取引
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マイラの首から流れ出た血が、銀狼の毛皮を染めていく。
私は必死で辺りを見回した。どこかに水はないだろうか。マイラの息は既にか細く、命がつきようとしているのがよくわかる。お医者様なんて捜しても無駄、もはや人魚を呼ぶしかないとわかっていた。確か、清浄な水が十分あれば、人魚はどこにでも出没できると聞いた――あとは、人魚を呼ぶだけだ。
――名前。
しがみついたフェルディナントの毛皮から、必死の囁きが伝わる。胸がつぶれそうな心配と後悔がフェルディナントの中に満ちている。会いたくないなんて意地を張らなければよかった。そばにいればよかった。死なせたくない。そんなの嫌だ。まだ礼も言ってない――切れ切れの意志があまりに悲痛で。
『名前、名前、名前……! そうよ、噴水がある! フェルディナント、広場へ向かって! 昔遊んだんだから覚えてるでしょう!?』
――わかってる。
『そっちじゃないわよ! マイラの家からまっすぐよ!』
――わかってるよ。あそこは近すぎる。人魚に治療される前に捕まるだろ。名前、思い出して。ティシ……
『ティシミス……ティシ、ミス?』
――近い。でももっと長い。
『ふ、とか、ふぃ、とか、そんな音が入っていたような気がしなくて?』
――する。それだ。……あった、別の噴水だ。
銀狼は注意深く走って、マイラの体を落とさずに、なんとかそこにたどり着いた。私の知る広場とはまた別だ。私は羽ばたいて、噴水へ突進した。自責の念が押し寄せて、頭がまとまらない。
私のせいだ。私のせいだ。カイも殺された。そしてマイラまで。
私のせいだ。私のせいだ。
執拗に言い続ける私の心。今はそんなことを言っている場合じゃないのに。
噴水には氷が張っていた。嘴でつついても穴もあかない。
『ティシ、フィ、ミス……ティシアルフィミス様、どうか、どうか助けて……!』
噴水の横にうずくまったフェルディナントは、マイラに覆い被さるようにして、その体温をできるだけ保とうとしているらしい。その体勢のまま尻尾をのばして私をぺしっと叩いた。
――フェイ、ミス、だったような。
『それだわ! ティシアルフェイミス様! お願い、助けにきて……お願い……!』
水面は静まり返ったままだ。私はマイラを振り返った。血に染まったマイラの頬が青い。かすかな息が、今にも絶えてしまいそうだ。かすかに開いた瞼から、藍色の瞳が覗いている。
その目が、私を見ている。
まるで最期に、私の姿を、焼き付けておこうとでも言うかのように。
「……コ、ン……」
――呼んでる。
尻尾でぽんと叩かれて、私は泣いた。
『いや! いやよ! 最期の言葉なんて聞くものですか、聞いてなんか、あげるものですか! お願い、助けてちょうだい……! 私、私、私絶対名前を知ってるのよ! 知ってるの、だって……会ったことがあるんですもの……!』
「おねが……コン……ス。……ぶ、じ、で………………逃げ……」
『嫌よ! 絶対嫌、絶対貴女から離れたりしない!』
そのせいだ、自責の念が私に言った。
お前が我を張ったから。
お前を守ろうとしたから。
お前の身代わりに、矢が、彼女に刺さった。
『いや、いや、いやあぁ……! どうして来てくれないの、貸しが残ってるじゃないの、助けにいくって、言ったじゃないの! お願い、あの人を助けて! てぃしっ』
その時唐突に、その名前が降ってきた。
『ティティさん! ティティさん! ティティさん、お願い助けて……!』
「……やっと呼んだか、馬鹿者!!」
叱責の言葉とともに、噴水の氷が砕け散った。
そこから現れたのは、目を疑うほどの美貌。
初めに会った人魚より、かなり大柄な人魚だった。
「なぜとっとと呼ばんのじゃ、儂がどれほど心配したと、」
『ティティさんお願い! マイラを助けて!!』
ティティは目を見張って私を見る。「貴女、その体はどうした――なんじゃその傷は!」
