嘘
〈水鏡〉に身を委ねた瞬間、私は間違えたことに気づいた。
〈私〉は再び、銀狼の背に乗って疾駆していた。大きな旗を持つ手が重さと寒さに痺れている。振り返ると、〈私〉が通った道には続々と建物から人が出てきていた。ざわめき、不安そうな様子ながら、みんな声を掛け合って【国境】の方へ歩いていく。
――ヴァルターはすごい。
〈私〉の胸には、長年師のように慕ってきた老人への畏敬の念が満ちている。
――ヴァルターへの信頼があの人たちを動かしている。
ヴァルターは人と話をするのが好きだった、〈私〉は悲しくそれを思い返した。エルヴェントラの職務の傍ら、よくいろいろな場所へ行っては、そこに住む人たちと話し込んでいた。僕は人前に出るのは好かんのだ、笑いながらよく言っていた。人前に出るより人の中に紛れていたいんだよ。
その統治の間中、エルヴェントラ向きじゃない、という言葉をいろいろなところで囁かれた人だった。警備隊の力自慢の若者たちからは大っぴらに――商人たちからは苦笑混じりに。自分でもよく言っていた。僕はエルヴェントラには向かん。父が羨ましいとよく思う。僕も父のように、優れた指導者を支える裏方の役をやりたかったよ、と。
でも。
今、そのヴァルターの蒔いてきた種が芽吹こうとしている。
人の中に紛れて、大勢の人と話をして、ヴァルターはこつこつと種を蒔いてきた。エスメラルダに存在する敵は大雪と大風ばかりじゃない。何より大切なのは人々の命と安全だ。何かあったら逃げていい。何があっても、どこへ行っても、あなた方を飢えさせたり凍えさせたりしないよう、準備は整えておく――バカにされたり、軽んじられたりしても諦めず、そう言い続けてきたのだ。
ヴァルターへの信頼が、今あの人たちを動かしている。
やがて広場に出た。正面に、あの巨大な建物がそびえ立っている。
大勢の人たちが不安そうに集まっていた。誰かが彼らに演説をしているようだ。
――〈信者〉だ。
〈私〉の胸に嫌悪がわき起こった。その感情のあまりの強さに私は驚いた。憎悪と呼べるほどの強さだった。
――あの人たちさえ、もう少し聞く耳を持ってくれてさえいれば……
広場にいた人たちが銀狼の背に乗った〈私〉に気づいてどよめきをあげる。〈国境〉へ逃げろ、その言葉を口にしようと息を吸い込んだ、そのとき。
演説をしていた女性が振り返った。
〈私〉はぞっとする。
――サーシャだ。
「人々を扇動して、いったいなにをなさるおつもりですか!」
鋭い叱責の声。
逃げたい。そう思った。〈私〉の心の中には、様々な感情が渦を巻いていた。嫌悪と弱気がない交ぜになって、走って逃げ出したい焦燥を生む。嫌だ。逃げたい。サーシャは苦手だ。大嫌いだ。今までに幾度も突き刺されて来た鋭い言葉の刺が一斉に牙をむく。もうこれ以上この人に関わりたくない、みんな見捨ててこの場から逃げたい、確かにそう思っているのに、〈私〉はその弱い心を踏みにじった。悲鳴を上げる心を。
「マイラ=グウェリン、答えなさい!」
銀狼が低いうなり声を漏らした。〈私〉は銀狼の首をさすり、背から降りようとしたが、銀狼がそれを許さなかった。
「危険が迫っています」
仕方なく銀狼の背に乗ったまま、〈私〉も声を張り上げた。〈信者〉への嫌悪が余りに強くて、吐き気すら感じる。話の通じない相手。心が通わない。同じ人間とは思えない。どうせ聞いてくれない――弱々しい声を、〈私〉はもう一度踏みにじる。
「人魚が〈扉〉を開けようとしています。今すぐこの場から離れなければなりません。人魚の目的は明らかです。騙されてはいけません。人魚はこの世界に破滅を呼び込むつもり――」
「人魚がなぜそんなことをする必要があるのです。人魚は世界を抱く真の女王の愛し子。皆、騙されてはいけません。グウェリンの一族であり、あの〈姫〉の血縁でありながら、エスティエルティナを放棄し続けてきたエスメラルダの裏切り者! 今更国民の為を思うふりをして国民に国を捨てさせて、アナカルシスにでもこの国を明け渡すつもりか!」
