親分
ウェルダがいなくなると、ティティは、ふう、と体の力を抜いた。
元の姿に戻ったティティは、さっきの人魚に負けないほど美しかった。特に綺麗なのはその瞳だ。まるで若草色の宝石のように煌めいていた。覗き込んだらその先に、清々しい草原が広がっているのではないかと思わせる。
「……加勢をありがとう。助かった」
ティティは率直に言い、ユーリは「いえ、」と首を振る。しかしその様子はどこか上の空だった。藍色の瞳はまだ、人魚の消えた扉の方を見ている。
ティティは涙を拭い、少々気恥ずかしそうに自らの傷を治した。その間に体が縮み、もとの、可愛らしい幼女の姿になった。薄布を元どおり羽織り、未だ金の檻に囚われたままの店主を覗き込む。
「して、これを解いてやらねばな」
「ああ……どうぞお構いなく。私のを解くと、あいつのも解けちまうんで」
「さようか。ふむ……佳くできた細工じゃな。少し待っておれ、外から水を呼ばねば」
そしてユーリを振り返った。彼はまだ扉の方を見ながら考え込んでいる。
ティティはユーリを覗き込んだ。
「ユリウス。いかがした」
「……」
ユーリはティティを見上げ、逆に訊ねた。
「……ティティさん。マイラ=グウェリンが回収していた〈窓〉の残りがどうなったか、ご存じではないですか」
「知っておる。儂と……儂が、回収した。残っておった四つすべて、儂が持っておる」
「今どこに?」
「ここじゃ」
ティティはどこからともなく皮袋を取り出した。袋をくつろげると、中から、何かがころころと転がりでた。アデリシアのところからはよく見えないが、何か複雑な機械のように見える。
「……」
ユーリはまた考え込み、ティティは訊ねた。
「なんじゃ? 何を難しい顔をしておる」
「さっきの水はなんだったのかと思って」
ユーリは言い、顔をしかめた。
「あの人魚は……ここに何をしにきたんでしょうか。さっきティティさんは、あの水と毒の香りがしたからここを見にきたとおっしゃいましたね」
「ふむ」
「エリック=グウェリンに〈人魚の骨〉もしくは〈技術者〉を確保しに行かせるなら……本来、こっそりやるべきではないでしょうか。ティティさん、貴女が来なかったら、あの人魚がロビンソンさんを連れ去ることは容易かったはずだ。貴女がここに来たお陰で、人魚は技術者も〈人魚の骨〉も諦め、エリック=グウェリンさえ放置して逃げた」
ティティとユーリの目が同時にエリックに向けられた。エリックはここから見ると、まるで死んでいるようだった。ゆっくりと身体が上下しているから生きているとわかるが、目を閉じ、うなり声さえ上げない。
「あの人魚は、ここに何をしに来たんでしょうか」
ユーリが繰り返し、ティティを見た。
「まるで貴女を呼び出すために、あの水を呼んだ……〈人魚の骨〉も技術者も、貴女をこの場におびき寄せ、かかりきりにしておくために、この一連の騒ぎを起こした。そうでも考えないと、あの人魚の行動には無駄が多すぎる」
誰かが喉を鳴らして笑った。店主だ。
「……誰もがあなたのように、深く物事を考えて行動する訳じゃねえんじゃねえかな」
「そうかもしれない」
ユーリは頷いた。
「でも、あの水は派手すぎた。そう思いませんか」
「俺ぁ見てねえからなあ――」
「……儂をここに呼び出して、姐様に何の益があるのじゃ」
ティティが訊ね、ユーリはまた顔をしかめた。
「人魚の骨を貴女が全部持っていないなら、マイラが一度回収したところにもう一度設置し直す、というのが怪しいけど。貴女が全部持ってるのですから……」
「儂の持ってるものが偽物じゃったなら」
言ってティティは、さっき出した四つの装置をすべて大きくし、店主の前に並べた。