やっとマイラに気づいたティティさんは、左手を振った。動きに応じて噴水から、水が大喜びで飛び出した。水はマイラに飛びつき、その体をくるみ込む。
「貴女方も来やれ、ここでは治療もできぬ」
『はい』
心配で胸がつぶれそうだ。私は躊躇わず噴水に飛び込んだ。驚いたことに、冷たくなかった。フェルディナントも続いて飛び込んでくる。
息を止めていたら、鴉が、止めちゃだめ、と伝えてきた。一度全部息を吐いて、もう一度吸うと、肺の中に水が満ちた。鴉は満足げに、これでもう大丈夫、と言う。確かにぜんぜん苦しくない。
獣はみんな知ってる。
生まれてすぐに来た。ずっとまた戻りたかった場所。
ティティさんの長く豊かな黒髪が舞い踊っている。水たちはティティさんの髪を美しく揺らめかせるのが楽しくてたまらないようだ。と、髪が私とフェルディナントに絡みついた。ぐうん、と引っ張られる。水の中は始め暗く、次第に明るくなっていった。渦を巻くトンネルを私たちは緩やかに滑っていく。
そして光輝く場所に出た。
静謐で清浄な水が辺りに満ちていた。
とても静かな場所だった。水の中なのに、ぜんぜん冷たくないし、ちっとも苦しくない。たぶんそこは、泉の底だった。深い深い水の底。遙か頭上に、ゆらゆらたゆたう水面が見える。それほど広くなく、私が育った家の、居心地のいいあの居間くらいの広さだろうか。
そこに、簡素なワンピースを着た、若い女性が浮かんでいた。
底から一メートルくらいのところに、頭を上、足を下にした体勢だ。ワンピースの肩口から胸、腹の辺りまで、斜めに斬り裂かれているが、その隙間から覗く肌に傷は見えない。
フェルディナントが目を逸らしている。ぽん、と尻尾で私を叩いた。
――あれが君の体だ、コンスタンス。
『そうなの。でも今はどうでもいいわ。マイラは……』
見るとティティがマイラの体を、『私』の体とは対角に当たる位置に浮かばせたところだった。傷口から、体から、血が煙のようにゆらゆらと立ち上っている。私は翼を動かしてそちらへ行った。
『マイラは……あの、ティティさん……』
「なんじゃ」
『た、助かります……よね……?』
「愚問じゃな」ティティさんは不敵に微笑む。「儂を誰じゃと思うておる。まだ命が残っておった。これしきの傷すぐ治る。見よ、もはや傷は消えた」
言ってティティはマイラの傷口をさっと撫でた。血が水に溶け靄が立ったが、それが晴れると、確かに傷はもう跡形もない。
『ああ……よかった……!』
「儂は人魚の中でも特に治療が得意でな。儂自身の体力も一日で全快じゃ。なのに」
きっ。音を立てそうな形相でティティさんは私を睨んだ。
「なぜとっとと呼ばなんだ。リエルダからきちんと儂の名を聞いておったはず、儂を入れるのがそんなに厭じゃったのか! 早う呼ばんからこうなるのじゃー!」
ティティさんの怒りに鴉が縮こまっている。人魚はどうやら、獣にとって絶対的な崇拝の対象であるらしい。私は翼を広げて彼女を宥めた。
『私たち、貴女のお名前を一度だけ、それも早口で聞かされただけなんです。覚えられなかったの。何度も呼んだんですよ、でも正確に発音できなくて……』
言葉が尻すぼみになった。ティティさんの怒りは解けるどころかますます増していくようだ。
「一度だけじゃと?」
『え……ええ』
「儂の、本名を、早口で、一度だけじゃと!? くそっあの娘……! 待っていやれ、思い知らせてくれる!」
『えっ、あのっ』
「それに何じゃその姿は! 儂は確かに別の生き物に魂を移して修復を助けよと言うた、言うたがな、なんで鴉! 猫とか犬とかも少し――さらに王子はっ」
銀狼に視線を移して、
「何じゃその………………随分とぬくそうな姿」
『ぬくそう……?』
「ふむ……リエルダの技術もここまできたか。姐として師として喜ぶべきか詫びるべきかわからぬ」
フェルディナントはなにも言わない。ティティさんは手を伸ばした。迷うように。それから訊ねた。
「ちと、触れても良いじゃろうか」
