見習い水夫
騒然とした雰囲気の町中を、ユーリはアデリシアを抱え、足早に歩いていく。
ユーリの首にかじりついた状態のまま、アデリシアは流れていくユーリの背後の景色から目を離すことができなかった。さっき見た、すべての元凶であるのだろうあの男の、暗く陰惨なまなざしが頭から離れない。
今更だけれど、自分がすべてを目撃していたことに思い至っていた。エリックが母さんと呼んだあの美しい人が、エリックが来る前にすでに刺されていたことも――車いすの男を庇おうとした優しそうな女性を、エリックの剣の前に突き飛ばしたことも――エリックを激高させ理性を失わせたことも、アデリシアは目撃している。あの男が黒幕だと言うことを告発できるのはアデリシアだけだ。
つまりアデリシアがいなくなれば、あの男の悪事を暴ける人は誰もいなくなる。
「ロビンソンに行こう」
アデリシアの背をぽんぽんと軽くたたき続けながら、ユーリが言った。アデリシアはうなずく。
「大丈夫だよ。とにかくその服を着替えて、エスメラルダから出なくちゃ。シャトー……様に、会えればもう安心だ。シャトー様はエスメラルダではかなりの発言権があるはずだ。君が目撃したことを告発するにも、きっと後ろ盾になってくれる」
ずいぶん信頼しているのだとアデリシアは考えた。
エスメラルダの人間であるはずのユーリが、アナカルシスのシャトーという貴族のことを、どうして個人的に知ったのだろう。
ロビンソン商店のあるあの大通りに出た。
大通りはざわめいていた。家家から次々に人が出て、鍵を閉めて、足早に歩き出す。みんな同じ方向に進んでいく。神殿の方向とは逆の、おそらくはエスメラルダの出口に当たる方向に。こちらから見ると、人々の流れは、〈神殿〉から逃げ出してくるように思えた。沈む船からはネズミが逃げ出すんだ、と話していた親分の声を思い出す。
――レギニータ号のネズミは幸せだね。
親分の膝の上で、アデリシアはそう言った。
――おうちを逃げ出す心配をしなくていいもんね。
笑った親分の優しい顔も、大きな手のひらも、こんなにはっきり覚えているのに。
あんなに頑丈で強くてかっこ良かった親分は、もういない。
でも親分は幸せだったのだと、〈神殿〉を見ながら考えた。親分はニースとアデリシアを置いていった。残されたニースとアデリシアがどんなに泣いたかも知らないで。親分は、大好きな人に置いて行かれずに済んだのだ。
そしてそれが、自分の定めなのだろうと思った。
ユーリもマイラもニースも、アデリシアを置いていく。いつまで経っても大きくなれないアデリシアは、これからもずっと、ずっと、大好きな人たちに置いて行かれ続けるのだろう。
ずっと。
ばたばたと足音をさせて、若者たちがユーリとアデリシアを追い越していった。たぶん、エリックの仲間だった警備隊の若者たちだろう。彼らがちらりと投げていった視線が少し不思議で、アデリシアはまたユーリの背中の方に視線を戻した。
そして二メートルほど後ろをつかず離れずついてくる見覚えのある若者に気づいた。
アデリシアと目があって、彼はばつの悪そうな、でもほっとしたような、はにかむような、恐れるような、複雑な表情を見せた。
「ユーリ」
囁くとユーリは足を止めた。振り返って若者を見、道を譲るように少し脇による。
若者は近づいてきたが、通り過ぎず、もじもじして、ユーリかアデリシアに用があることは明白だ。アデリシアはそこで思い出した。この若者は、昨日エリックに食べ物を運んできた三人のうちの一人だった。確か炒めご飯を食べていた。
「……何か用?」
ユーリがぶっきらぼうに訊ね、若者はさらにもじもじした。
それから、意を決したように顔を上げる。
「あのさ。……俺何したらいい?」
「は?」
