表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海の女王と陸の花  作者: 天谷あきの


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

34/43

グウェリンの責務

『マイラ……!』

「……人魚の方。貴女の、み手に、感謝します。治療を施してくださり、……ありがとうございました」


 まだひどく疲れきった様子ではあったが、マイラはきちんと礼をした。なになに、とティティさんが言う。


「危ういところじゃったが何とか間に合った。鴉と銀狼に礼を言うのじゃな」

「はい……。ありがとう、コンスタンス。それから獣の王」

『マイラ、マイラ、マイラ!』


 私は必死で泳いでそちらへいき、マイラの胸にすがりついた。


『ああ良かった、生きてて……生きてて良かったわ……!』

「コンスタンス。……ありがとう」

『私のために大けがをさせたわ。お礼を言うのはこちらの方よ。助けてくださってありがとう。……なのにカイが』


 私は翼で胸を押さえた。マイラの腕の中で見た、見開いたカイの瞳を思い出す。その後ろにいた、無慈悲な、まるで悪魔のような形相の、エリックの顔も。


「ごめんね……コンスタンス……」


 マイラは毛皮を脱いでいて、手袋もしていないから、翼を撫でるマイラの手のひらから、悲痛なその心が直接伝わってくる。悲しみと混乱と決意と。絶望と安堵と。

 希望。


 ――何もかも失ったわけじゃない。

 ――この人が生きていてくれた。


 余りに強い、純粋な好意に胸が詰まる。

 私は急いで、マイラの手から離れた。マイラが悲しそうな顔をして、私は慌てる。


『ち、違うの……私今、ほら、鴉でしょう? 魂が少し体からはみ出しているそうで、貴女の手に触れていると、心が直接私の中に流れ込んできてしまうの。覗き見をしたくないの、ただそれだけなのよ』

「ふうん……」


 マイラは不思議そうな顔をしたが、それ以上は何もいわず、銀狼と人魚に視線を戻した。

 そしてその先にある『私』の体に。


「海の女王、陸の王。あなた方のお慈悲に感謝します。コンスタンスを助けてくださって……イェルディアに送ってくださるというお話も、本当にありがたく思います。

 でも私を、その契約から除いて欲しい」


「ふむ。ではどうする」


「エスメラルダに戻らなければなりません」

『お母様が……』


 心配なのだ。私はそう思った。

 でも、どうだろう、と思わずにはいられなかった。胸が痛い。エリックのあの形相。マイラをも殺そうとしたあの悪魔のような男が、マイラが来る前に家に火をつけたのはなぜだろう。伯父様もシェイラも、お母様も。みんな既にこの世にいないのではないだろうか、そういう気がしてならない。


 ティティさんは少し考えた。


「〈水鏡〉で見てみるか。貴女の母がどうしておるか」

「いえ」マイラは一瞬、歯を食いしばった。「母のことは後で……後回しでいいんです」

「さようか」

「今は見るわけにはいかないんです。……動けなくなるから」


 あの人がもういないだろうということを、マイラもわかっているのだ、と私は思った。

 でもまだ覚悟ができない。それもよくわかった。

 その事実を思い知らされたら。そうしたら。

 お母様の、あの美しい優しいお母様の喪失が、決まってしまうから。




 母は死んだ。優しかったあの人。厳しかったのは〈兄〉への恋慕を諦めろと言うときだけ。理不尽な扱いを受けたのも、その時だけだった。


 ――お前は坊っちゃまに嫁げる身分ではないのです。

 ――私の可愛い、可愛い可愛いコンスタンス。


 私を否定する言葉と、私を肯定する言葉。双方を繰り返しかけられて、私は知らず、縮こまるようになった。混乱して。どう振る舞えば肯定してもらえるのか、怒りに触れずにいられるのかわからず、お母様のことが恐ろしくなった。ずっと父親だと信じていた人が赤の他人だったと教えられ、足元が崩れるような気がした。可愛がってくれた小間使いや侍女は全て暇を出された。〈お父様〉も私を避けた。


