〈水鏡〉
いつの間にか、銀狼の背の上にいた。路上に続々と集まってくる人たちの横をすり抜けて走りながら、〈私〉は声を上げる。
「みんな、〈国境〉に集まってください! 周りの人にも伝えて! 〈国境〉に集まって――」
長い髪が靡いている。その髪は黒かった。
右手に大きな旗を持っていた。その旗の色は、鮮烈な、赤だ。
「〈国境〉に集まってください! 事情は〈国境〉でお話します! 〈国境〉に――」
喉がひりひりと痛んでいる。傷の痛みは既にないが、血にまみれて乾いた衣類が匂い立っているような気がする。周囲の建物から続々と人が出てきて、こちらに不安げな視線を向けてくる。声をかけたそうな素振りを見せる人も多いが、銀狼は足を止めない。
「〈国境〉に向かってください! 事情を知る人がそちらにいます! 店を閉めて――歩けない人がいたら手を貸して、みんな〈国境〉へ――」
気をつけて、と、〈私〉は思った。どうか死なないで。どうか。
マイラが驚いたように顔を上げた、その瞬間、〈水鏡〉が揺らいで、コンスタンスは我に返った。
そこは元どおり、あの隠れ家のような小さな空間だった。鴉は先ほどのまま、うっとりとコンスタンスの腕の中でまどろんでいる。
「今のは……」
不思議だったが、でも、考えている暇はない。コンスタンスはゆらゆらと揺れる〈水鏡〉を覗き込み、誰を見るのが一番なのだろうかと考えた。マイラとフェルディナントは人々を〈国境〉に集めようとしている。〈兄〉も恐らくは、同じことをしているか、〈国境〉で集まってきた人々に事情を説明し、外に出すという役割を担っているかだろう。素直に外に出てくれる人だけならいいが、エスメラルダにいるややこしそうな人たちは――
「……そうだわ」
コンスタンスは〈水鏡〉に意識を集中し、目を閉じた。体に戻ったお陰か、ついこないだのこともだいぶ思い出せてきている。マイラと初めて――ではない、二度目に出会ったあの日。アリエディアの迎賓館で、コンスタンスはパトリシアにも会っている。
あの人さえマイラの味方をしてくれれば。
〈信者〉たちに、外に出ろ、と一言言ってくれれば。
――あたしをのけ者にできなくてお生憎様ね。
冷たい言葉を投げた、あの美しい令嬢。あの人の方が、よっぽどエルカテルミナにふさわしく思えるのに――
〈水鏡〉が揺らいだ。そして。
〈私〉は、暗闇の中で目を開けた。
――嫌だ。嫌だ。
――逃げたい。逃げたい。
繰り返しつぶやく自分の声が、〈私〉にのし掛かる。なんて重いのだろう。四肢が、肩が、首が、背が、悲鳴を上げたいほど重い。身動きするだけで骨が拉ぐ。重圧にこすれた背中の皮膚が裂けて血が滲んでいる。
――投げ出してしまいたい。全部捨ててしまいたい。
――捨てられない。捨てられたくない。
――誰か助けて。誰も助けてくれない。
心の奥底でしくしく泣いている〈私〉の声は、まるで幼子みたいな響きだ。重いよう。嫌だよう。逃げたいよう。素直に訴える小さな声。
そんなに重いなら、捨ててしまっていいのよ。
幼い子供の泣き声を聞いているのが辛くて、〈私〉はそう囁かずにはいられなかった。けれどその〈思い〉に応じて湧き上がった反論の声は、ぎょっとするほど激しかった。
――捨てられるわけない!
――捨てていいわけない!
――千年以上も奉られてきたのに、そんなに簡単に捨てていいわけない……!
「パトリシア様、つれてきました!」
出し抜けに扉が開いて、〈私〉ははっとする。そこは住み慣れた〈私〉の家の、こぢんまりした居間だ。〈私〉は肘掛けいすに座っていた。周囲には誰もいなかったが、扉を開けてずかずか入って来たのは顔見知りの若者だ。
――無礼だ。
反射的に怒りが湧いた。今までずっと感じてきた怒り。
――ここは私の家だ。エルカテルミナの家だ。
――こんな不作法な男たちが、ノックもなしに土足で我が物顔にのしのし歩き回っていい場所じゃない。
でも、ほとんど同時に、焦りに似た感情が湧き上がる。今までもずっと繰り返されてきた内心の会話。
――そんなことで目くじら立てちゃいけない。
――私は唯一無二のエルカテルミナだ。正真正銘のお姫様はかえって身分に鷹揚なものだ。
――懐の深いところを見せておかないと、
――エルカテルミナらしくないって言われちゃう。
「隊長がどうなったのか――グウェリン家の消火に当たった隊員のひとりです」
若者はもう一人の若者を連れてきていた。〈私〉はつれられてきた若者を見て、眉をひそめた。その若者は、明らかに逃げ腰、というか、嫌なのに無理矢理引きずってこられた、という様子だった。こちらを見る目にもかすかな反感が見える。
当然あってしかるべき、エルカテルミナへの崇拝のまなざしがどこにもない。
「おい、ほら、話してくれよ。グウェリン家が火事になったのはなぜか――隊長はどうしたんだ。無事なのか」
つれてきた方の若者がせっつき、つれてこられた方の若者は迷うように目を伏せる。〈私〉は肘掛けいすから立ち上がった。真っ先に口から出そうになったのは、
――マイラはどうなったの! 生きてるの!?
