チョコレート
*
「マイラちゃん」
声をかけてきた男がいて、私は驚いた。今までマイラをそんな呼び方で呼んだ人はいなかった。ずいぶん気安い間柄らしい。マイラは声に振り返り、嬉しそうに声を上げる。
「おはようございます、ラオさん。伯父様……いえあの、お父様から、昨夜、聞いたんでしょう? あの、」
「……いや? 何の話かね」
ラオ、という人間は、伯父様よりだいぶ若い。たぶん、お母様と同年代だ。お腹のせり出した、人の好さそうな男性だった。
カイの父親ではないだろうか、と、私は思った。見るとそこは、こぢんまりした商店の前だ。ロビンソン商店、と、看板が掛かっている。
マイラはきょとんとした。
「え、でも……昨日伯父様が、ラオさんと打ち合わせするって言って、ましたけど……」
「じゃあ遣いが来られなかったんだろう。昨夜はそれどころじゃなかったんだ。マイラちゃん、カイだが、無事でいるだろうか」
「えっ」
マイラが目を見張る。「カイ……帰ってないんですか」
「ああ。昨夜ひと晩、警備隊の連中がずっと、うちの周りを包囲しててね。それも大っぴらにね。カイもバカじゃない。家に近づかずにひと晩どこかで過ごしたはずだ。グウェリンに行ってるんじゃないかと思ってたんだが」
「き、来てません」
マイラは首を振り、頬に手を当てた。顔色が悪い。
「昨夜、ひと晩中、包囲されてた……ん、ですか。夜中も? 明け方まで?」
「そうだ。エリックが嗅ぎつけた。〈窓〉を加工してるのがうちだとね……ここで作ってるわけじゃないから、家宅捜索されても困らんのだが……」
「ラオさん」
マイラは少しラオのそばに寄って声を潜めた。
「昨日の晩、兄様が家に来たの」
ラオが眉を上げた。「そうなのか?」
「ええ。私たちが〈窓〉を回収している目的に気づいたと言って。グウェリンが本気なのがわかって、〈信者〉の主張が無謀なのだということを悟った。だから、和解したいと、言いに来たの」
「和解!」
ラオの瞳がぱっと明るくなった。マイラもそれに勇気づけられるように微笑んだ。
「私も、とても嬉しかった。兄様が〈信者〉を抑えてくれるなら、私も、【最後の娘】として、それに協力すると約束した」
「……それでいいのかい、マイラちゃん」
「もちろん」マイラはうなずく。「それで、兄様は、明日の朝また来ると言って帰ったの。なのにどうして、その後も……ロビンソンの包囲を解かなかったんだろう」
「エリックは用心深い。とりあえず泥棒は捕まえておこうと思ったんだろうよ」
「……そう? やっぱり、私を信じなかったということ……」
「そうじゃない。あんたじゃなくて親父さんだ。ずいぶん長い間親父さんといがみ合ってきただろ。そうすぐには信頼できなくても仕方ない。交渉の材料は多い方がいいだろ。さっきもずっと包囲されてたんだが、朝飯を食う前かな、いきなり解かれたんだ。何の説明もなく、さーっとみんないなくなってな。カイが捕まったんじゃねえかと思って……そこにマイラちゃんが来たから」
「でも私、兄様に、カイとロビンソンになんらかの責任を負わせないことって、釘を刺したんです。それなのに」
「そうしてくれたのかい? ありがとうよ」
ラオは温かく笑って、マイラの肩をそっと叩いた。
「大丈夫、そうしてくれたんなら大丈夫さ。それにまだ捕まったとも限らんしな」
「『あの人』は……」
マイラが少し声を潜め、ラオはまた微笑む。
「まだ知らんと思う。別の部屋を借りてるからね」
「そうなんですか。あの……あの人の、捜している人の、消息が分かったの。これを渡してもらえませんか」
言ってマイラはラオに、折り畳んだ紙片を差し出した。