「どうじゃ。これはすべて本物かえ」
「……」
店主はじっと装置に見入り、ユーリが訊ねた。
「偽物の可能性が?」
「このうち三つは儂が手ずから回収したが、最後の一つは違う」
「……ユリウス。ひっくり返してくれねえか」
店主が頼んだ。ユーリが応じてやるのをみて、アデリシアは、ようやく少し働くようになってきた頭で、ユーリの本来の名前はユリウスと言うらしい――と思った。
「……こりゃうちで作ったもんじゃねえですね」
ややして、店主はそう言った。まだ四つの装置に目を凝らしながら、
「人魚の骨の純度が違う。左から二番目のは、うちなら扱わねえってくらい石の質が悪い」
「……そうか」
ティティはうめき、ため息をつき、顔をこすった。
「……仕方がない。別の手段を執ることにする。あまり使いたくはなかったが、背に腹は代えられぬ……」
「別の」
「手段?」
店主とユーリが言い、ティティは浮かない顔で頷いた。
「人魚の骨と対になる石があるのじゃ……。人魚の骨は歪みを消す作用があるが、対になる石、〈銀狼の牙〉は、歪みを生み出す石なのじゃ。姐様はエスメラルダの〈中枢〉を使う、じゃから、〈銀狼の牙〉を集めてきて、〈中枢〉の周りに擬似的な〈壁〉を作り出す」
言いながらも、ティティの表情はどんどん沈んでいく。
「何か問題が?」
ユーリの問いに、ティティは顔を上げ、苦笑した。
「先も言った。歪みを増やさぬことがこの世に生きとし生けるもの全ての義務じゃとな。じゃがこれ以外に方法はない。儂は必要な石をとってくる故しばし留守にする。後は頼むぞ」
「……この男は、」
ユーリが言ったのは、エリックのことだろう。ティティはエリックをちらりと見て、頷いた。
エリックは全く動かない。大きな獣がうずくまって傷を癒やそうとしているかのようだ。
「あまり時間がない。済まぬがこのままここに転がしておいてくれぬか、それからその子も」
とても優しい目がアデリシアを見た。
「……儂に預からせてくれぬか。なぜ無事なのか解らぬが……この生き物にとって一番住み良いのは儂らが世界じゃ。歪みはこの子等の体を切り裂く。あのままにしておいて欲しい。〈銀狼の牙〉を設置し終えたら迎えに来る」
言って彼女は、店主の体を戒めるあの金色の檻に手をかけた。がちん、鈍い音と共に金の檻が外れ、バラバラと床に落ちた。店主は跳ね起き、心配そうにエリックを見たが、エリックの檻には変化がない。
「……これぁ……どうやったんで」
店主が呆然と訊ね、ティティは得意げに笑った。
「仕組みを読み解くのに少し時間が要ったが。そも、リルア石を使った道具は儂らが技術じゃぞ」
「そうなのですか」
「先の〈窓〉の複製を見たじゃろうが。どうせばれまいと思うて粗悪な骨を使って発覚したが、他の部分はかなり精巧にしてあったはずじゃ」
言いながらティティは裸足の足音を鳴らして部屋を横切り、階段を上っていった。ユーリも店主も一緒に行き、地下室には、未だ身じろぎもしないエリックと、水に閉じこめられたままのアデリシアだけが残った。
アデリシアはうっとりしていた。生まれて初めてと言っていいほど気分が良かった。
水の中は穏やかで、静かだった。とても幸せで、満ち足りた気分だった。毒によってもたらされた、あの狂おしいほどの渇望はすっかり消え、激昂の後の気だるさだけが僅かに残っている。
あれはいったい、なんだったのだろう。
あの狂おしさは普通じゃなかった。今アデリシアは、安堵していた。あれに囚われずに済んだことに。ほんのかすかな香りだけで強力な飢えと渇望をもたらした〈あれ〉は、恐ろしいほどの魅力をもってアデリシアを呼んでいた。強烈な意志。支配欲。広がりたいという渇望、勢力を強めたいという熱意、そのためにありとあらゆるものを利用しつくそうという憎悪にも似た強い強い意識の塊。