あの人にはどうせ通じない。〈私〉は頭を巡らせる。
「みんな、私の話を聞いてください! まずは〈国境〉へ向かって! アナカルシスの軍勢が外にいるかどうかは、その目で確かめてみてください!」
「異端の声です! 聞いてはなりません!」
「あなたの言うとおり、〈扉〉の先に行くことが、女神のみ心にかなうというなら!」
〈私〉の声が、サーシャの声を圧して響いた。
「人魚が開けた〈扉〉の先になにがあるのかを、その目で見てからでも遅くない! そうでしょう!?」
広場の人々がざわめいた。サーシャも一瞬黙り込んだ。一理ある、と思ったのは明らかだった。
「〈国境〉から一度出てください! 人魚が〈扉〉を開けても、〈国境〉の外にいれば安全――」
「女神のみ心を試すようなことが、許されると思うのですか……!」
劣勢に陥ったサーシャが金切り声をあげる。そこへ進み出た人がいた。壮年の、貫禄のある男の人だった。
「エスティエルティナは今どこに?」
まっすぐ〈私〉を見ながら、その人は言った。
「さっき噂を聞いたんです。グウェリン家が焼けた、そのときに、【最後の娘】が命じたと……聞きかじりですが、いっこうにわけが分からなくてね、それでパトリシア様に聞こうと思ってここに来たってわけで。エスティエルティナがついに誰かを選んだんですか? 誰を選んだんです? マイラ様、貴女じゃないんですか」
「それは――」
「【最後の娘】のご命令なら、私らみんな喜んで従いますよ」
言えない。〈私〉は一瞬、そう思った。
エスティエルティナを担ったことがばれたら。
ずっとパトリシアと敵対してきた〈私〉が。
パトリシアの立場がまずいことに。
その逡巡に割り込んだのは、玲瓏な女性の声。
「マイラ……!」
〈私〉はぞっとした。血の気が引くのが自分でもわかった。
サーシャに抱いているのは嫌悪だ。
でも、あの人に抱いているのは。
「マイラ、ここにいたのね……!」
純白の毛皮を翻し、路地から美しい女性が走り出てくる。長い茶色の巻き毛が靡いている。
なんて綺麗な人だろう。
彼女の外見に感嘆を抱きながら、同時に〈私〉は震えていた。銀狼の背に乗ったままでいなければならないのが辛かった。この震えに、あの聡い王子様はきっと気づいているだろう。
〈私〉が彼女に抱いているのは嫌悪じゃない。
恐怖だ。
ずっと、〈私〉は彼女が恐ろしかった。“彼女はあなたを支配下に置きたいだけよ”とあの子は言った。言われてみて初めて気づいた。確かにそうだった。確かにずっと〈私〉はあの人の支配下に置かれていた。あの人が〈本物〉じゃないという事実を知った、その時から。
あの人の笑顔が恐ろしかった。
あの人の優しさが恐ろしかった。
あの人のひたむきさが、健気さが、思いやりが、いたわりが、――恐ろしかった。〈私〉の夢見ていたものと余りにかけ離れた、あの人の〈友情〉のすべてが。
〈私〉に与えられる〈友情〉はこれしかないのだと、思い知らされることが。
「ああ、マイラ、無事でよかった……!」
パトリシアはその美しい瞳に涙を浮かべて〈私〉に駆け寄る。細い冷たい指先が〈私〉の頬に届く寸前に銀狼が動いた。〈私〉を背に乗せたまま彼は身を引いた。パトリシアが傷ついた顔をする。
「……マイラ」
「あ、の。大丈夫です。どうか降ろして」
心の中では銀狼の拒絶に感謝していたのに、〈私〉はそう言った。〈信者〉たちの目の前で銀狼がパトリシアを拒絶するのはまずい。ルファルファの御使いがエルカテルミナを拒絶するなんて。
銀狼は渋々〈私〉を降ろした。だが離れなかった。そのふかふかの毛皮を〈私〉にすり付けるようにしてくれている。〈私〉が降り立つと、パトリシアは気を取り直したように微笑んだ。〈私〉は少し戸惑った。〈信者〉の前で、〈私〉をなじることはないだろうけれど、それにしてもいったいどうしたのだろう。
まだ〈私〉がパトリシアを信じていた頃にしか見たことのない、慈愛に満ちた微笑み。ひたむきな、純粋な、好意。
――これは、なに?
