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海の女王と陸の花  作者: 天谷あきの


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32/43

殺戮

 殺戮は果てしなく続くようだった。


 累々と倒れ伏す人たちから流れ出る血で、アデリシアはほとんど恍惚としていた。なんて――なんて、温かいのだろう。ニースに抱っこされるよりもっと温かい。泣きたくなるほどだ。


 温もりってこういうものか。

 あたたかいって、こういうことだったのか。


 もう、血しか見えなかった。視界の隅に、車椅子に乗っていたあの男の人が逃げていくのは見えていたが、全く意識していなかった。


 次から次へと人が周囲に集まってきていた。「隊長」「大丈夫ですか!」という声に紛れて、エリックが何か答えるのも聞こえる。

 と。


「アデル」


 聞き覚えのある声が囁き、アデリシアの体を抱き上げた。血だまりから引き離されて、アデリシアは喪失を感じた。

 まるで体がふたつに引き裂かれたみたいだった。


「や――」

「しっ」


 その人はアデリシアの口をふさいでその場から無理矢理アデリシアを引きずり出した。アデリシアは、そして、我に返った。ユーリだ。

 ユーリの腕がしっかりとアデリシアを抱えている。


「ゆー……り」

「大丈夫か」


 そんなわけない、と自分でも思っているような口調でユーリは言った。ユーリは止まらずに走っていく。上手く混乱に紛れたようで、誰もふたりを見咎めなかった。


 彼がアデリシアを連れていったのは、さっき通ったあの広場だ。でこぼこの塀の森を通り過ぎ、土管の中にアデリシアを押し込む。


「ここにいて」


 離れていく。


「ゆ、ユーリ。ユーリ!」


 アデリシアは必死で、ユーリに飛びついた。腕にしがみついた。さっきのは何だったのだろうと思った。さっきのあの切ないまでの温もりを、もう一度得たい。


 そのためなら何だってしたい。そう思う。

 とくとくとユーリの心臓の音がする。これを引き裂いたら、と、思わずにはいられなかった。


 吹き出す血を浴びたら。

 そうしたら――


「怖かったね。ひどい目に遭った」


 静かな声で、苦しそうにユーリは言い、そっとアデリシアの背を撫でた。

 ユーリが誤解してくれて助かった。本当に本当に助かった、と、アデリシアは思った。


 マイラに、ユーリに、ニースに――アデリシアの大好きな人たちに、もしこの性根がばれたら。

 生きていけない。




 広場を駆けて行く足音が聞こえる。


 アデリシアは顔を上げた。羽ばたきの音もした。ユーリの肩越しにそちらを見ると、まだ幼さの残る少年と、長い黒髪の小柄な女性が走っていくのが見えた。マイラ、かすれた声をあげると、ユーリがそちらを見た。


 確かにそれは、マイラだった。

 肩になぜか、鴉が乗っている。


「……ここにいて」


 ユーリは囁き、立ち上がる。アデリシアの手をほどくのに少し手間取った。その間にマイラと少年と鴉は広場を走り抜けていった。「ごめん。ここで待ってて。後で迎えにくるから」ユーリは焦ったように囁く。マイラを追いかけるつもりだ。そうすべきだと、アデリシアは思った。


 あの惨状に――別人になってしまったエリックに、マイラを会わせちゃいけない。


 ユーリがアデリシアの手をほどき、走り出した。アデリシアも立った。よろめいたが、足はちゃんと二本、あった。あの温かい血の中に溶けてしまったような気がしたが、錯覚だったのだ。

 足を踏みしめて、広場によろめき出た。体中から血の香りがしているような気がする。




 広場には、いつの間にか、大勢の人が集まっていた。住民たちもいるが、昨日エリックに食べ物を運んできていたあのふたりのような、屈強な体つきの若者たちもいた。ものものしい雰囲気だった。遠くで剣戟の音がする。


 まるで戦争でも始まるかのよう。


 怒号が聞こえ、住民たちがざわめく。アデリシアは走り出した。広場を抜け、あのこぢんまりした家へ続く一本道を走る。ユーリの姿はどこにも見えない――でも、マイラと少年と、鴉は見えた。


 あの家から炎が上がっている。

 きっとエリックが火をかけたのだ。それとも、あの車椅子の男だろうか。


 それを取り囲む人垣のところに、マイラがたどり着いたところだった。マイラは家に駆け込もうとしたが、周りを囲む人たちがそれを阻んだ。「母様! 母様……!」マイラの悲鳴。それを阻む若者の制止の声。