強い、強い、憎悪と歓喜を必死で押さえつける。でも期待と欲望はむくむくと胸の中で蠢いている。グウェリン家が火事になった。そうだ、天罰が下ったのだ。ルファルファがその雷の指先で、相応の罰を下したに違いない。
マイラの不幸を望み、それがただの欲望ではなく現実になったのだと確信したい。
若者から情報を聞き出そうとする〈私〉は、ぞくぞくするほどの期待に胸を高鳴らせている。
でも、先ほどと同じ声がそれを戒める。この二人は警備隊の一員だ。自分たちの隊長の安否を真っ先に訊ねられた方が、きっと、〈私〉のエリックへの愛情の深さと優しい心根に感服するはずよ。
「……エリックはどこにいるの。無事でいるの?」
そう訊ねた〈私〉の声は、我ながら完璧なほど、不安と焦燥を滲ませている。
「隊長は……」
つれられてきた方の若者は、困ったように目を伏せる。〈私〉は眉をひそめた。この若者は、〈私〉のエリックへの思いの強さに、感銘を受けた様子がない。
ややして。
若者はきっと顔を上げた。〈私〉への反感の目。抗議のまなざし。
「エスティエルティナがマイラ=グウェリンを――マイラ様を選んだんです!」
つれてきた方の若者が驚いたように身を引いた。
〈私〉は愕然としていた。
そんなことが聞きたいんじゃないわ。
心のどこかでそう思う。
「隊長は――エリック=グウェリンはっ、【最後の娘】の命令に背いた! それどころか、マイラ様を殺そうと――あいつはもう隊長じゃない! 【最後の娘】の命に背いた極悪人だ! ルファルファの白い腕の中から出ていったんだ! 自分で!」
「……そんな……!」
若者が何を言っているのか、理解が進むと同時に、強い怒りが胸の奥底から噴き出した。
エリック=グウェリンに対して、今までずっと、ずっと、抱き続けてきた怒りと憎しみ。
――役立たず。
〈私〉は確かにそう思った。
――せっかくエルカテルミナの庇護者の役割を与えてやったのに。
――何度期待を裏切れば気が済むのか。
築き上げた仮面の裏で、〈私〉はめまぐるしく頭を働かせる。エリックが【最後の娘】の命令に背いた――愚かにも大勢の人間の前で。つまりエリックはもうおしまいだ。あの男と心中なんてとんでもない。マイラがエスティエルティナに。マイラが命じた。エリックが背いた。
「……エスティエルティナがマイラを選んだ。あなたはそれを確かに見たのね?」
思わせぶりな言い方にしておく。言いながら、頭の中で、最善の道を探り続ける。
〈私〉はエルカテルミナだ。
エスティエルティナと反目し合っている事実は都合が悪い。
案の定、若者は瞬きをする。「は……い」既に知っていたのか、と、思わせることに成功したらしい。
そう、〈私〉は知っていたのだ。
だってあの子は、〈私〉の剣なのだから。
「他にも大勢の人がいたのでしょうね。よっぽどのことがあったんだわ。命じるなんて――それにあの子が自分からそれを見せるなんて。ねえ、教えて。いったい何があったの? 危ないから秘密にしておくって……」
言いかけて〈私〉は効果的に言葉を切り、
「……みんなを騙すつもりはなかったのよ。でも」
「ご存じだったんですか……?」
「ごめんなさい」〈私〉は頭を下げて見せた。「言ったらあの子が危ないと思って……」
「そ、そうだったんですか。ええ、あの。グウェリン家が燃えた理由はわかりません。俺たちは隊長……エリック=グウェリンの召集を受けて集合しました。〈窓〉を盗んでいたのはグウェリン家の当主とその道場の者たちだったと。全員逮捕して取り調べるからと……でも俺が行った時には既に家が燃えていて、門弟たちと小競り合いみたいになってて、たいちょ、エリックは、もう何人か切り殺したみたいな風体になってた。……そこへマイラ、様が、来ました。母様の安否を気になさって、中に駆け込もうとしたので隊員が止めて」
――止めないでくれればよかった。
反射的にそう思った。
――焼け死ねば良かったのに。
〈私〉の抱くマイラへの憎しみの深さに、私はぞっとする。
「エリックが来て、マイラ様に何か言って。そのまま、切りかかったんです」