――どうして、今更?
「よかった、無事でよかったわ……本当に」
パトリシアは言って、〈私〉をそっと抱きしめた。反射的に体がこわばってしまったが、パトリシアは気にする様子もない。
「ケガをしたと聞いたわ……それもひどいケガだって。大丈夫、なのよね。そうよね、お母様が、貴女の死を許すはずがないもの」
「パトリシア様! どうなすったんです!? その者から離れて!」
サーシャが叫んでいる。パトリシアはそちらを見て、
冷笑した。
〈私〉は驚いた。最近いつも〈私〉にばかり向けられていた蔑むような微笑みが、サーシャに向けられている。サーシャも愕然とした。
「パトリシア様……!?」
「マイラ、剣を抜いて、命じたんですってね。いったい何があったの? 私に断りもなしに、みんなの前でばらすなんて」
パトリシアが〈私〉に向き直ってそう言った。サーシャは人々をかき分けるようにしてこちらに近づいてきていたが、射抜かれたように足を止める。〈私〉も愕然としていた。何を言っているのかわからない。
「パト――」
「ああ、いいの、いいのよ。貴女のことですもの、きっと抜き差しならない事情があったのでしょ」
パトリシアは労るようにそう言いながら〈私〉の肩を撫でている。パトリシアの言葉によって、否応なしに、先ほどの兄様の形相を思い出す。傷は消えても記憶は消えない。兄様の、あの憎悪の眼差し。
兄様は〈私〉をも殺そうとした。
きっと真実を知ったのだ。
どうして。どこから漏れたのだろう。
無意識のうちに、隠しに入れたエスティエルティナの感触を確かめていた。小さく縮められた剣に取り付けられた革ひもには、確かにまだ姫の結わえ付けた小さな袋がついている。後継者にだけ真実を打ち明けたあの手紙は、どこにも行かずにちゃんとある。
それなのに。
――母さんは死んだ。
蔑むような、唾棄するような声が甦り、〈私〉は動けなくなる。母様は。母様は本当に。様々な呟きが一斉に沸き起こって〈私〉の四肢を縛り付ける。
母様は本当に死んだのだろうか。
殺したのだろうか。……兄様が。
パトリシアと立ちすくんだ〈私〉のそばに、サーシャがたどり着いた。
「パトリシア様……その者から……」
おずおずとサーシャが言いさし、パトリシアははっきりと、見間違えようのない冷笑をもう一度浮かべた。
「その者? 誰のこと」
「そ……」
「控えなさい」冷たい声だった。「この子は【最後の娘】よ。……そう。もうずっと長いこと、【最後の娘】だったのよ」
「な――」
「マイラ、今までごめんなさいね」パトリシアは〈私〉へは、心を蕩かすような優しい声で囁く。「今までずっと、サーシャの暴言を許してきて。本当にごめんなさいね。不快だったでしょう」
「パ、トリシア、様……?」
「マイラの身を守るために、ずっと内緒にしてたの。サーシャ、今までの暴言をこの場で詫びるなら許してあげるわ。あなたは敬虔なルファルファの民ですものね」
「……」
サーシャは動かない。茫然自失の彼女を放ったらかしにして、パトリシアは広場に集まっていた人々を見回した。
「みんな、許して頂戴! 【最後の娘】はもうずっと前に生まれていたの――危険だから秘密にしていただけ――」
低い、低い、地鳴りのような音がどこかで響いている。
その音のおかげで〈私〉は我に返った。
銀狼だ。
彼が、鼻に皺を寄せてかすかに唸っている。
「パトリシア様」
声をかけてきたのは、さっき声をかけてきた壮年の男だ。
「マイラ様が、エスティエルティナに選ばれていたのですか」
「そう」
「もうずっと、前から?」
「そうよ」パトリシアは頷いた。「みんなには秘密にしなければならなかったのよ。マイラを守らなければならなかったから」
「なにから?」
呆然と、男がつぶやく。〈私〉もそう思った。何から?
