異変
若者たちに取り囲まれたその女性が歩み去ってしばらくして、ユーリは、あああ、と呻いた。
「……しまった……」
「何が?」
「ジーナさんに君を連れていってもらおうと思ってたのに……」
「ジーナさんて、さっきの人?」
「そう」ため息とともにユーリはロビンソン商店に向き直った。「まあ……これだけ人手がいれば……着替えてからでいいか」
「シャトーって、呼んでたね」
言うとユーリは沈黙した。アデリシアはその顔をのぞき込む。
「ジーナさん? って、あの、女の人だよね。あの人が、あなたを、シャトー家の跡継ぎだって」
動揺したのだろうとアデリシアは考えた。ジーナの言葉はユーリを激しく動揺させたのだ。だからアデリシアを託すことが、頭からすっぽり抜けてしまったのだろう。それでよかったとアデリシアは思う。
ユーリのことを何にも知らないまま別れたら、二度と会えなくなる。そんな気がする。
「ここまでずっと、運んでくれてありがとう。降りるね」
アデリシアはそう言い、身をよじってユーリの腕から滑り降りた。ユーリの腕に、アデリシアがかぶった血が付いている。エリックとの対決で、確かケガもしていたはずだ。そんな状態で、血まみれの重たい荷物をここまで嫌な顔ひとつせず運んでくれたのだ、と、アデリシアは考えた。もしあの血だまりの中に放って置かれたままだったなら、いったい自分はどうなっていただろう。
もう、さっきの狂おしいまでの欲望はアデリシアから消えていた。記憶は残っているが、今はすでに、ユーリを切り裂きたいとは思わなかった。
それがどんなにありがたいことか、ユーリはきっと一生、知ることはないだろう。
だからお返しにと、アデリシアは頭を整理した。
「まっとうな感性を持っている人なら」
まっすぐにユーリを見つめて、囁いた。
「あんな人に頼まれたことを無碍にするなんて絶対しないよ。そうだよね?」
「人の気も……知らないで」
ユーリは顔を歪めた。笑みの形をしていたけれど、ひどく、ひどく、苦しそうだった。
「勝手なこと言うなよ……」
「知らないよ。だって何にも知らないんだもん。あなたが誰なのか、どんな事情を抱えているのか、本当の名前は何なのか、シャトーのお嬢様がどんな人なのかも知らない。だから言えるんだよ、無責任に。あたしも、ユーリには」
アデリシアは微笑んだ。精一杯の感謝を込めて。
「……幸せになってほしい。シャトーのお嬢様が大好きなんでしょう? それなら、一緒にいた方がいいよ。お嬢様もあなたのことが好きなら、だけど」
「簡単に言うなよ」
「ユーリ。親分は、最後はニースを置いてったよ」
言うとユーリは目を丸くした。「親、分?」
「ニースのことが大好きだった親分は、病気に立ち向かおうと本当に頑張ってた。でも、寄る年波には勝てねえって言った。ニースを頼む、泣き虫だからな、俺が死んだらきっと泣いちまうだろうからって。……親分は頑張ったんだよ。でも、あんなに頑張ったのに、それでもニースを置いていかなきゃならなかったんだ」
「……」
「ニースも頑張ったんだよ。できる限りの看病をしたよ。親分の大好物をたくさん作って、せっせと世話を焼いて。寝ないで看病して、汗拭いて、薬を煎じて……」
パトリシアは『まっとうな』人だったのだろうか。ふと、そんなことを考える。
ヴァルターという人の死を悼んでいたあの喪服の女性に、『ヴァルターの死はルファルファに逆らったせいだ』とほのめかした。
あのときも思った。そして、今も思う。
パトリシアは、『まっとうな感性』の持ち主だったのだろうか。
血だまりの中で途方に暮れている血まみれの小さな子供を見たら――自分の危険を置いてでも、助けに来てくれる人だったのだろうか。
「……でも。だめだったんだ。あんなに頑張ったのに、結局は、親分と別れなきゃ……ならなかった」
「……」
「一緒にいるのは難しいんだよ。いつかどっちかが、どっちかを置いていくんだ。自分の意志じゃないのに、勝手に無理矢理つれていかれる。だったらそれまで……自分の意志なんかで、捨てない方がいいよ」
「魔力の素養を失ったとき、僕にはその権利がなくなったんだ。砂糖やバターを忌避するような馬鹿げた理由じゃない。本物の……まっとうな……理由で、僕は」
そんなバカな話があるものですかって、ジーナは言ったじゃないか――