「マイラに……?」
〈私〉はいぶかしんでいた。なぜだろう。
エリックは妹に甘い男だ。〈私〉が長い時間をかけて何度も何度もマイラへの反感を植え付けたのに、本当に効きが悪かった。
「それで、マイラは?」
「カイ=ロビンソンが助けました。エリックがカイを捕らえろと叫んだ時、マイラ様がエスティエルティナを掲げて命じたんです。正式な命でした。宝剣を見よ、私の声が聞こえるか、と……なのにエリックは無視して」
若者は堰を切ったようにどんどん話した。どこからともなく弓が――警備隊の放ったものじゃない――飛んできたこと。不思議な鴉が叫んだこと。鴉を守ろうとしたマイラの首もとに次の矢が刺さったこと。エリックがその矢を引き抜いた。殺意があったことは明らかだった。
――何があったんだろう。
〈私〉は頭を働かせる。いったい何があったのか。あんなにマイラを憎ませようとしたのに効きが悪かったエリック。殴ったのも一回だけ、それも平手だった。妹に甘くてどんなにそそのかしても生ぬるいことしかできなかったエリックが、殺意を向けるほどの何かが起こった。
――それは、何?
「そこへ銀狼が来たんです。マイラ様を背に乗せてどこかへ運んでいきました。鴉も一緒に行った。その後、若い男が現れた。ユーリ=ロビンソンと名乗った」
――ユーリ?
内心、首を傾げる。ロビンソンには息子がひとりしかいないはずだ。いったい誰だろう。
「ユーリ=ロビンソンはエリックを倒した」
〈私〉は愕いた。頭が一瞬止まるほどの衝撃だった。
あのエリックが誰かに剣で負けるだなんて。
「毒を盛った、と言ってました。なんか、アナカルシスの、由緒正しい毒、みたいなことを。そしたらそこに、人魚が来て……エリックを殺すわけにはいかない、とか言って、そのまま連れていきました」
じゃあ、きっと、死んではいないのだ。
考えて、〈私〉は、落胆した。
エリックは人魚が助けた。頭に止めておかなければ。
背が軋んでいる。重圧に悲鳴を上げている。身動きするだけで皮膚が拉いで裂けて血が溢れている。嫌だよう、泣き声をあげる子供の声を、〈私〉は押し込める。
「……マイラはどうしたのかしら。大丈夫かしら」
「わかりません」
若者は首を振る。〈私〉は頷き、立ち上がった。
「知らせてくれてありがとう。私、行くわ」
「どこに行かれるのですか」
訊ねた若者の瞳には、〈私〉への崇拝の念が戻っている。それにほっとして、〈私〉は微笑んだ。
「私は【最初の娘】ですもの。戦いに出向いた【最後の娘】の安否がわからないとき、泉を見に行くのは私の役目よ」
「ああ……」
「心配しないで。マイラはきっと大丈夫よ」
部屋を出ようとすると、ずっと黙っていた、連れてきた方の若者が声を上げた。
「隊長は」
〈私〉は足を止め、彼を見た。
彼の目に、〈私〉への反感が宿っている。
きっとエリックへの同情のためだろう。彼はいい指導者だった、みんなに慕われていた、それを〈私〉はよく知っている。ずっと〈私〉の庇護者をつとめてきたエリック。マイラが既に【最後の娘】になっていること、〈私〉もそれを知っていたのに、エリックに黙っていたことは、そう、エリックを崇拝している若者にとっては、悔しいことだろう。
〈私〉は微笑んだ。悲しげに。
「言いにくいことだけど……よく考えてみて。ここは私の家なのよ。そうでしょう?」
唐突な話に毒気を抜かれた若者が、はあ、と気の抜けた声を上げた。
〈私〉はすかさず彼を睨みつけた。
「なのにどうしてあなた、今まで好き勝手にこの居間で、我が物顔に振る舞ってきたの? 私、あなたにまでここでくつろいでいいなんて許した覚えはないんだけど」
「……え?」
「……エリックが許したのよね。そうでしょう? でも本来なら、エリックにそんな権利はない。なのに彼があなたがたまでこの家に連れ込めたのはどうしてかしら?」
「は……」
「本来、この家はあなた方が主の許可も取らずに当然のようにたまり場にしていいような場所じゃないの、エスメラルダに住んでいるくせに、そんなことにも思い至らなかった?」