パトリシアは知っていたのだろうか? 何度も選ばれて、何度も放棄してきたことを、秘密にしていると思っていたのは〈私〉とヴァルターと母様だけで、実はずっと昔にばれていたのだろうか?
パトリシアは平然と微笑んだ。
「察して頂戴な」
そしてちらりとサーシャを見る。軽蔑するような冷たいまなざし。悟ったサーシャがよろめいて喘いだ。パトリシアをずっと慕い、【最初の娘】として崇めてきた敬虔な信徒であるサーシャにとって、この仕打ちは余りに酷だ。頬が青ざめて血の気がない。
男がまた訊ねた。
「でも警備隊長は――」
「ああ」パトリシアはまた冷笑した。「……察して頂戴な。彼にも打ち明けられなかったのよ。ねえ、そうでしょ、マイラ」
パトリシアは〈私〉の手を取ってそっとさすっている。
「二人で秘密を抱えて……もうずいぶん長いわね」
「剣はずっと、泉の中に見えていたのに?」
男がいぶかしそうに呟く。パトリシアは表情を変えない。彼女が見せた動揺は、〈私〉の手をさする指先にかすかに力がこもっただけだ。
でも、それでわかった。
パトリシアは嘘をついている。
悟った瞬間、胃の腑から激しい吐き気がこみ上げた。脳からすうっと血が抜けて、どっと冷や汗が吹き出した。
パトリシアの意図がやっと見えた。
その先に見えた景色に、〈私〉は口元を押さえた。
パトリシアは兄様を切り捨てた。
サーシャを今、切り捨てたように。
【最後の娘】に命じられた兄様。ずっと【最後の娘】をなじってきたサーシャ。パトリシアはみんなの前で、二人を切り捨てることで、自分だけは【最後の娘】の味方だったのだと――今までの諍いはすべて演技だったのだと、示そうとしている。
自分だけ。
――エリックはあたしの味方よ。すぐそれを思い知ることになると思うわ。
パトリシアがそう言った次の日から、兄様は家に帰ってこなくなった。
仕方がないと思ってきた。兄様はパトリシアが好きなのだ。パトリシアも兄様を愛してるのなら、こんなにいいことはない。相思相愛で家柄もつりあうお似合いのふたり。邪魔する理由もなければ、そんな気もなかった。
それなのに。
「偽物を入れておいたのよ」
パトリシアは平然とそう言った。
〈私〉は必死で吐き気をこらえている。私は呆れていた。なんて薄っぺらな嘘。
本当にこんな嘘で、押し通せると思ってるの?