 今まで当然のように持っていたもの全てが自分に相応しくないものだったと思い知らされ、私は、これまでよりどころにしてきたもの全てを信じられなくなった。


 心の有り様を持ち直すまでの何ヶ月かの記憶が、私にはほとんどない。〈兄〉が高熱を出して一命を取り留めた、その直後から記憶の断絶が始まって――次に我に返ったとき、私は自分を守る鎧を作り上げていた。自分の希望を押し殺して。独り立ちすることばかり考えていた。母の逆鱗を避けるため、〈兄〉を避けるようになった。必然的に、〈もうひとりの兄〉も――フェルディナントをも、避けるようになったのだ。


 ――貴女は最近、僕たちを避けようと必死だったから。

 ――周囲の抑圧も全て忘れたと言うところは歓迎だ。


 そうだ。思い出した。


 母は亡くなった。母の最期の言葉は、『許して』だった。


 あれから三ヶ月。ずっと考えていた。


 母は何を『許して』欲しかったのだろう。




 一瞬の夢想の間に、マイラの声が先を紡いでいた。


「私は……この状態のエスメラルダを放って、いくわけにはいかないんです。この事態を招いた責任は私にもあるから」


「責任とな」

「ええ。この……」


 言いながらマイラは首元に手をやった。ティティさんは慌てたように声を上げる。


「出すな。出さんでも話は分かる」


 マイラが何を出そうとしたのか、ティティさんがなぜ慌てたようにそれを止めたのか、私にはわからなかったが、どのみちマイラはそれを出せなかった。彼女の指先は空振りしたのだ。マイラは首元をひとしきり探り、はっとしたように身を起こした。ティティさんが少し不安げに訊ねる。


「いかがした」

「え、いえ、あの。……私、あの……剣を、持っていませんでしたか」

「持っておらぬのか」


 ティティさんは確かめるように言う。その頬が青い。マイラは困ったように周囲を見回し、フェルディナントを、そして私を見た。察した私は必死で記憶を探っていた。そうだ、マイラは、矢に撃たれる前にあの宝剣を抜き、エリックに命じていた。その後――


 その後。


『どう……したんだったかしら……』


 ぽん、と、フェルディナントの尾が私に触れる。


 ――さっきはそれどころじゃなかったから……たぶんあそこに置いてきたと思う。


『そ、そうよね。大変だわ、無くしでもしたら……とても価値のあるものなのでしょうに』

「……愚か者ども!」


 ティティさんが出し抜けに叫んだ。その美しい顔から血の気が失せていて、宝剣を無くした事態の深刻さを窺わせる。私とフェルディナントは叱責に身を縮めた。


 でもティティさんの叱責は、予想とは少し違った。


「今持っておらぬのか! それでは持ち主が意識を取り戻して剣の行方を気にした今、まさに、ここに飛んできているところではないか!!」

『飛んで』

「あっ」


 マイラが声を上げ、私たちはそちらを見た。どこからともなく水流がわき起こり、ティティさんが悲鳴を上げる。


「覚えておれ……!」

『ティティさん!?』


 水流の中から美しい一振りの宝剣が飛び出し、マイラの手の中に飛び込んだ。ティティさんは、と見れば、唯一の遮蔽物である〈私〉の後ろに身を隠していた。大きな優美な体を縮こまらせて、ティティさんは叫ぶ。


「早く縮めるのじゃ! 儂に何ぞ恨みでもあるのかー!」

「え、いえ、そんな、はいっ」


 マイラが急いで剣を縮める。小指ほどの大きさになったその柄には、古びた革紐がついている。マイラはそれを首にかけ、胸元に剣をしまい込んだ。両手で胸元の布ごと握り込んだとき、ようやくティティさんが〈私〉の後ろから顔を出す。