捕まらなくて良かった。
そう思えることにも、アデリシアは安堵する。
ティティのお陰だ。さっきまでのアデリシアは呆気なくあの意識の支配下に置かれ、意のままに動く操り人形同然だった。ティティの介入がなかったら、隠し持っている〈あれ〉がまだないかとユーリに襲いかかったに違いない。相手を傷つけることなど意にも介さず、見つからなければ激昂し暴れ狂ったに違いない。
ティティは、〈あれ〉がアデリシアにどんな影響をもたらすものなのか、ちゃんとわかってくれていた。それがありがたい。
狂いかけたのはアデリシアのせいではないということを知っていてくれる。〈あれ〉からこうしてアデリシアを守ってくれた。本当にありがたい――
いつしかうとうとと微睡んでいたらしい。何か物音がして、アデリシアは我に返った。
誰かいる。――後ろに。
足を忍ばせて歩いてきたその誰かは、おそらく、さっきアデリシアが下りてきた階段から来たらしい。大きな机をぐるりと回って姿を見せたその人は、アデリシアの向こうにエリックが倒れている――さっきから死んだように身じろぎもしない――を見て、初め驚き、次いで、
嗤った。
密やかな含み笑いは男のものだ。
「ロビンソン。よく仕留めた」
その声を聞いてアデリシアは総毛立った。恐怖がアデリシアの呪縛を解いた。逃げなきゃ、水の中でもがいた瞬間に、太い腕が伸びてきた。首をまともに掴まれて、居心地のよい水の中から引きずり出された。逆さまにされ、背中を情け容赦のない力でたたかれた。
「げほっ」
肺から水を絞り出され、改めて首を掴まれる。水に満たされていた肺が空気を取り込む前に気道を止められ、即座に酸欠が襲ってくる。
「確かに綺麗な子供だ」
間近で覗き込んでくるのは、あの男だ。
総ての元凶の。エリックに罪を着せ、マイラとの和解を妨害した。何人も人を殺した。ヴァルターという偉い人のことも、エリックとマイラの、あの美しかった母親も。自分を守ろうとしたシェイラという人をエリックの前にためらいなく突き出した、あの冷酷な男が、興味深そうにアデリシアを見ている。
目の前がチカチカする。助けを呼ぼうにも、声を出すための息がない。頭がパンパンに腫れ上がり今にも破裂しそうだ。アデリシアは必死で身をよじり、男の手に爪を立ててかきむしった。はかない抵抗だったが、びしょ濡れだったことが功を奏した。アデリシアの喉をつかみ直そうとした男の手が滑ったのだ。アデリシアは床に投げ出された。真下にあったあの剣が滑ってエリックの檻にぶつかってガツンと言った。肺に空気が一気になだれ込んできて喘ぎながらもなんとか逃げようとしたが、背に、男の足が叩きつけられた。
「お前に生きていられては困る」
冷酷な声。もう一度足が叩きつけられた。ごぼっ、奇妙な音が口から飛び出した。呻き声すら上げられない。
目の前が真っ赤だった。
と、その真っ赤な視界の中に、親分の顔が見えた。年老い、病に苦しむ痩せ細った顔じゃなくて、元気だった頃の――
若くて元気で、いばりんぼで、よく大マストの上にアデリシアを引っ張り上げてくれた、あのときの顔。アデリシアの入った籠に縛り付けたロープをぐいぐい引っ張る親分は、とてもカッコ良かった。
アデリシアとニースにはいつも優しかった。
でも、レギニータ号を狙おうとする敵や嵐に向ける顔は、本当に恐ろしかった。
今、親分は怒っていた。アデリシアを見る親分は酷く酷薄な顔をしている。アデリシアはその顔に向けて謝った。いい子でいたかった、と思った。
最期にこんなに怒った顔をされるなんて。