「下がってください! 消火が先です!」

「母様は!? 兄様は、伯父様は……」

「隊長は無事です、今――」

「兄様!」


 マイラが叫んだ。

 若者たちの間から、エリックが、進み出た。


 エリックは体中から血を流していたが、それほどのケガでもないらしい。瞳が藍色に染まっているのを見て、マイラが息をのむ。


「兄様。……いったい、何が」

「終わりだ」


 エリックの声は昏かった。まるで呪詛を吐くかのようだった。


 くっ、と喉が鳴った。

 わらっている。


 マイラの肩から鴉が飛んだ。少し離れた地面に降り立ち、美しく澄んだ瞳で心配そうにマイラを見ている。


 マイラはエリックを見て、かすれた声をあげた。


「……兄、様。母様は……?」

「母さんは死んだ」


 出し抜けに。

 エリックが剣を抜いた。振り抜かれた剣の軌跡はアデリシアには見えなかった。その剣がマイラを両断する寸前に、傍らの少年がマイラに飛びついた。二人は折り重なって倒れ、エリックがわらう。


「隊長命令だ。カイ=ロビンソンを捕らえろ」


 地面に倒れたマイラがもがく。


「……兄、様!」

「生死は問わん。〈窓〉を盗みエスメラルダを凍り付かせようとした罪で処断する。捕らえろ!」


「兄様、待って! 説明して! どういうこと、だって、いったい何が……!」


 がいん、エリックが振りおろした剣を少年が受けた。剣の切っ先は少年の剣に逸らされて、マイラのすぐ脇の地面に落ちた。


「姉ちゃん、逃げろ!」少年が叫ぶ。


 マイラが歯を食いしばった。立ち上がった。少年の声が励ました。


「邪魔なんだ、早く逃げろ! 俺一人なら何とかなるから――」

「お前たち、マイラも捕らえろ」


 エリックの命令に周囲がざわめく。


「そいつはもう妹じゃない。ロビンソンと結託して〈窓〉を盗んだ――」

「エリック=グウェリン!」


 マイラの声が響いた。

 ひどく悲痛な声だった。


 ぽん。場違いなほど可愛らしい音が響いて、マイラの手の中に光輝くひと振りの剣が出現した。少年を包囲しようとしていた若者たちの、半数近くがどよめいた。マイラは剣をエリックの前につきだして叫ぶ。


「宝剣を見よ! 私の声が聞こえるか!」

「……エスティエルティナだ……!」


 畏怖の声。みんな魅入られたように立ちすくんだが、エリックだけは動きを止めなかった。少年もそのせいで止まれなかった。エリックの剣が追い、少年は避ける。自分の剣でエリックの切っ先を逸らしながら。まるで踊ってでもいるかのような洗練された動きだ。


「我が名はエスティエルティナ=ラ・マイラ=エスメラルダ。ルファルファの【最後の娘】の命を聞きなさい、エリック=グウェリン! 説明して! 昨日の話はどうなったの、ここで、なにがあったの!?」


「お前たち、何をしてる! 隊長命令だ、早く捕らえろ!」

「でも、隊長」


 若者のひとりが、おずおずと声をあげる。


【最後の娘】(エスティエルティナ)の命令です」

「偽物だ」

「まさか! 本物ですよ! どう見ても!」


 周囲を取り囲む若者たちはみんなざわついている。誰もエリックの命令に従って、マイラと少年を捕らえようとはしなかった。エリックが舌打ちをした。少年がエリックから距離をとり、マイラを引く。