 その顔が、ひきつっている。


「……もう出すでないぞ。よいか」


「は、はい。申し訳ありません、その、……存じませんで……」


「秘中の秘じゃぞ、知られていてたまるか。じゃがその剣、なんでよりによって……嫌がらせにしか思えぬ……まずもって眩しすぎるのじゃ、そしてな、炎を宿して使うためのもの故儂らには存在自体がうるさすぎるのじゃ。迂闊であった。肌身はなさず身につけておるものと思いこんでおった。もう出すな。よいな」

「出しません」


 マイラが請け合って、ティティさんはようやく、〈私〉の体の後ろから出てきた。顔をこすって、苦笑する。


「儂も初めて見た故少々取り乱した。責務を果たすために必要な鍵じゃというのに、なぜああもけたたましいのか……まことに儂等に対する嫌がらせにしか思えぬ」


 何がけたたましいのか、私にはちっとも聞こえなかった。けれど、ティティさんにとっても、小さく縮めてしまい込まれた今は無害であるらしい。長々と息を付いて、ティティさんは照れたように笑った。


「相すまぬ、見苦しいところを見せた。とにかくこれは他言無用じゃぞ。よいな」


 念を押され、私たちはおのおの頷いた。

 ティティさんはこほん、と咳払いをする。


「ともあれ、話を戻す。危険を知っていながら、なぜ敢えてエスメラルダに戻らねばならぬ」


 そう問われた瞬間に、マイラの顔が沈んだ。

 この人は内面が顔に出やすい人なのだと、私は考えた。それは、幼い頃、箱庭の中で育ったせいなのかもしれない。


 その表情を見て、ティティさんは促すように言う。


「よほどの事情があるのじゃな」

「ええ。私は……やらなければならないことがあるんです。ウェルダと呼ばれる人魚をご存じでしょうか」

「……もちろん知っておる。儂の姐様じゃ」


 マイラの瞳を見て、ティティは、わかった、と言った。


「その名を出されては儂に貴女の行く手を阻むことはできぬ」

「エスメラルダへ送っていただけますか」

「もちろんじゃ。じゃが、も少し待て。まだ血が戻っておらぬ」


「でも……」


『どうして?』と私は口を出した。『どうして戻らなければならないの。お母様のことじゃないのなら……交渉は決裂したのよ。貴女のお兄様を悪し様に言いたくはないけれど、でも……話が通じる相手だとは思えない。危険すぎるわ!』


「コンスタンスはイェルディアに行って」

『嫌よ! 貴女が行かないなら私も行かない!』


「魚の王」マイラの声は固かった。「コンスタンスをお願いします。私に差し出せるものは何もありません……命はありますけれど、女の命など人魚の方には不要でしょうし」

「貴女から対価を取ろうとは思わぬ。言われずともわかっておる。コンスタンスは儂が預かる」


「ありがとう……」


『勝手に決めないで! いったいどうして!? 今更何をしなければならないというの!? お母様はっ』


 卑怯だ。そう思いながらも、言わずにはいられなかった。


『貴女に自分の望むとおりにして欲しいとおっしゃったわ……!』


 涙が出るほど羨ましかった。私が母から、一番欲しかった言葉だった。

 マイラの、お母様の喪失を、その悲痛な心をわかっていながら、それでも羨ましいと思ってしまう自分が、悲しかった。


『エスメラルダもグウェリンも捨てていいから、自分の心の望むとおりにして欲しいって! 伝えて欲しいって言ったの、明け方に、エクストラニクス男爵のところで、私にそう言ったのよ!』


 マイラがまた、口を引き結んだ。たぶん口から飛び出しかけた何かの言葉を引き留めるために。

 それから、かすれた声が別のことを言った。


「……ヴァルターが死んだ時点で、それができなくなったんだ」

『どうしてよ!!』


「エクストラニクス男爵には友達がいるんだ。東の方にある大きな木。リーンベルグ侯爵という名前なの。二人はたまにおしゃべりとかしながらエスメラルダを見守ってる、二対の木なの」