あの人って誰なのだろう、と私は思う。
ラオは頷き、紙片を受け取った。
「預かるよ。会ったら、さっきの話も伝えておくよ。いい知らせをありがとうよ、マイラちゃん。で、どこ行くんだね? さっきの話ならさ、そろそろエリックが来る頃じゃないのか」
「ええ、伯父様が、パトリシアにも立ち会ってもらった方がいいから呼んできてほしいと言われるので」
「ああ、そうだな。そりゃいい。あの人もきっと喜ぶだろう。無茶な孵化を強要されることがなくなりゃ何よりのことだもんな。よしよし、じゃあ、早く行っておいで。俺も店を開けて支度ができたら親父さんのところに行くからな」
「はい」
マイラは丁寧に頭を下げて、再び歩きだした。ラオは店に戻らず、私を見ていた。何か言うかと思ったが、言わないことにしたらしい。いい人のようだと私は思う。伯父様もシェイラも、マイラが私を連れているのを見て、まるで『誰か』そっくりだと言った。ラオもきっと、同じことを思った。でも、その言葉を言わないことに決めたのだ。
『優しい人のようね。あなたとはどういう関係なの?』
囁くとマイラは、微笑んだ。
「ラオさんは、私のおじさん、ということになるのかな。母様は、七人兄弟の五番目でね」
『まあ、賑やかなご家族ね』
「うん、私の今の父が、七人兄弟の長男。母様の上の姉、七人兄弟の四番目、ジーラさんが、ラオさんの奥さん。昨日会ったカイの、ご両親だよ。カイは私の従弟になる」
『へええ。それだけご兄弟が多いと、従兄弟も多いのでしょうね』
「うん、まあ……それにグウェリンは剣で有名な家だから、道場もやってて、門弟がどっさりいるの。私の父――母様の夫の座を射止めた父様も、それからさっきのラオさんもね、門弟の一人だったんだ。だから本当にややこしいんだよ、従兄弟の一人に至っては、最近まで顔も知らなかった」
マイラはどんどん歩いていく。どうやら、この国には乗り物というものがないらしい。どんな身分の人でも、みんなせっせと歩いている。この分では、パトリシアという女性を呼びに行くのもだいぶ時間がかかりそうだ。
『パトリシアさんって……あなたのお友達?』
訊ねるとマイラは首を傾げた。
「うーん……というより、兄様の恋人」
『では、お姉さまね』
「ああ、まあ、そうだね」
『どんな方?』
「気の毒な方」
即答だった。
私は首を傾げ、マイラは呟くように言った。
「本当に……気の毒な方。私は彼女に負い目がある。あの人には、本当に幸せでいてほしいと思ってる。でも……」
『でも?』
「……何でもない」
マイラは俯く。私は翼でぺしぺしとマイラの頭を叩いた。帽子からはみ出た黒髪が、私の翼に感情のかけらを伝えてくる。
苦手意識。疲弊。積み重ねられた心の澱。解放されたがっている心と、罪悪感。
『……苦手なのね』
囁くとマイラは、ううう、と唸る。
「私、そんなこと言ってない、ですよ」
『言わなくてもわかるわよ』
「ううう」マイラは両手で顔を覆った。「本当にもう……私って、そんなに分かりやすい?」
『ええ、とっても分かりやすいわ』
言ってやるとマイラは、とても悔しそうな顔をした。
苦手なのだ。馬が合わない相手なのだ。
私にもいた。子供の頃。
遠乗りで、兄たちが帰ってこなかったあのとき。むくれた私に、お父様が言った。お前にも、女の子のお友達が必要だね――それで連れてきてくれた人たちの中に、ひとり、とても苦手な人がいた。
そんな遊びが好きなんてバカみたい。
彼女の口からは、否定の言葉しか聞いたことがない。
そんなのだめよ。あなたには似合わない。
わたくしが選んだものが気に入らないなんておかしいわ。
ご本なんて必要ないわ。時間の無駄よ。