そう言おうとした、そのとき。
ユーリが、顔を上げた。
藍色の瞳が不思議そうに辺りを見回した。ロビンソン商店の回りを取り囲む若者たちは相変わらず道に溢れ出していて、商店の中までいっぱいだった。入り口に出てきていたあのでっぷり太った店主はすでにいなかった。
別になにも、不審なものなんかないみたいだけれど。アデリシアはまたユーリに視線を戻した。
ユーリは、蒼白になっていた。
「……ユーリ?」
出し抜けに、ユーリがアデリシアを抱えあげ、近くにいた若者に押しつけた。
「な、なんだ!?」
若者があげた狼狽の声を遮るようにユーリは叫ぶ。
「この子頼む! さっき出たこの店のおかみさんを追いかけて、ユーリに頼まれたって言って託してくれ!」
「は、はあ――!?」
「早くしろ! 雪が消えてるんだよ、わからないのか!?」
ユーリに言われて、アデリシアも初めて気づいた。
周囲の家々を覆い隠すほどに積もっていた雪が、消えている。
若者はまだおたおたしていたが、「早くしろ!」叱咤されて我に返った。アデリシアは身をよじって腕から下りようとしたが、下っ端とは言え警備隊の訓練を受けている若者は、さすがに命令の咀嚼が速かった。アデリシアを抱えなおして走り出す。ユーリは逆にロビンソンを囲む警備隊員たちの中に分け入っていく――「ユーリ!」アデリシアが叫んだ、そのとき。
ずずず。
地響きとともに、隊員たちの群の向こうに、波が立ち上がった。
レギニータ号の上で見た、大波にそっくりだった。
「な……んだ、あれ……っ」
「……ユーリ!」
若者の腕がゆるんだ隙を逃さず、アデリシアは身をよじって地面に下りた。そびえ立つ大波は隊員たちの集団を上からのぞき込んでいるように見えた。「ロビンソンさん!」ユーリが叫んでいる。「ロビンソンさん、逃げ――」
「ユーリ!!!」
アデリシアは絶叫した。
大波が、崩れた。
上からのしかかっていた水が解き放たれ、道に溜まっていた隊員たちの上に襲いかかった。ひきつった呼吸音がすぐそばで聞こえた、と、アデリシアはさっきの若者に引きずり上げられた。アデリシアをしっかり抱えて彼は死にもの狂いで走ったが、水の方が圧倒的に速い。大量の水は周囲の全てを飲み込みながら背後に迫る。人々が狼狽の声を上げ次々に飲み込まれていく。若者の足がもつれ、二人は地面に投げ出された――と。
二人を飲み込む寸前で、ぴたり、と水が止まった。
倒れ伏した体勢で頭を上げた二人の目の前に、水の壁が聳えていた。飲み込まれた隊員たちがもがいているのが見える。ややして壁は、ずずず、と揺れた。そして――唐突に水の嵩が減り始めた。しゅうしゅうと音がしているのは水が蒸発していく音だろう。アデリシアは立ち上がった。
水の蒸発は来たときと同じくらい速かった。数回の瞬きのうちに水の壁はすっかり消え去り、飲み込まれていた隊員たちは皆一様に地面に倒れていた。げほげほとせき込みながら倒れ伏す隊員たちの中に、ひとりだけ立っている人がいた。
エリックだった。
「……たいちょ」
びしょ濡れで倒れていた隊員のひとりが喘ぐように言った。その声は静まりかえった往来に、場違いなほどに大きく響いたが、エリックには聞こえないようだった。ゆっくりとした確かな足取りで、エリックはびしょ濡れの道を横切って、ロビンソン商店の軒下に入ていく。
それでアデリシアは我に返った。きょろきょろと辺りを見回してユーリを探した。少なくとも倒れている隊員たちの中にはいない。
あの水がロビンソン商店を中心に襲いかかったのなら、ユーリが激流の一番激しい辺りにいたことは疑いない。
さっきまでそこにいたはずなのに。
水に押し流されてしまったのだろうか。
――ロビンソンさん、逃げろ。
ユーリはさっきそう叫んでいた。アデリシアは身震いをした。ユーリは自分のことを、ユーリ=ロビンソンと名乗った。ジーナというあの女性は、『カイとあなたの幸せが私の大切なもの』と言った。ユーリはジーナにもロビンソンの店主にも他人行儀だったけれど、
――ロビンソンさん、逃げろ。
雪が消えているという異常に気づきながら、ユーリはロビンソンの主人を助けに行こうとしたのだ。
「……エリック!!」
アデリシアは叫んだ。エリックを行かせちゃいけない、そう思った。ユーリの大切なロビンソンの主人を襲いに来たのだとしたら――