「とにかく、マイラ、今はやるべきことをやりましょう」
パトリシアはひたむきにそう言った。〈私〉の両手を掴んで、真摯に。
「今はどういう状況? 何が起こってるの? みんな〈国境〉の方へ向かってるみたいだけど――」
体が軋んでいる。吐き気と貧血と悪寒にぶるぶる震えている。でも〈私〉は気力を振り絞った。パトリシアの協力があれば、と思い至った。パトリシアの言葉なら〈信者〉もみんな従う。大勢の人を見殺しにしないで済むのだ。
兄様を使い捨てたこの人の手を。
伏し拝んででも利用しなければ。
「みんなを――逃がさなくちゃ」
か細い声がやっと出た。吐き気を何とかやり過ごして〈私〉はパトリシアの手を握り返した。
「人魚が〈扉〉を開けようとしてる」
「ええ」
「人魚の中にも推進派と穏健派がいて、推進派は自棄になってるんだ、って穏健派の人魚が言ってた。〈扉〉を開けようとしてる人魚は、行き先が必ず〈夜〉になる時を待ってるに違いないって。〈扉〉を開けたら必ず破滅を呼び込めるように――」
パトリシアが息をのんだ。サーシャも、さっきの人も、周りのみんなも。
さすがにみんな、〈夜〉の恐ろしさは知っている。姫がみんなに語ったからだ。ざわざわとみんながざわめき出し、〈私〉は声を振り絞る。
「人魚が〈扉〉を開ける前に、エスメラルダの外に出ておいた方がいい。もういつ開くかわからない。みんな急いで外に出て――」
「〈その日〉が」
かすれた声が遮った。サーシャだ。
やせ細ったサーシャは蒼白で、まるで幽鬼のように生気がなかった。先ほどのパトリシアの変節によって、命までが奪われてしまったかのようだ。目は落ちくぼみ、肌はかさついている。震える指先がパトリシアを示した。
「――来ると、おっしゃったではありませんか」
「ええ、言ったわ。でも今日じゃない」
「〈人魚〉の手を借りてでも〈その日〉を迎えることが、ルファルファの御心にかなうことだと――」
「そうは言ってないわ」パトリシアは〈私〉の腕をとり、ぎゅっと抱きついた。「わかったでしょう。私には本物の【最後の娘】が誰だかわかっていたの。〈その日〉がくれば本物がいくらでも開けてくれるってわかっていたのよ。〈人魚〉が危ういって私にはわかってた。人魚との交渉を進めたのは」
サーシャの震える指先を邪険にどけ、パトリシアは右手で彼女を指さし返した。
「あなたよ。――そうでしょ?」
「そ、それは、パトリシア様、貴女の――」
「私は命じてない。あなたは私の話を聞こうともしなかった。人のせいにしないで。こうすることがルファルファの御心に叶うんだって思いこんで突き進んだ。この事態を招いたのはあなたよ」
「そんな――」
「仕方がないわ」パトリシアは声を潜めた。残忍な微笑み。「あなたは私とお母様から隠れて、厨房でひとりでこっそり」
「……っ」
サーシャが後退る。パトリシアは微笑んだ。知っているのよと、彼女が無言で語りかけるのが聞こえた。知っているのよ。あなたが厨房で何をしていたのか。みんなの前でばらされたくなければ、私に楯突くのはやめなさい。
何をしていたのだろうと私は思った。
厨房でサーシャがしていたことは、全ての責任を押し被せても黙らせることができるほどの、悪いことだったのだろうか。
押し黙ったサーシャを一瞥し、パトリシアは再び慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「さあみんな、行きましょう。やっと【二人娘】が揃ったのよ。もう何も心配ないわ。これからずっと」
パトリシアは優しく微笑んで、〈私〉を覗きこんだ。
「これからずうっと、【二人娘】がエスメラルダを導いていく。この子は私の〈剣〉。〈扉〉だってこれからいくらでも開いてくれるわ。〈その日〉がすでに来たのだから――」
――これからずっと。
〈私〉の吐き気は刻一刻と酷くなっていく。母様のいないこの国で。ヴァルターもいない。兄様はもう戻らない。あの子もいない。あの人もいない。欲しいものの何一つない、嘘まみれの冷たく醜悪なこの国に。
――これからずうっと……
鳥肌が立っている。足が既に動かなかった。固かった地面はいつの間にか異臭を放つぬるぬるした沼地に変わり、ずぶずぶと足を飲み込んでいく。これからずうっと。これからずうっと。
頭上に広がっていた青空が褪せていく。
手を伸ばせば触れられそうなところにあるのに。
果てしなく続くすがすがしい空。〈私〉の周りを走っていく三人の子供たち。もう少しで、一緒に、行けるところだったのに。
――仕方がない。
〈私〉は微笑んだ。あれは夢だ。夢は醒めた。エルカテルミナの秘密を知りずっと隠してきた〈私〉が、何もかも捨てて走っていくなんて許されるわけがなかった。責任を取らなければ。
――パトリシアを見捨てるわけにはいかない。
それがグウェリンに生まれ、エスティエルティナに選ばれた者のさだめなのだろう……
(……しっかりして)
私は叱咤した。そうしないではいられなかった。
(さだめなんて誰が決めたの。そうしなきゃならないなんて誰が言ったの! 身分なんてくだらないって言ったじゃない! 全部捨ててしまえばいいじゃない!)