不思議なものだ。否定の言葉は、ただの文字の羅列にすぎないはずなのに、小さな私にのしかかってくるようだった。何を提案してもバカにされ、却下され、彼女の好みのものを差し出される。彼女が白だというので同意したら、違うそれは黒だ、と言われ、そうなの黒なの、と言ったら、白よバカじゃないの、と言われた。
私は彼女が苦手だった。でもお友達を苦手に思うなんて悪いことなのだと、思っていた。何しろ彼女は、兄たちに置いてきぼりにされた可哀想な私のために、お父様がわざわざ呼んでくれた『お友達』のひとりだった。彼女を拒絶することは、お父様の好意を無にすることだったから。
遠乗りの日が憂鬱だった。
そのうち、本当にお腹が痛くなった。
異変に気づいたお母様が、兄ふたりだけを連れていってくれるようお父様に頼んでくれたとき、本当に、心の底から助かった、と思った。
あのとき、お母様は私を助けてくれた。
優しい言葉で。優しい手のひらで。
そうなのだ。あの人は、いつでも優しかったのだ。
優しくなかったのは、私が〈兄〉に近づこうと、勇気を振り絞ったときだけ――。
『誰かを苦手だと、嫌いだと、思うことは、ぜんぜん悪いことじゃないと思うわ』
そう言うとマイラは、ふふ、と笑った。
「うん、母様にも言われたよ。自分を責める必要なんかないんだって」
『そう』
「ただあの人が私を憎むのは当然のことだから」
どう当然なのだ、と、私は思う。
今ならばわかる。私の『お友達』は、私を意のままにしようとしていた。支配しようとしていた。巧妙だったのは、他の人の前でその素振りを見せなかったこと。〈兄〉たちの前で見せる笑顔と、私の前で見せる笑顔は、まるで別人のようだった。
後で知ったことだけど、『お友達』は〈兄〉を狙っていた。英傑王の義理の孫に当たる〈兄〉。資産家で、現在は貴族ではないけれど、近い内に爵位を与えられるだろうと予想される家の跡継ぎの、奥方の座は、良家の子女たちの憧れだった。
『お友達』が私を踏みつけにし、踏みにじったのは、彼女にしてみれば当然のことだった。
私は彼女にとって、踏み台そのもの、だったのだから。
私の〈兄〉は、彼女の悪意に最後まで気がつかなかった。彼にとって彼女はどうやら、意識の範囲外にあったらしい。悪意どころか、好意にも、いやもしかしたら存在そのものにさえ、気がつかなかったのだ。
でもマイラのお兄様は……
『あなたのお兄様は、彼女があなたに向ける憎しみに、気づいていないのではなくて?』
囁くとマイラは首を傾げる。
「……どうかな。わからない」
『人の悪意に疎い人っているものよ。朗らかなまっすぐな心根の殿方は特にね』
「……あの人には孵化がこないんだ。あんなに魔力が強いのに」
『孵化』
「それがあたしのせいだと――ぜんぶ、あたしが悪いんだと。あたしが従わないから。諸手を挙げて、あの人を崇拝しないから……あたしが〈信者〉に、ならないから。裏切り者だからだって。不思議だよね。そう言われ続けると、そのうち、そうなのかもしれないって思えてくるんだ。あたしの味方はあの人だけだって。裏切り者を、それでも守ってやれるのは自分だけだって……」
『ひどいわね。その人は、あなたを支配下におきたいだけよ。大丈夫なの? これから、エスティ……なんとか、として、その人を、お兄様と一緒に支えていかなければならないのでしょ』
「兄様さえ信じてくれれば、あたしは大丈夫だよ。人魚との契約を無にできれば、〈毒の世界〉への扉を開けられるのはあたしだけだから……」
『でも……』