フェルディナントは頷いた。ティティさんはあのときの人魚のように、ひとしきりフェルディナントの毛皮を撫でた。わしわしわし。わしわしわし。フェルディナントが目を細め、ティティさんはがくりと項垂れた。
「……儂が愚かであった」
あのときと同じ言葉だ。
『ティティさん、あのときの人魚も、同じことを……』
「ああ。儂ら人魚はのう、銀狼の毛皮によってしか、温もりを得られぬ生き物なのじゃ。銀狼と決別して以来、儂は随分長いこと、温もりというものを感じずにいる」
『まあ……』
「リエルダは銀狼と決別してから生まれた初めての仔。生まれつき温もりを知らぬ。人間の男を銀狼に変えればあるいは、と思うたのであろう……。まことに申し訳ない」
ティティさんは率直に、フェルディナントに頭を下げた。
「あの子は根性がちとねじ曲がってしもうての。治療の腕はなかなかなのじゃが、性格が悪いのじゃ。聞き分けもない。へそを曲げて、ややこしい魔法をかけたのう……申し訳ないが、これは儂でも解けぬ……」
ぽん、と、フェルディナントが尻尾で私を叩いた。
伝えられた言葉を、ティティさんに伝える。
『もう少し他の人魚に頼んでいただくわけにはいかなかったのでしょうか、と、言っています』
「申し訳ない。儂にはリエルダ以外、信頼できる相手がおらぬのじゃ。姐様方は……」
ティティさんは言い、ふう、とため息をついた。
「銀狼と決別してもう永い。温もりを知る姐様たちは、苦しんでおる。やはり自然に反したことは上手くいかぬ。儂ら人魚と銀狼は本来、ふたつでひとつの種族じゃもの。片割れを押し退けたまま心を強く保つことは誠に難しい。幼子たちを育て、人魚の技と、伝承と。責務を諦めず放り出さず、人間に力を貸す心を育んでゆく――そうして少しでも種族としての命を長らえさせる。それくらいしか、儂にできることはない」
『……』
「リエルダは根性と性格がねじ曲がっており、嘘もつくし暴言も吐くが、少なくとも責務に関しては儂に賛同しておる。他の仔たちは幼すぎ、あの契約の成就を任せるには心許なかった。他に選択肢がなかった。どうか許しておくれ」
ぽん。またフェルディナントが私を尻尾で叩いた。
聞こえてきた言葉を、私は口にする。
『ユリウス=シャトーとの契約は』
言うだけで胸が震えた。
その名が、私の胸を震わせた。
『……川に落ちた僕の命を助けること。それだけだったのでしょうか、と、言っています』
「いや、それだけではない。イェルディアという港町に運び、レギニータという船の船長に預けよということじゃった。リエルダにはそこまでは頼んでおらぬ、じゃから契約はまだ完全には果たされたとはいえぬ」
――相変わらず行き届いた奴。
その印象だけを残して、フェルディナントは急いで尻尾を放した。
そして、また尻尾で触れる。
『あの場にコンスタンスが現れたのはなぜか、と聞いています』
伝えるとティティさんは、『私』の体の方を振り返った。
「まだよくわからぬ。儂は〈水鏡〉の魔法を使っておったのじゃ。そこにコンスタンスの力が加わり、連鎖反応が起こったのじゃと思う。信じられるか。儂とコンスタンスが〈水鏡〉で覗いたのはあの日の昼じゃった。コンスタンスは〈水鏡〉で未来を覗き、その上、そこに飛び込んだ。思いがけない効果で儂の魔力がほとんど吸い取られ、リエルダに代理を頼む羽目となった。
思うのじゃが、コンスタンスの魂の欠落は、死にかけたせいではなく、副作用かもしれぬ。……危ういのう。〈水鏡〉が完全に作動すればあのような効果があるのじゃとすれば……人魚が〈水鏡〉で責務に協力するのは危険すぎるやもしれぬ、そこも、人間に任せた方が」
『あの……意味が、わかりませんが……』
「おお、すまぬ。ともあれ、契約を果たさねば――じゃがまずは王子、そなたの体を元に戻さねばならぬ。ふむ……しかし呪いが厄介じゃのう……」
ぽん。また尻尾が私に触れる。
『ユリウスの』また胸が震える。『差し出した対価はなんだったのですか、と、聞いています』
「まだ決めておらぬ。儂の要求を何でも飲むと言っておった。儀式に必要ならその命でさえ構わぬと」