 いきなり話が飛んで、私は戸惑った。『そう、なの』


「うん。七歳の頃、いつものようにエクストラニクス男爵の頭の上に乗せてもらっていたら……リーンベルク侯爵の頭の上に男の子がいるのに気づいた。結構離れてるから顔はよくわからなかったけど、同じくらいの年頃だった。その人があたしに気づいて、手を振ってくれた。すごく嬉しかったんだ」


『そう……』


「木の上から見てると、本当に楽しそうだった。茶色の髪の参謀がいて、お姫様みたいな女の子も、いつも一緒で。エスメラルダ中の子供たちと、あっと言う間に仲良くなって……。そのうち母様から、アナカルシスの王子様だと聞いた。王様に命を狙われて、エスメラルダに避難してるんだってことも聞いた。信じられないと思った。そんな身の上なのに、何であんなに楽しそうなんだろうって。

 そのうち、王子様には未来のお嫁さんが必要なんだと言うこともわかった。【最後の娘】(エスティエルティナ)が結婚するって約束したら、王子様はエスメラルダに閉じこもらなくても生きていける。あのときあたしは素直だった。あたしがそうなりたいと思った。王子様の弱みにつけ込んででも……仲間に入れて欲しかった」


『今はダメだって言うの』

「夢だったんだ。夢はいつか醒める。そういうものでしょう」


『それは夢じゃないわ。近い将来の現実というのよ』

「貴女は……いつも変わらないね。記憶があってもなくても……小さい頃も、今も。同じことを言う」


 ぽん。

 銀狼の尻尾が私に触れる。


 ――彼女に僕の正体を伝えて。


 銀狼はそう言い、私は彼に向き直った。


『いいの?』


 ――うん。それにもう、わかっていそうな気がする。


『この方が……貴女に名乗りたいと言ってるわ。この方は本当は人間なの。私と同じ人魚に、銀狼に変えられたの。名前は』

「フェルディナント=ミンスター・アナカルシス王弟殿下」


 マイラは私よりも王子様の正体に詳しかったらしい。

 彼女は泣き出しそうな顔で、銀狼に微笑みかけた。


「そうじゃないかな、と思っていました」


 ――貴女と僕の利害が、長年一致していたということを知り、嬉しく思います。そう伝えて。


 フェルディナントはそう言い、私はマイラにそれを伝えた。マイラは、そうですか、と言った。


「寛大なお言葉に感謝します……軽蔑されるのではないかと思っていました」

『そんなはずがないでしょう』私はただの通訳に徹することにした。『僕はこの十二年間、とても楽しく生きてきました。この楽しい年月があったのは貴女の存在のお陰です』


「……そうですか」


『ただ心苦しかった。貴女が僕のために犠牲になるのだと思いながら、その犠牲によってただ生かされている自分がふがいなくもあった。貴女に対し、感謝と同時に、逆恨みに似た意識さえ抱いていました。だから今は嬉しい。そして今も、貴女と僕の利害は一致していると思います』