「あ……」
しまった、若者がそう思ったのがわかった。バカね、と、〈私〉は心の中で嘲笑した。目の前にいる相手が誰なのか、やっと思い出したらしい。
「私がエリックにそう振る舞うように許してきたの。……その理由をもう少し、考えてみたらいいのじゃなくて」
言い捨てて、扉を出た。背の重圧は消えないが、少し溜飲が下がった。そうだ、と〈私〉は思った。本来ここはエルカテルミナの家なのだから、もっと尊重されてしかるべきだったのだ。エリックは粗野で乱暴な男。その男を〈私〉は今まで、〈寵愛〉してきた。
マイラをエリックから守るためだ。
そう、そのためだったのだ。
【最後の娘】を迎えにいこう、そう思いながら毛皮を羽織って町へ出た。〈神殿〉に行って、泉をのぞいて、それから――
「……っ!」
コンスタンスは飛びのいた。心臓がどくどく波打っている。
正面の揺らめく水面には、まだパトリシアが映っている。コンスタンスは胸を押さえ、心を落ち着かせようとした。何だろう、今の――。頭が混乱して、うまく考えられない。
何だろう、今の。
何なんだろう、あの人。
――嘘ばっかりじゃないか。
自然に眉間に皺が寄る。今思いついたばかりの嘘を、ほんの数瞬で自分でも信じ込んでいた。もっともらしい嘘。でも、とても薄っぺらな嘘を。
胸が痛む。
あの人はきっと、そうやって自分を守ってきた。
あの人が嘘で自分を守らなければならないのは、コンスタンスのせいなのだ。
いったいどうしてなのかと、考えずにはいられない。〈本物〉を隠したせいで、いろいろなところに歪みが生まれた。〈偽物〉の役目を負わされたパトリシアをあんなに苦しめて。兄が妹を切り殺そうとするような事態を引き起こして、あの優しいお母様の安否もわからないような状況になって、そうまでして守らなければならないような命なのだろうか。
ひとつついた嘘を守るために、もうひとつの嘘をついて。嘘を続けて、どんどん重くなって、すべてのことが裏目にでて、悪い方へ悪い方へと進んでいかなければならないなんて。
「そんな嘘をついても……すぐにばれてしまうのに」
コンスタンスは悲しかった。今までマイラに冷たく当たってきたことを、『本物』の【最後の娘】を虐げてきたことを、なかったことにはできないのに。だってカイはちゃんと知ってた。
あの朗らかな少年の消失に、コンスタンスは身を震わせた。あんな優しくて朗らかな子供も、死んでしまった――
エリック=グウェリンはきっと、パトリシアが偽物だと言うことを知ったのだ。
だからマイラを殺そうとした。マイラもその秘密を知っていると悟ったから。秘密を知る人間をすべて殺せば、隠しおおせると思ったのか。
――気の毒に。
ずきずきと胸が痛んでいる。パトリシアはエリックに対し、あのとき確かに、憎悪を覚えた。役立たず。せっかくエルカテルミナの庇護者の役割を与えてやったのに、何度期待を裏切れば気が済むのか――
傲慢で残忍な、見下すような心。
――せめてもの餞に。
――姫はランバートに、“シャトー”を贈った。
フェルディナントが言っていた言葉を、今思い出したのはなぜだろう。
コンスタンスは一瞬疑問に思ったが、今はそれは後回しにすべきだと、再び〈水鏡〉に向き直った。パトリシアは雪深い町を足早に歩いている。大通りはごった返していて、それを避けるように路地裏を歩いている。雪かきされていない路地裏にはこんもりと雪が積もり、誰かがたどった獣道のような細い隙間を縫っていく。豪奢な毛皮が雪をこする。まるで城を追われて逃げていく王女のよう。
少しだけ、気後れがした。〈水鏡〉の力に自分を委ねるのが恐ろしい。嘘にまみれたパトリシアの、憎しみと怒りの心に囚われるのが恐ろしい。
でも。
――誰も自分の運命を選ぶことはできぬ。
ティティの言葉を思い出し、コンスタンスは居住まいを正した。
――望んだことではなかったけれど。
――パトリシアの境遇は、私の責任だ。
コンスタンスは覚悟を決めて、また〈水鏡〉に触れた。




