマイラを覗き込んだ。かすかな吐息がマイラの唇にかかる。大きく太い前足が伸びて、そっとマイラの頬をかすめた。マイラは息を止めた。こういうときどうすればいいかなんて知っているはずがない。どうすればいいのかさっぱりわからなかった。心臓が飛び跳ねていて、急がなければと思うのに、体がぜんぜん動かなくて。
でも。
『……本当に残念、なんですけど』
ため息混じりの、フェルディナントの声。
苦笑を含んだ、優しい瞳の色。
『もし人魚の呪いが利いてなくて、万一にでも魔法が解けたら――銀狼でなくなってしまったら、貴女の役に立てなくなってしまうから』
「……?」
『すべて終わるまでやめておきます。続きは、銀狼の体が必要なくなってから』
「……」
『行きましょう』
フェルディナントの声に、マイラは微笑んだ。
「はい」
そして曾祖母も、本当はきっと、そう言いたかっただろう――と、思った。
*
ティティを見送りに出ただけのはずのユーリと店主は、外でいったい何をしているのだろう?
長い階段をよいしょよいしょと昇りながら、アデリシアは疑問に思った。階段は果てしなく長い。ティティを見送りに行っただけなのに、まだ地下室にアデリシアとエリックが残されているのに、こんなに長い階段を全部昇らなくても、途中で戻ってきたところを捕まえればいいと思っていたのに。
忘れられたのだろうか。
エリックは動けないはずだと思い込んで、アデリシアのことなどすっかり忘れて、店主と共にこの国を出て行ったのだろうか。
でももちろん、そんなわけはなかった。抜き差しならない理由があったのだ。
階段の突き当たりにあった扉を持ち上げたアデリシアが見たものは、さっきティティをなぶるだけなぶって出て行ったはずの、あの美しい人魚だった。立ち去ったと見せかけて、ティティをやり過ごしたのだろうか。
彼女はこちらに背を向けて、その先にいるユーリを見ていた。用があるのはユーリにらしく、店主は既に『片付けられて』、ユーリの、少し離れた場所に倒れていた。
既にこの辺りに他の人影はなく、ユーリはひどく青ざめている。
いったいユーリに何の用だろう。
「……僕にはわからない」
ユーリが呻く。人魚は嗤った。
「わからずともよい。人間ごときに理解などできるものか」
「ウェルダさ――」
「呼ぶな、汚らわしい!」
ウェルダが激昂する。ユーリが青ざめている理由がわかった。ウェルダがユーリを凍り付かせようとしている。店主と見比べるとそれがよくわかった。ユーリの頬にも鼻にも霜がこびりついている。
「あの娘に他の仲間はいらぬ」
冷たい、底冷えのするような声でウェルダは言った。
「昔から強情な娘じゃった。儂らが言いつけに背かぬまでも、いつも別のことを考えておるようじゃった。魔力も治療の腕も抜きん出ておる。あの娘は儂らが仲間、可愛い可愛い、儂が妹。……あの娘に他の……そも」
くっ、喉が鳴った。
「人間ごときが、あの娘の仲間になど。思い上がりも甚だしい」
「僕は人間だ。でも貴女よりはティティさんにとって無害のはずだ」
「何じゃと。儂が人間より有害じゃと?」
「そうじゃないか」ユーリは凍り付きそうになりながらも果敢だった。「姉だから……育てたから……母親だからと言って、娘を虐げていいのか。相手はあんたの所有物じゃない。意志も意見も持った人間だ」
「卑賤な生き物と一緒にするな」
「同じだ! 彼女は貴女とは違う意見を持った、それはあの人の罪なのか!? あんたの目的を遂行するための操り人形が欲しいなら、泥でも捏ねて人型を取らせろ!」
「あの娘は」
くくく。ウェルダの喉が鳴った。
「そう、そなたの言うとおり。あの娘は儂が育てた、儂の可愛いお人形じゃ。それのどこが悪い?」
「な――」
「美しかろう? 賢かろう? 優しく、思いやりがあり、愛嬌も兼ね備えた完璧な人魚じゃ。銀狼の心を取り戻すにはあの娘が要る。あの娘ならば捕らえた銀狼の心もきっとほぐれる」
「……何を、言って」
「あの娘には相談できる相手がおらぬ。儂が丹誠込めて奪ってきたのじゃ。それでよい。知らぬ世界など必要ない。そなたがいなくなればあの娘はまた道に迷うじゃろう。儂らがもとに戻ってくる……あの娘には儂らしかいない、今度こそそれを……思い知るじゃろう」
「……わからない。僕には」
ユーリが呻いた。アデリシアにもわからなかった。この人魚は既におかしいのではないだろうか。
でも、ウェルダは本当に美しかった。彼女はいつしか雪混じりの風をその身に纏っていた。驫驫と吹きすさぶ風は次第に強さを増してユーリに襲いかかる。ユーリは風から顔をかばい、その場にうずくまった。