「……そう、で、しょうか……」


『それを確かめるために、貴女の『目的』を、教えていただけませんか』


「それは……できません」


『僕を巻き込みたくないと言う理由なら、そんな配慮は不要です。僕は今銀狼です。銀狼を殺せる存在はそうはいないと思います』


「……」


『そもそも貴女には、僕の命を放り出した理由を説明する義務があると思いますが』

「そ、それは。ユリウス=シャトーが、あなたの命は守ると……」


『命は守られましたが、見てのとおり、大変な辛酸を舐めました』

「それって私のせいでしょうか」


『だから、理由を説明するだけで許してあげます、と申し上げています』


 通訳しながら私は笑い出しそうになるのを必死で堪えた。マイラはまじまじと銀狼を見つめ、ティティに視線を移す。


「……そろそろ血も戻ったと思うのですが」

「まだ、も少しかかるな。それに儂も聞きたい。姐様に関わることじゃもの。話しやれ」


 ティティは水の中に寝そべるような体勢でのんびりと言い、マイラはフェルディナントに視線を戻した。

 そしてため息をついた。


「あなたに嫁ぐだけでは、あなたの存在を守れなくなる。そんな事態になったんです。ご理解いただけませんか。もう誰にも、……死んで欲しくないんです」


『それは僕も同様です。『誰にも』の中に、ご自分も入れて欲しいものです』

「……」


『貴女は『大切な理由がある』と言いますが、説明がない今の段階では、僕たちは、貴女に本当に正当な理由があるのか、それとも自棄になっているだけなのか、判断できかねるんです』


 マイラがぽかんとする。


「なっ」

『自棄になっているのなら何とか止めたいと思うのは人情でしょう。話さないなら勝手についていくまでです。銀狼を振り切るのは、人魚にも難しいのではないかと思いますが』

「……」


 マイラは長々と銀狼を睨む。でもフェルディナントは平気でその視線を受け流す。

 ややして根負けしたというように、渋々、マイラは話し出した。


「そもそもは……私の曾祖父の話です。アルガス=グウェリンという名の……流れ者でありながら、エスティエルティナの夫となった人」


 ――とても有名な剣豪だ。


 フェルディナントが知識を私に伝えてくれた。


 ――世界中にその名が轟くほどのね。英傑王の即位を助けた“姫”――エスティエルティナ=ラ・マイ=エスメラルダが、生きてその仕事を全うできたのは、かなりの割で彼の功績だ。


「彼は……エスティエルティナの夫となり、そのうち、エスメラルダの警備隊長となりました。若者に剣を教え、組織を整え、治安の維持と魔物の撃退に、多大な貢献をしたんです。……でも、彼は、もともと流れ者でしたし……とても苛烈な性格の持ち主でもありました。何というか……人間らしく振る舞うことを知ってる、獣のような人だったんです。普段は人間のしきたりを守っている。でも、いざ大切な存在が傷つけられたときには……そのしきたりすべてをかなぐり捨ててしまう、ような、一面を持っていたんです。

 彼の大切な存在は、妻と娘。その二人が、エスメラルダの住民たちによって、傷つけられた事件がありました」


 ――五人もの襲撃者が、彼の留守に、妻と二歳の子供を殺しかけた。ほとんど死ぬところだった。彼女の曾祖母と祖母がそれにあたる。


「それは……エスメラルダの中に存在する〈信仰〉が、常軌を逸した、という、事件だった。〈信者〉は【最後の娘】(エスティエルティナ)に、〈毒の世界〉と呼ばれる、魔物の住む世界への〈扉〉を開けるよう強要していました。〈毒の世界〉に存在する〈毒〉を浄化すれば、〈壁〉が消え、この過酷な冬を終わらせることができる――これはルファルファの教えでもあります。〈信者〉にとって、ルファルファの教えを遂行することは重要なこと。そのために、〈毒〉を浄化できる人間を育てなければならない。そのためには、〈扉〉を開け、それも頻繁に開け、素養のある人間を〈毒〉にさらすことがどうしても必要なのだと――そうすれば〈毒〉に耐性のある孵化が起こる、女神の意にも沿うはずだ。〈信者〉はそう信じ込んで、〈扉〉を開けることのできる唯一の存在、【最後の娘】に、〈扉〉の開錠を迫った。曾祖母は拒否し続けました。〈信者〉は言うことを聞かない【最後の娘】を殺せば、次に生まれる【最後の娘】はきっと言うことを聞くだろうと――そう思って、犯行に及んだんです。私の曾祖母と祖母は殺されかけました。かろうじて一命は取り留めましたが」