「隊長はどこ行っ……ああ、いや、その……俺……俺デイルって言うんだ。俺、これから何すればいい?」
「自分で考えれば」
ユーリの声は冷たい。突き放すような言い方だが、デイルはめげなかった。言い捨てて立ち去ろうとしたユーリの前に急いで回り込んだ。
「何がなんだかわからないんだ。どうしたらいいのかも……何やったらいいのかも。誰に従えばいい」
「知るか」
「隊長もマイラ様もいなくなった。グウェリン家は焼けたし、グウェリンさんもいなくなった。ロビンソンは……」
「……」
ユーリははっとしたように彼に向き直った。デイルはユーリに睨むように見られて目をそらす。
「……ロビンソンさんに今、俺たちが頼んのは、悪いと思うんだよ。一人息子だっただろ……あんましその……酷じゃないかと思って」
「さっきの奴らは」
「俺バカだからさ。うまく言えなくて。止めらんなくって。……なんかすげえ変なことが起こってる。どうしたらいいのかわかんねえんだ」
「この国に残ってたら危険なんだよ。国民を一人でも多く〈壁〉の外に出せ」
言い捨ててまた足早に歩き出す。デイルはまた追いすがってきて、ユーリは振り返った。
「早く行けよ」
「どうすれば、」
「そこまで――」
言いかけたユーリに、アデリシアは見かねて口を出した。
「だめだよユーリ。訓練されてないんだから」
ユーリがこちらを見た。「訓練?」
「見習い水夫みたいなものだよ。嵐が来たらこうするって訓練は受けてても、大渦が見えたらどうするって訓練は受けてない。漠然と『船を守れ』って言われても、何をすればいいのかわからないよ。ロープを引けばいいのか、ほどけばいいのか、帆を揚げればいいのか下ろせばいいのか。嵐が見えたら最初は帆を揚げてできるだけ逃げる、でも逃げきれないってわかったら今度は帆を下げて船を守らなきゃいけない、でも大渦の時には? ――見習いの水夫がひとりで勝手に判断したせいで船が沈んだりするから、水夫頭はすごく厳しいんだよ、勝手に判断するな、何か見えたらすぐ報告して指示を待てって、徹底してる。判断して良くなるのは一人前って認められてから」
デイルはアデリシアの援護に感謝するように、ふにゃ、と笑った。ユーリはそれを見て呆れたようだ。ふー、とため息を一つ。
「つまり一人前じゃないってことだろ」
「俺らの仲間は大抵そうなんだ」まだ笑いながらデイルが言った。「ちょっと前に隊長が父親と大喧嘩して警備隊が半分に割れたんだ。しょーがねーんだよ。警備隊の人間はほぼ全員グウェリン道場の門弟だからさあ、グウェリンの親父さんにつくか隊長につくかって感じで」
「それで一人前の人間はみんなグウェリンについたんだ」
「……あー」
デイルは突然しょぼんとした。
「あんときはさ、なんで隊長の話がわかんねえんだ、頭の固い奴らだって、思ったんだけどさあ――」
「わかった。もういい」
打ち明け話を始めようとしたデイルの言葉を、ユーリはぞんざいに打ち切った。
「デイル、あんたの言葉が通じる隊員はどれくらいいるんだ」
「んー……ロビンソンに頼んのは気の毒だって、同じ考えだったのは、十人……くらい」
「じゃあ仕事を頼む。エスメラルダの外、【国境】の集落に、ランバート=シャトーという人間がいる」
またその名前だ。アデリシアはまた、いったいどんな人なのだろう、と思った。
「その人間が集めている〈通行証〉を守ってほしい」
指示を聞くうちに、デイルの顔が引き締まっていく。
『隊員』の顔になっていく。
「〈通行証〉ね」
復唱の声も頼もしい。ユーリも頷いた。
「エリック=グウェリンがまた動けるようになったら、今存在している〈通行証〉を奪いに行くと思う。国内にまだ残っているものは僕が何とかする。だから外にあるものをあんたに任せる。何があってもエリックに渡すな」