エリックには声が届かない。振り向きもせずに軒下に消えた。アデリシアは走った。足の下で水がばしゃばしゃと音を立てる。
でも。
周囲からうめき声が聞こえ、足を止めた。アデリシアには全く感じることのできないことだけれど、ここは、雪が凍り付くような温度なのだ。気づいてみればびしょ濡れの隊員たちは皆がくがくと震え、唇からも皮膚からも血の気が失せている。水に翻弄された時よりももっと恐ろしくて深刻な危機が彼らを襲いつつある。
人には体温がある。
体温を奪われたら、死んでしまう。
「警備隊! 立ちなさい!」
アデリシアは塔にいたときのように周囲を見回して叫んだ。
「普通の人たちも巻き込まれてます、早く立って! このままじゃみんな凍え死んじゃう!」
呆然と座り込んでいた隊員たちがはっとしたように顔を上げる。ぽたぽた垂れていた水は既に凍り始め、彼らの髪は白くなり始めている。がちがちと歯の根が震え、唇から血の気が失せていく。アデリシアは一番近くにいた若者にかがみ込み、胸ぐらを掴んで頬を叩いた。
「ほら立って! 早く! みんな歩いて! できるだけ周りの人に手を貸して――」
運良く水の範囲の外にいた人たちがわらわらと集まり始める。アデリシアは彼らに、【国境】の方角を示した。
「早くこの国を出て! アナカルシスなら暖かいから、そちらを目指した方がいい! 皆さん、手を貸して! 一刻も早く外へ!」
倒れていた人たちが手をさしのべられ、助け起こされ、よろよろと歩き出す。さっきユーリにアデリシアを託された若者がこちらに来ようとしているのを見て、
「あなたも他の人に手を貸してアナカルシスへ行って!」
言い捨ててアデリシアは急いでエリックの後を追った。
軒下は暗かった。あの時はあんなにたくさん並べられていた数々の魔法道具はすべて片づけられ、店はひっそりと静まり返っていた。エリックの姿は見えず、店主の姿も見えなかった。ただぽっかりと、戸口が開いていた。黒々とした闇を湛えた入り口は、ひどくまがまがしい雰囲気だ。
アデリシアは急いで店内を駆け抜け、恐らくは居住区に続くのだろう入り口に飛び込んだ。
――魔法道具屋に工房見せろってのがどういう意味か解ってんのか。
店主がエリックを罵った声が頭に甦ってくる。
――頭かち割って脳みそ見せろってのと同じことだぞ。
あの時、エリックの恫喝にあくまで立ちはだかったのは、やっぱりここで『窓』を加工していたからなのだろうか。あの時エリックが力ずくで店主を押しのけ、『家宅捜索』を実行していたら、いったいどうなっていたのだろう。
そう考えながらアデリシアはまっすぐに伸びた廊下を奥へ進んだ。薄暗いが、その建物の中はやはり居住区のようだった。左側に見えるのはきっと厨房に続く通路だろう。右側には厠や風呂などがありそうだ。アデリシアはどちらにも向かわず、そのまま廊下をまっすぐ進んだ。ややして正面に、ぽかりと口を開けた暗い穴が見えた。床に四角く穴が空いていて、地下へ続く階段がその中に見えている。
エリックはきっとここへ入ったに違いない。
そう考えながら、アデリシアは穴にかがみ込んだ。――その、時。
かたん。
今アデリシアがやってきた方、店へと続く入り口の方で、くぐもった音が響いた。
振り返る。
誰もいない。
自分の、唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。嫌な予感がぞわぞわと、消しているはずの毛皮をはい回る。
――あの男が来たのだろうか。
アデリシアは目を眇めてもう一度戸口を見た。
でも、誰もいない。
戻って見ることはできなかった。エリックが今この瞬間にもロビンソンの店主を殺しているかもしれないのだ。気のせいだ、と自分に言い聞かせ、アデリシアは穴に向き直った。意を決して下りていく。
それでも、どうしても、あの男の気配を確かめずにはいられなかった。
頭が全部穴の下に隠れたところでアデリシアは動きを止め、三秒数えてさっと頭を穴から突き出した。
店への出入り口は先ほどと変わらないたたずまいで、薄明かりをこちらの居住区に投げかけているだけだ。
アデリシアは自分の滑稽さに思わず顔を綻ばせながら、もう一度階段を下りていった。