「愚の骨頂じゃな」ティティさんの感想は辛辣だった。「拒否し続ける人間をエスティエルティナが選び続ける、ということの意味を、よく考えるべきじゃった」


「ええ……。その事件があって、曾祖父、アルガス=グウェリンは、予感したのだと思います。この問題は繰り返される。【最後の娘】が存在し、エスメラルダの過酷な冬が続く限り、繰り返され続けると……。先に言ったとおり、彼は苛烈な人間でした。姫を襲った五人は生きながら嬲られ続けるような過酷な刑に処されましたが、それでも、彼の怒りは晴れなかった……というよりきっと、恐ろしすぎたのだと思います。姫に……あの姫に、まるで飽きることがないかのように無茶な要求をし続ける。応じない姫を怠慢だとなじり、責め続け、それでも応じなければ殺害まで引き起こす。それも魔物から国を守るために働いている自分の留守を狙われた。彼の感覚からすれば、本当に、理解しがたい、許しがたい……彼が守ってきた“人としてのしきたり”を踏みにじるような、仕打ちだったのでしょう。

 彼の敵はもはや、姫を襲った五人ではなく、この国にはびこる〈信仰〉そのものだった」


『信仰……』


「彼は晩年、姫がエルヴェントラの座を後継に譲った後……新しいエルヴェントラ、ヴァルターの立ち会いのもと、警備隊長の職を継いたバート=グウェリン……私の祖父です。彼に、遺言を残しました。この先エスメラルダの〈信仰〉が行き過ぎ、〈毒の世界〉への扉を開けという無茶な要求を、【最後の娘】に強いるような状況になったら。【最後の娘】の命を守り、その心を守るために……それからもちろん、楽園の中に破滅を呼び込むことを防ぐために……エスメラルダを取り囲む空気孔をすべて閉じること。これをグウェリンの責務とすると」


「理にかなっておるな。空気孔をすべて閉じれば、被害はエスメラルダだけで済む」


「彼の懸念は当たっていたと言えます。姫が生きている間は、エスメラルダは平穏でした。でも姫が亡くなると、とたんに〈信仰〉は盛んになりました。〈その日〉――次の【最後の娘】が〈扉〉を開ける日に備え、〈信者〉は自分たちを律することを始めた。食べ物を制限し、身を清め、礼拝を重ねれば、“より望ましい孵化”を迎えられる。そう、……思いこむようになったんです。

 次に【最後の娘】が生まれたら、絶対に〈信仰〉を植え付けなければならない。〈神殿〉の望むとおり、言うままになって、〈扉〉を開けるような人間に育てなければならない。〈神殿〉が組織され、新たな教義が追加された。

 〈神殿〉が狂信的になっていくにつれ、〈グウェリン〉も神経を尖らせるようになりました。エスティエルティナが次に誰を選ぶのか、その子をどちらの勢力が手に入れるのか……万一〈信者〉側に【最後の娘】が生まれた時のために、ヴァルターは、当然の帰着として、〈信者〉以外の住民を組織的に避難させる役目を負いました。曾祖父の〈敵〉を除いた、全ての住民を……〈その日〉が来る前に。裏を返せば、アルガス=グウェリンの遺言は、住民の避難が完了し、〈窓〉が全てふさがれた後なら、〈信者〉は好きにすればいい。勝手に死ねばいい、という、ことになります」


 ――それって……


 フェルディナントの尻尾が私をかすめ、意識のかけらを伝えていった。


 ――〈信者〉を一掃する策なのでは……


『まあ』


 私は思わず声を上げ、マイラは目を伏せた。


「曾祖父がそこまで考えていたかどうかは、わかりませんが……少なくとも私の伯父が、『一石二鳥』という意識を持っていたことは確かです。〈扉〉など好きに開けさせればよい、と、伯父はよく言っていました。死にたいなら勝手に死ねばよい。そうすれば自分たちの〈信仰〉が無茶だったということを思い知るだろう。見せしめの意味もあるのでしょう。もしこの策が実行されたら、エスメラルダでは今後ずっと、〈信仰〉を肯定する者はいなくなるでしょうから。荒療治というわけです。