デイルがぞくぞくっとしたのがアデリシアにはわかった。
「任せてくれんの」
「少なくともロビンソンに頼りに行った奴らよりはまっとうな感性を持ってる。それなら、エリックが常軌を逸してることもわかってるはずだから」
ユーリはその後も細々した注意をいくつかしながら手帳にさらさらと何かを書き、破りとってデイルに渡した。
「ランバート=シャトーに見せろ。僕の筆跡だとわかるはずだ」
「了解。……あのさ」
デイルは紙片を受け取り、それを見ながら言いにくそうに声を上げた。
「これ見せればシャトーって貴族が俺のことまで信用してくれるわけね。……あんた何者なの」
それはアデリシアも知りたかった。
でもユーリは答えなかった。「早く行けよ」と言い残して、アデリシアを抱えて歩き出す。デイルは今度は食い下がらなかった。彼の視線は手の中の紙片とユーリの背中を何度か往復したが、ややしてきびすを返した。
*
ロビンソン商店は、騒然とした雰囲気に包まれていた。
デイルに賛同した若者は十人くらいだと言っていたが、デイルが説得できなかった人間はその三倍はいるようだった。みんな口々に何か言い交わしながらロビンソン商店を取り囲んでいる。ユーリはそれを見て眉間の皺を深くした。
「考えなし」
低い声。ロビンソンを取り囲んだ若者たちは、まるで砂糖に群がる蟻のように見えた。ユーリがなぜ彼らを怒り、デイルの方がまっとうだ、と言ったのか、アデリシアにはよくわからなかったが、蟻のような彼らの群がり方を見てそれがわかった。
彼らは何も考えていない。
蟻のように本能的に、求めるものに群がっているだけだ。
ユーリとアデリシアがそこにたどり着く前に、その群がりが崩れた。ロビンソン商店の中から、五人ほどの一団が出てきたのだ。
中央にいるのは女性だった。豊かな髪は、エリックの腕の中で力つきた、あの美しい女性と同じ色だった。彼女を取り囲んでいる若者は皆誇らしげな顔をしている。上気した頬。キリッとしたまなざし。さっきのデイルと同じだ。ロビンソンから、きっと、あの女性の護衛とか、そういう仕事を任されたのだろう。
戸口に、でっぷりと太った店主が立った。エリックがここの商品を壊した時に『しょんべんたれ』と罵った、あの人だ。彼は優しい眼差しで、警備隊の若者たちに囲まれた女性を見送っている。
うつむいた女性は若者四人に取り囲まれ、こちらの方に歩いてくる。が、ふと、ユーリに気づいた。
顔を上げた女性を見て、アデリシアは驚いた。
髪の色ばかりじゃない。顔立ちまで、あの綺麗だった女性によく似ている。年頃も同じくらいだ。もしかして姉妹かもしれない。
女性は一瞬、泣き出しそうに顔をゆがめた。
手を挙げて、ユーリに触れようとした。
でも。
寸前で、彼女は自分を取り戻した。
「シャトー……様」
涙声で、でも決然と、彼女は囁いた。ユーリが首を振る。
「僕は……」
「いいえ。あなたは、シャトーの跡継ぎです。ランバート様も本心では、それを望んでおられるはず」
「僕には、その権利がありません」
「バカバカしいわ」彼女は微笑んで見せた。「そんなバカな話があるものですか。シャトー様、どうか……お助けください。私からもう、これ以上、大切なものを奪わないで」
彼女の手が、ユリウスの袖をぐっと握った。
「……」
「カイとあなたの幸せが私の大切なもの。投げ出さないで、立ち向かってください。幸せを勝ち得る権利を、自分の意志で、捨てないで、ください。私もそうしましょう。あの子に……あなたに、顔向けができるように」
「……」
うつむいたユーリの腕をそっと叩いて、彼女は囁いた。
「職人の方は、引き受けますわ」
「お願い、します」
ユーリが言うと、彼女は笑った。涙に濡れた、でも誇り高い笑顔だった。