――今捨てたら、パトリシアは。
――みんなの前でパトリシアを拒絶するわけには。
(それは貴女が気に病むことじゃないわ! 貴女が背負うことじゃない!)
――パトリシアが偽物だってばれたら……
(それは私の責任よ! 横取りしないで!!)
「えっ」
〈私〉が声を上げ、パトリシアが驚いたようにこちらを見た。――その時。
『……それは困ります』
涼やかな声が、割り込んだ。
愕然として見ると、〈私〉の体に寄り添うようにしてじっとしていた銀狼が、まっすぐにこちらを見ていた。
リーンベルグ侯爵の頭の上でこちらを見ていたあのときと、同じまなざしで。
『僕は申し訳ないけれどこの国に永住するわけにはいかないので、【最後の娘】にも永住していただくわけにはいきません。その点、ご理解いただきたいのですが』
「は?」
パトリシアが目を丸くしている。パトリシアの腕がゆるんだその隙に、銀狼は〈私〉の膝を鼻で押し、よろけた〈私〉をひょいとその背に乗せた。
『儀式などでどうしても彼女の列席が必要なら、早めにご連絡いただければ間に合うようにお送りしましょう。イェルディアから三日で走った先達の実績もあることですし』
「ちょっと、何言ってるの? あなた、」
『申し遅れました。フェルディナント=ミンスター・アナカルシスと申します。【最後の娘】に求婚するためにこの地にお邪魔いたしました』
平然と語るその顔も姿も、何度見ても銀狼のままで。
私は叫んだ。
(何考えてるの! これじゃもう二度と人間に戻れないじゃないの――!)
「なっ」
マイラが声を上げた瞬間、私ははじき飛ばされた。
「……!!」
戻った瞬間にコンスタンスは頭を抱えた。急な動きに鴉が驚いてばたばた逃げていった。コンスタンスは座り込み、まだマイラとパトリシアとフェルディナントを映している〈水鏡〉を覗いた。フェルディナントはマイラを背に乗せてその場から走り出すところだった。振り落とされないよう首にしがみついたマイラが言っている。
『人間に戻れないってどういうことですか。本当なんですか?』
『あれ』とフェルディナントが言う。『どこからそれを』
『い、今なんかコンスタンスが――じゃなくて! 本当なんですか!?』
『大丈夫ですよ。人魚がかけた魔法です。人魚が何とか解いてくれると思いますから』
『そんな! どうして――』
「あああ……やっぱり無計画だった……」
コンスタンスは両手を頭に当てたまま呻いた。昔からこうなのだ、あの王子様は。
たぶんものすごく苛立っていたのだろう、とコンスタンスは想像する。コンスタンスも苛立っていた――いくらなんでもあのお姫様はひどい。旗色が悪くなったら今までの味方を全部切り捨てて自分だけ保身に走るなんて。マイラが拒絶しないことをいいことに、今までの諍いをすべてなかったことにして絡めとろうとするなんて。おまけに自分の嘘の稚拙さに全く気づいていないらしいところが余計に無惨だ。――だから、放っておきたくなかったのだろう。あのままでは、マイラはこの先ずっと、あの人の嘘の片棒を担がされ、尻拭いをさせられ続けることになりそうだったから。
でも、だからといって。
『大丈夫ですよ。この体、結構気に入ってるんです』
〈水鏡〉が揺らいで消える寸前、あの王子様がのほほんと言うのが聞こえた。コンスタンスはもう一度、あああ、とため息をついた。本気で、戻れなくても構わない、と思っていそうで恐ろしい。