 ただこの策は、〈扉〉を開ける者がいない限り成立しません。【最後の娘】が生まれない限り現状は維持される。私が生まれたときにエスティエルティナが飛んできたそうですが、すぐに両親によって放棄されました。次に七歳の時。十六歳の時にも来ましたが、その都度……七歳の時は母の指示で。十六歳の時は私の意思で、放棄、してきました。私は他の国民からは隔離されて育てられました。【最後の娘】がすでに生まれていることが、〈信者〉に知られたら――その子は奪われて、〈神殿〉の望むとおりの思考を持つよう洗脳されるに違いない。両親は、それを恐れていたんです。

 少し前まで、エスメラルダには三つの勢力が存在しました。ひとつは〈神殿〉。もうひとつは〈グウェリン〉。そしてもうひとつは〈エルヴェントラ〉……〈神殿〉と〈グウェリン〉の仲を取り持ち、現状を維持する道を模索し続けてきたのが、〈エルヴェントラ〉の勢力、父であり母であり、ヴァルターでした。私がエスティエルティナに選ばれていることを隠したまま、隣国の王弟殿下に『偽物』として嫁がせることができれば、〈エルヴェントラ〉の勝ち。母と私の勝利でもありました。……でも直前で、ヴァルターが死んだ。長いこと〈神殿〉と〈グウェリン〉を押さえ続けてきた、とても優しくて、高潔で、……頼もしい、人でした」


『彼を殺したのは誰なの……?』

「わからない。伯父様は、兄様だと思っているようだった。でもヴァルターはもう高齢だったから……」


『十六歳で結婚するって約束にしておいてくれれば良かったのに』


 思わず呟くと、銀狼が笑って私に尻尾で触れた。


 ――それは僕たちも思っていたよ。ただそれは僕の兄が嫌がった。


『そうなの?』


 ――兄は僕を警戒していた。【最後の娘】の名が僕を守っていることを苦々しく思っていた。ましてや正式に婚姻したりしたら僕の発言力がもっと増える。できるだけ先延ばしにしたかったんだろう。


『ひどいわ』


 私はうめき、マイラに視線を戻した。今のフェルディナントの発言を伝えると、マイラは頷く。


「ヴァルターも、もっと早められないかと何度か交渉したらしいですが、かないませんでした。〈神殿〉の手前、【最後の娘】はあくまでも、向こうから望まれる形で嫁ぐという体裁を整える必要もありましたから……。それに、二十歳まで保つだろうという楽観もありました。私は〈通行証〉を持っている。エスメラルダに自由に出入りできる。だから、いざとなれば私が逃げ出して時間を稼げばそれで良かった。でも」


 呻いてマイラは、ティティを見た。


「……人魚が〈神殿〉に近づいた。いえ、逆かもしれませんが……とにかく〈神殿〉の誘いに乗った人魚がいたんです。ウェルダと名乗る人魚が、エスメラルダの中枢にある〈扉〉を開いてあげる、と、〈神殿〉に持ちかけた。【最後の娘】が逃げようが嫁ごうが、〈扉〉を開くことが自由にできるようになった……。その切り札を〈神殿〉が手に入れたときも、ヴァルターは諦めませんでした。私と母に、きっと何とかするからと、言ってくれていました。〈グウェリン〉を抑え、〈神殿〉を説得して。何とか私だけでも逃がそうと、してくれていました。……でもそのヴァルターが亡くなりました。〈神殿〉と〈グウェリン〉のどちらを取るかと言われたら、〈グウェリン〉を取るしかありません。昨日の晩、兄様が家に来たときは、現状維持の道を取れるかと思ったのですが……今朝、伯父と兄の間に何があったのかはわかりませんが、交渉が決裂したことは明らかです。人魚が〈扉〉を開けてしまう前に、〈窓〉を回収しなければ。残りはあと四つだけです」