「姉ちゃん。とにかく出直そう」


 その時だ。

 出し抜けに、鴉が叫んだのだ。


『カイ危ない! 弓が……!』


 その言葉のとおり、少年に向けて、茂みの陰から弓が放たれた。

 あの車椅子に乗っていた男の差し金に違いない。


 アデリシアは直感した。カイと呼ばれた少年は危ういところで向き直り、飛来した矢を剣で弾いた。鴉が羽ばたいた。茂みから離れて、マイラの方へ飛んでいく。


 その黒い小さな姿に、茂みからつきだした矢が向けられた。


「……コンスタンス!!」


 マイラが叫ぶ。「姉ちゃ」カイの制止の声。でもマイラは止まらなかった。コンスタンス、と呼んだ鴉に飛びついて、胸に抱え込んだ、その首元に、

 飛来した矢が、突き刺さった。


「姉ちゃん……!」


 カイは、駆け寄ろうとした。若者たちが茂みに殺到する。その中で、エリックがわらった。無防備にさらされたカイの背中。


「やめろ――!!」


 エリックの剣が振り降ろされた。


 カイが目を見開いた。

 一瞬時間が止まった。


 そしてカイの背から、血しぶきが上がる。


 また死んだ、と、アデリシアは思った。

 吹き出た血がとても赤くて。温かそうで。


 あの血を浴びられたらと、痛切に思った。あの温もりをもう一度、この体に刻めたら……


「もうやめろ、エリック=グウェリン! もう……!」


 叫んでいるのはユーリだ。マイラは鴉を胸に抱いて倒れたまま動かない。エリックがまたわらった。血に濡れた剣を掲げて、一歩。二歩。倒れたカイの体を蹴飛ばして退かし、もう一歩。


「なるほど。その鴉か」


 エリックが言った。楽しそうな声だった。


「兄……さま……」

『マイラ……マイラ、マイラ! いや、死なないで……!』


 鴉が叫んでいる。美しい余韻を持った綺麗な声だった。

 その悲鳴に紛れて、マイラの命の流れ出ていく音が聞こえる。マイラも死ぬ、と、アデリシアは予感した。傷は首もとだ。鎖骨と首の隙間だった。温かな血液が、命が、体を巡っていくための、大切な血管が集まった場所だった。


 エリックが屈み込む。マイラの命が流れ出るのを止めているのは皮肉にもその鏃だ。その命の栓に手をかけて、エリックは楽しそうに笑った。


「……その鴉だったのか!」


 そしてためらいなく、矢を引き抜いた。

 血が吹き出した。ユーリが走っていく。エリックは矢を投げ捨て、マイラの腕の中から、鴉を引きずり出した。


『マイラ! マイラ、マイラ……!』


 鴉が泣いている。翼を鷲掴みにされながら、ただマイラの名を呼び続けている。


 なんて悲痛な声だろう。


 どうしよう、と、アデリシアは思う。

 大好きなマイラが死にそうなのに、鴉があんなに、泣いているのに。ユーリが、走っていくのに――あたしは、マイラの血の温かさのことだけを考えている。


 と。


 ユーリを、銀色の光が追い越した。

 あの、銀狼だった。


 銀狼の足は速く、ほんのひと飛びでユーリを追い越し、そのままエリックに襲いかかった。ぐぁう、鴉を捕らえた左腕に食らいつき、鴉が放り出される。『フェルディナント!』鴉が叫び、空中で体勢を立て直した。銀狼は何も言わず、エリックをふりほどくと、マイラに首をさしのべた。


 マイラは動かない。

 一瞬匂いをかぎ、銀狼はマイラの腹の下に鼻を差し入れた。ぐっと持ち上げて背に乗せ、走り出す。鴉が羽ばたいて追いかけていく。エリックは噛まれた左腕を抑えながら、立ち上がった。


「緊急配備だ! ラオ=ロビンソンを捕らえろ! グウェリンの道場のものもみんな一味だ、一人残らず捕まえろ……!」


 いったい何がどうなったのだろう、と、アデリシアは呆然と考えていた。

 今朝の、あの、『いいことがあったんだ』と笑ったエリックは、いったいどうしてしまったのだろう。

 車椅子の男が投げ与えたあの紙片には、いったい、何が書かれていたというのだろう。


 ラオ=ロビンソン? それは誰だ、とアデリシアは思う。エリックの敵はラオじゃない。そんなの、よくわかっているはずなのに。

 なのに。




 エリックの命令にも関わらず、若者たちはみんな動かなかった。茂みから矢を射った誰かは逃げたらしい。それを追った者以外は、みんな遠巻きにエリックを見ていた。


 異端の者を見るような目で。


 『エスティエルティナ』の命令を無視したからだろうかと、アデリシアは思った。マイラを、殺そうとしたからだろうか。


 エリックは、仲間の沈黙を気にする様子もない。


「……そして貴様だ。名前も知らんが」


 言って、ユーリを見た。

 ユーリは抜き身の剣をぶら下げて、静かな瞳でエリックを見ていた。その瞳も藍色に染まっている。エリックの瞳が、底知れぬ深い海の色なら、ユーリの瞳は透き通った空だ。真冬の山の上で見るような、冷たく澄んだ、凍り付いたような空の色――