――親分、ごめん。
――ニースの言いつけを、守れなかったよ……
ナイフが鞘から抜かれる音がした。
そして。
「……ぐあっ」
その声は、頭上で聞こえた。
アデリシアはかすむ目を開けた。
ひゅうっ、頭上の誰かが息を吸う音は奇妙にひきつっていた。
ポタポタと、あの温かな滴がアデリシアの顔に降りかかっていた。
驚いた。いつの間にか、床に倒れたアデリシアの上に、親分が覆い被さっていた。
親分は傷ついていた。がんじがらめに縛られていた体勢から、無理やり右腕だけを引きずり出したのだろう。親分の腕の下から体をねじってみると、アデリシアに襲いかかろうとしていた敵は大きく後ろに下がったところだった。親分の投げたらしい剣が、わき腹に突き刺さっている。
柄に複雑な文様の刻まれた美しい剣は、アデリシアが今まで見た覚えのないものだ。
でも、なぜだろう。あの剣は信じていいものだ――今までも何度もアデリシアを守ってくれた剣だ。そういう気がする。なぜだかは、わからないけれど。
「……エリック……生き、て、……いたのか」
敵が呻いた。
親分は答えなかった。炯々と光る目で、敵を睨んでいた。さっきの怒った顔も、アデリシアに向けたものじゃなかったのだ。敵は顔を歪めた。蔑むような余裕の笑みを、何とか浮かべようとした。
「大した……狸寝入りだな……」
「ここへ来い」
親分は地響きのような声で言った。アデリシアはようやくそれが、親分ではなく、エリックだったということを思い出した。
「貴様の喉笛を食いちぎってやる」
まるで獣のようだった。あのときの親分そっくりだ。
ニースの料理の腕を欲しがる船乗りはとても多かった。一度そんな船長に騙されて、ニースが別の船に乗ってしまい、そのまま連れ去られてしまいかけたことがあった。
あのときの親分は本当に恐ろしかった。
ニースが必死で取りなさなかったら、本当に、あの船長の喉笛を食いちぎるくらいしかねなかった。
「く……くくく」
わき腹から剣が落ちた。ガツン、床に堅い音を立てた。
あの男は傷を押さえ、大きくよろめいた。
「死に損ないに、もう出来ることなど何もない。ロビンソンめ。早くとどめを刺せばいいものを」
負け惜しみのような言葉と共にあの男はもう一度よろめき、きびすを返した。
あの男が消え、アデリシアは体を起こした。頭ががんがんして、ふらついたが、何とか起き上がった。エリックはあの藍色の目でアデリシアを見ていた。アデリシアは囁く。
「助けて、くれて、ありがとう。……あの」
「消えろ」
エリックの声は冷たく素っ気なかった。アデリシアはエリックの腕をそっと握った。檻をほとんど破壊するほどの力で腕を無理やり引きずり出したためか、一部の肉が削げているらしい。袖口から覗く手首にぱっくりと傷があいている。
みゃくみゃくと湧き出る血。
温かな、命そのもの。
エリックが呻いた。
「触るな」
「エリック、あたし」
「消えろ」
「あたし、絶対、伝えるからね。マイラに。あなたが悪いんじゃないんだって――」
「消えろ!」
怒鳴られ、アデリシアは立ち上がる。あの店主はわからないけれど、ユーリならどうだろう。わかってくれそうな気がする。
「待っててね」
「余計なことをするな。無駄だ」
エリックが唸っている。でもそれは聞いてあげられない、とアデリシアは思う。だって親分に見えてしまった。そっくりだったのだ。もしニースが大きな取り返しのつかない何かに巻き込まれそうになっていたら、親分はきっと、エリックみたいになっただろう。そう、思い至ってしまったからだ。
ユーリと店主のあがっていった方の階段に足をかけ、アデリシアはよろよろとそのじっとりしたトンネルをあがっていった。