 ――聞きたいことがある、と伝えて。〈扉〉を開けたらその瞬間に、確実に破滅が呼び込まれるものなのか。


 フェルディナントが訊ね、私はそれを伝えた。マイラは首を振る。


「いえ、確実に、と言うわけではありません。あの世界には〈昼〉と〈夜〉があり、開けた瞬間が〈夜〉でない限り――」

「ダメじゃ」


 ずっと黙っていたティティさんが言った。私たちはそちらに視線を移し、三人とも愕いた。

 ティティさんが蒼白になっている。


「……いかぬ。姐様が……姐様が〈神殿〉とやらと手を組んだのは、昨日今日の話ではないのじゃな」

「は、い。少なくとも半月ほどは前のはずです」


「何という……何という愚かなことを。姐様の狙いが儂の推測のとおりなら、世界がまだ存続しておるのはただ、運が良かったとしか言えぬ……一刻の猶予もない。貴女は残りの空気孔がどこかわかっておるか」


「ええ、……はい。伯父様に地図は預けたままですが、陸の部分は全て回収しましたから……残りは島にある四つだけです」


「まだ四つもあるのか! わかった、儂も行く。リエルダにも行かせる」

「猶予が、ないのですか」


「姐様は銀狼を呼ぶ気なのじゃ。世界の番人を。〈扉〉を開くその先が〈夜〉じゃったなら、この世に銀狼が残っておれば必ず駆けつけてくるはず、残っておらねば滅びても構わぬとまで思い詰めておるのじゃ! ならば開く先が必ず〈夜〉になるよう、今もその刻を待っておるに違いない! 地図をっ」


 ティティさんが指先をひらめかせ、その場に見覚えのある地図が出現した。どうなっているのか、向こうの『私』の姿がゆらゆらと透けて見えるけれど、地形を見て取るのに支障はない。ぐるりを円が取り囲んでいるのもマイラの持っていたものと同じだ。マイラがその地図に手を伸ばし、円を辿った。円とちょうど接する所に存在する島は、確かに四つだ。


「……よしわかった。〈扉〉の方は儂とリエルダで手分けする」

「いいのですか」

「もちろんじゃ。これは貴女のではなく儂たち人魚の責じゃもの」


「気をつけて。兄様は〈グウェリン〉が何をしようとしたのかもう知っています。残りの〈窓〉の所に、警備のものを派遣しているかもしれません」


「さようか。それを知っておれば危ないことなど何もないわ」


 ちと待っておれ――言い置いてティティさんは行こうとする。その前にマイラが声を上げた。


「待って。私も連れて行ってください」

「やめておけ。事情はわかった。既に貴女の手に負える事態ではない」


「エスメラルダの中に、まだ大勢の人たちが残っています。ヴァルターの遺志をロビンソンが引き継いでくれましたが、人手が足りないはず。〈通行証〉を配らなければ、〈窓〉が閉じたらみんな閉じこめられてしまう」


「……」

「お願い。もうこれ以上、誰にも死んでほしくないんです」


 ――僕も行く。


 銀狼の尻尾が意志を伝えてくる。私がそれを伝えると、ティティさんは、わかった、と言った。


「銀狼がついておれば滅多なことはあるまい。自分の〈人魚の石〉まで人にやってしまわぬと誓うなら、連れていこう。忘れるな。貴女は【最後の娘】じゃ。何があっても自棄になってはならぬ。誓え」


「……」


「エスティエルティナが今も貴女を選び続けているという意味をよく考えるのじゃ。〈信仰〉に染まらず、〈グウェリン〉にも賛同せず、自分の夢を見続けてきた貴女を、その剣は選び続けてきた。貴女の選択を支持し続けてきた剣を、今になって裏切るようなまねは儂が許さぬ」


「……は、い」

「ゆくぞ」

『待って! 私も……!』


 叫んだ時には遅かった。ティティさんが起こした水の渦がマイラとフェルディナントを巻き込み、私は押し流された。




 後には静寂と、一羽の鴉と、意識のない役立たずな人間の体だけが残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