『!』
「じゃが別に命まで取ろうとは思わぬ。契約の途中で代理を立てた負い目もあるし、ましてや……のう、ユリウスは銭を持っておるじゃろうか」
『持っている、と、言っています』
「それなら銭が良いかと思う。イェルディアは大きな港町じゃ、海から見える屋台はとても楽しそうじゃし、様々なものが売っておる。銭があれば買い食いができる。それも儂の好きなものを好きなように、儂の銭で買える。これこそ、買い食いの醍醐味、というものではないか! のう!」
楽しそうだ。やはり私はこの人を知っている、と思った。ティティさん、という名を教えられたのもそのときだ。
もう少し小さかったような気もするけれど。
フェルディナントがまた尻尾で触れた。
『……お金で良いのなら、僕とも契約をしてもらえないか、と、言っています』
ところが、ティティさんは一転、渋い顔をした。
「それはいかぬ。銭で儂の契約が買えると思われるのは心外じゃ。儂はかなり人間を好む人魚じゃが、それでも別の種族じゃ。なれ合いは良くなかろう」
『僕は体を取り戻す前にやりたいことがある。この体は便利だから、しばらくこのままでいたい。だからユリウスの契約を果たす前に、コンスタンスを体に戻して、マイラ=グウェリンとコンスタンスを、イェルディアに送っていって欲しいと……ねえ、勝手な契約しないで欲しいのだけれど』
フェルディナントに視線を移すと、若草色の瞳がとても穏やかに光っていた。
――彼女はもうエスメラルダに帰さない方がいい。そう思わない?
言われて私は頷く。『……そうね』
――わずかな時間とはいえ、ひとりでイェルディアに放り出すなんて、気の毒だと思わない?
確かに、と、思わずにはいられない。イェルディアで目が覚めたらきっとマイラは怒るだろう。カイを喪い、自宅も焼失。伯父様もシェイラも、なによりお母様の行方がしれない。そんな心痛のただ中に、彼女を一人で放り出すわけにはいかない。
「まあ内容としてはたやすいな。じゃがこれ以上、銭で契約はせぬ。銭はユリウスから十分ふんだくる」
ティティさんはかたくなにそう言い、フェルディナントが黙る。私はティティさんに向き直った。
『あの……。私と、マイラをイェルディアに送っていただく際、そこに、アデリシア、という少女を入れていただきたいの』
「この上さらに対象を増やすか」ティティさんは面白そうに笑った。「して、何を差し出す?」
『アデリシア、という少女は、料理の天才だそうなんです。それも、お菓子が絶品なんですって。チョコレート、ご存じかしら? 私、今までもきっとチョコレートが好きだったわ。でもマイラが言うには、彼女のチョコレートは他のものとは格が違うのですって。マイラは、もう、アデリシア以外の手によるチョコレートは食べないようにしてると言っていたわ』
「……チョコレート。ふん。噂には聞いたことがある」
『それだけじゃありません。そんじょそこらの料理人には絶対に作れないようなおいしいおいしい食べ物を、次から次へと作ってくれるのですって。でも……今、どうしているかしら。彼女もきっと、危ない目に遭ってるんじゃないかしら』
「……」
『エリックという人が今朝、連れてくることになっていたの。あの場所に、場違いなほど幼い、美しい子供がいたのよ。血にまみれてひどい有様で、本当に可哀想だった。マイラの知り合いらしいし、彼女も一緒にイェルディアに送ってくださったら、きっと……私、一生懸命頼んでみるわ。そうして、チョコレートを作ってもらう。貴女のために。あと、貴女の望むお菓子なら何でも』
「銭があれば買える」
『あら! アデリシアのお菓子はアデリシアにしか作れないわ。ティティさん、アデリシアが誰かわからないでしょう?』
「くっ」
ティティさんは吹き出した。そして笑い出す。朗らかな、とても楽しそうな笑い声。
「よしよし、わかった。契約は成立じゃ――」
「……待って」
かすれた声が、後ろから聞こえた。
私とフェルディナントは振り返った。
マイラが目を開けている。