「ユーリ=ロビンソン」


 ユーリは名乗る。エリックも左腕を抑えるのをやめて剣を投げ捨て、地面に落ちていたひと振りの剣を持ち上げた。

 柄に複雑な模様が刻まれているのがちらりと見えた。

 カイの使っていたひと振りだ。


「ロビンソンか。やはりな」

「あんたはもう野放しにしてはおけない」


 穏やかな声でユーリは言う。


「エスティエルティナの命に背いた。それから彼女に……あんたはもはや、……害獣だ」

「止められるなら止めてみろ。マイラは死ぬ――あの傷ではもはや助かるまい。それでいい。秘密を知る人間はみんな殺す」


「同情はするよ。僕もあんたと同じ立場だ。でも共感はしない。してたまるか。次から次へと殺しやがって」


「お前も殺す」

「弟の仇」

「殺してみろ! グウェリンの剣を手にした俺に勝てると思うのか!」


 ユーリが斬りかかった。がいん、一合斬り結んで、飛びすさった。アデリシアにも、技量の違いは歴然としていた。あれほどの人数の若者に斬りかかられたのに、ひどいケガもせず生きているような相手だ。勝ち目なんかありっこない。それなのにユーリは斬りかかる。がいん、がいん、きん、がいん。斬り結ぶごとにユーリは押されて下がる。エリックは哄笑した。


「殺してみろ! 殺してみろよ! 俺を止めてみろ!!!」


 エリックが振り抜いた剣がユーリの肩を浅く裂いた。血が飛んだ。続けざまに打ちかかりながらエリックは、次第にユーリを追いつめていく。何という強さだろうとアデリシアは思う。ユーリがまだ何とか受け続けているのが不思議なほど、エリックの動きは神がかっていた。


 がきっ。耳が痛むような音がして、ユーリの剣が折れた。エリックがわらう。


「はははははは、お前も、これで終わりだ……!」


 ユーリの体が、エリックの大きな体の向こうに完全に消えた。

 そして、時が止まった。




 その場がしんと静まり返った。動けたのは、アデリシアだけだった。アデリシアはよろよろとそちらへ行った。ユーリの血が流れているなら、と、思っていた。最後にユーリの温もりだけでも、感じておきたい、と。


 ところが。


 (くずお)れたのは、エリックだった。

 驚愕して立ちすくんだアデリシアの前に、ユーリが姿を見せた。もう片方の肩に、今度は浅くない傷を受けたらしい。痛そうに顔を歪めながらエリックの下から這い出すと、ふう、と息をつく。


「……な……何を……した……」


 エリックが呻く。その目が見開いている。ユーリは顔を歪めた。


「毒を盛った。アナカルシスの王宮に残っていた、クレイン=アルベルトの毒」

「な……」


 ユーリは左手に隠していたナイフを投げ捨てた。切っ先が、赤と、それからべっとりとした黒に汚れている。


「馬でも殺す毒だ。……これが僕の役割だ」

「それは困る」


 新たな声は、池から聞こえた。

 凍り付いていた水面が割れていて、そこから、美しい女性が顔を見せていた。濡れた黒髪が顔に張り付いて、ぞっとするほど綺麗だった。


「……人魚」


 ユーリが呻き、人魚は、微笑んだ。右手を差し伸べると、池から水が飛来した。水の塊は倒れたエリックを取り込み、引き返した。エリックの巨体が易々と池の方へ運ばれていく。


「まだ契約の途中。〈扉〉を開ける契約が果たされておらぬ」

「……なんなんだ。あの人魚じゃない――それならあんたは誰だ、いったい何のつもりだ! あんたのしようとしてることは……!」


「貴様は毒でこの男を殺そうとした。その行為は、どんな理由があっても正当化されるものではない。貴様の手はすでに汚れた。どんな理由があろうと、誰を守るためであろうと、同族を殺すことが許されるわけはあるまいが。ましてやその毒――この世にあってはならぬ汚れを使うなど」


「待て!」


「ようやく準備が整うた。この男の命、儂がもらい受ける。〈その日〉を楽しみにしていやれ」


 くくく、と笑って、人魚はエリックを池に沈め、とぷん、と自分も潜った。ユーリが池に駆け寄る。アデリシアも続いた。ユーリの隣から池をのぞき込んだが、そこには既に、割れた氷と、深い綺麗な水があるばかりだった。


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