人魚とはこれほど違うのか。
アデリシアはそう思った。人間であるユーリには、人魚に対抗する手段など一つもなかった。存在の次元が違う。こうまで圧倒的だなんて。
「殺生は好かぬがそなたなら」
ウェルダの声はひどく優しい。
「毒に汚れたそなたならば」
ウェルダは感謝しているに違いない。走り出しながらアデリシアは思った。
ユーリが毒を使ったことを。
ティティから〈仲間〉を奪うことへの、大義名分があることに。
ごっ。
ユーリのそばに走り込むと、凍てつく雪片がアデリシアに襲いかかった。さっきユーリは既に一度凍えていた、ティティのお陰で乾かされたけれど、体力は消耗していたはずだ。そこにこの猛吹雪に襲われて、ユーリはもはや意識が朦朧としているようだった。アデリシアはユーリに飛びつき、耳元で怒鳴った。
「ユーリ! 起きて、ユーリ!!!」
「アデル」かすかな声が聞こえる。「逃げろ、アデル」
「嫌だよ、バカ! ユーリ、寝てる場合じゃないよ! お嬢様が……あなたの大事なお嬢様が、危険なんだよ!」
言いながら、我ながら嘘臭い、と思った。コンスタンスお嬢様の顔も未だに知らないというのに。
頬を叩いてやりたかったが、この暴風の中ではそれもできなかった。自分の声が、ユーリに届いているかどうかも定かじゃなかった。ユーリをこの暴風の中から引きずり出すことも難しそうだ。アデリシアにユーリを引きずる力があったとしても、あの人魚がそれを許すとも思えない。
「アデル。……逃げろ」
ユーリの言葉はすでに譫言のようだ。アデリシアはユーリを抱きしめた。温もりも寒さも感じないこの体で、できる限りユーリを覆う。今はそれしか――
――ぜんぜん寒くないのよね、この毛皮。
パトリシアが言っていた。スピアそっくりの豪奢な毛皮をうっとりと撫でていた。
そうだ。あの毛皮に包まれていれば、外気のほとんどを遮断できる、はずだ。
アデリシアは力を抜いた。今まで無意識のうちにもずっと込め続けてきた力を。
それで他の人に存在がばれて、弓矢で追い回され、捕らえられて毛皮を剥がれることになっても――
――ニース、ごめんなさい。
さっきから謝ってばかりだと、アデリシアは思った。
親分と、それからニースに。謝ってばかりだ。
――言いつけに背いて、ごめんなさい……
ばさっ。
アデリシアの背から、翼が飛び出した。
塔では邪魔にしかならなかった。いつもできるだけ小さく縮めて、皆に引っかからないようにするのが常だった。多分無意識のうちに形も変えていたに違いない。のびのびと伸ばした純白の翼は、自分でもびっくりするくらい大きかった。
「ユーリ。死なないで」
呟いて、翼でユーリをくるみ込んだ。
翼の中で、ユーリが呻いた。
「……アデル。君は」
「なあに?」
「君は、……もしかして」
ユーリは呟き、微笑んだ。
「すごいな……人魚より稀少だ。……僕の願いを叶えてくれないか。アデル」
そんなのできるわけないじゃないか、そう言ったのに、ユーリは聞いていなかった。目を閉じて、眠たげな声で言った。
「ティティさんの境遇が……あまりに、コンスタンスと同じで」
「え?」
「……コンスタンスが虐げられるようになった……ずっと……理由が、わからなかった、けど。それは……僕のせいだった。僕が素養を、失った、から……」
「……え……?」
「父も母も間違えたんだ。僕なんか捨てればよかったのに。アデル、コンスタンスを……コンスタンスが無事でいますように。あの四年の苦しみが、彼女から消えてくれますように。僕の魂で良かったら、いつでも持って行って……」
「ユーリ? ユーリ!」
「バカみたいだ。この期に及んで僕は、どうしても、自分の境遇を恨むことができない。いいよ、もう……使い捨てられたって。忘れられたって……あの人が無事でいて……くれれば、……それで」
なにを言っているんだろう。ユーリがアデリシアの翼を見て、何かと混同したのは確かだった。ユーリの声から力が失せて、アデリシアはよりいっそう強く、ユーリを抱きしめた。
「願いを叶えるなんて無理だよ! 魂なんていらないよ! ユーリ、ユーリ、ユーリってば! あなたの大事なお嬢様を、あなたが守らないでどうするのよ……!」
視界はほとんど真っ白で、すぐそばにあるユーリの顔以外はなにも見えなかった。ユーリはもう何も言わなかった。アデリシアもそれ以上何もいえず、ただ、ユーリの鼓動の音だけを聞いていた。ユーリの鼻のあたりにあるアデリシアの毛皮に露が付いている。
ユーリに体温がある証拠だ。この鼓動がある限り大丈夫だ。アデリシアは自分に言い聞かせた。
そうすることしか、できなかった。