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ。……それで、コンスタンス。今日、話し合いが終わったら、貴女をシャトー様のところに送っていくからね」
マイラが話を変え、私は憤慨した。
『まあ! ひどいわ、まだ追い出すつもりだったの』
「え、だ、って。昨日そういう話になってたじゃ」
『私の中ではその話はもうとっくの昔に変わってるわ』
「か、勝手に変えないで。貴女がここを出なければならないことは変わらないよ。ランバート様もきっと心配してるよ? 早いところ、元気な姿を見せてあげないと……」
『私はね、その、ランバート、という人を知らないの。思い出すまでは赤の他人と同じよ、そんな人がどう思おうと、今のところは構わないわ』
「うわあ……今の言葉を聞いたら、ランバート様泣いちゃうかも」
『はっきり言っておきますけど、私はね、見ず知らずの人のところに行くより、貴女と一緒にいたいのよ。少なくとも記憶と体を取り戻すまではね。それに、お兄様との話し合いが整ったら、エスメラルダは平和になるのじゃなくて? 貴女の『泥棒』稼業も店じまいだし、平和な場所なら、私が体を失うこともそうはないでしょ』
「まあ……そう、だけど……」
『それなら、私、このまま貴女のそばで、記憶の回復に専念したいわ。貴女のそばにいると、どんどん思い出してくるみたいだもの。それに、きっと、記憶にある場所をたどるのがいいんじゃないかと思う。まずは、エクストラニクス男爵に会いに行きたいわ。それから、町中をのんびりみて回りたい。そうね、それから、お母様と二人だけで、のんびりお茶をいただくわ』
「……あたしは?」
『だって貴女はこの期に及んで私を追い出そうと企んでいるのでしょ。いいわよ、私たちはどうせ『大の仲良し』なんかじゃなかったのだし、貴女は私に、会いたくなんてなかったのでしょうから。でもお母様は私をあなたのお友達として遇してくださったし、お茶のお相伴をしたいとお願いしたらきっと喜んで許してくださるわ』
「……ええと」
『シャトーなんて見ず知らずの殿方に押しつけて、厄介払いしようったって無駄ですからね。送っていただかなくて結構よ。どうしても送っていきたいのなら、私を捕まえて籠にでも入れたら? 捕まりませんけどね、だ!』
言い捨てて私は羽ばたいた。近くの木の枝に止まって向き直り、彼女に嘴をつきだしてみせる。マイラは目を丸くしていたが、そのうち苦笑した。
「……昔からぜんぜん変わらないね、コンスタンス」
『あら、そう?』
「うん。本当に厄介な姫君だ」
むっとした。自分で思うよりもっとずっと、『会いたくなんかなかった』と言われた昨日の言葉が、胸に堪えていたらしい。
『よく言われるわ。どうせ私は厄介者よ。それに今は鴉ですもの、懇々と諭したって、聞き分ける鴉なんているわけないでしょ』
「貴女はいつも、自分のしたいとおりにする。それで、いいんだと思う。厄介なって言ったのは……たぶん貴女の〈兄〉たちも、同じ意味で言ったんだと、思うけど。貴女の『わがまま』に従わされるこっちは、困ったり焦ったり心配したりさせられるけど、それがぜんぜん嫌じゃないって、ことなんだ」
『意味が分からないわ』
でも、『嫌じゃない』とはっきり言った。
首を傾げてみせると、マイラは顔をゆがめて微笑んだ。
「本当はあたし、ここで、貴女を無理矢理にでも追い出しておくべきなんだ。兄様の口約束だけで全てがうまくいくわけじゃない、まだまだごたごたが続くはずだから。理性ではそう思うけど……でも。貴女がだだをこねてでもあたしと一緒にいてくれる、困るけどでも、それが本当は、嬉しいんだから。……本当に貴女は、厄介だ」
『なんだかよくわからないわ』
もう一度マイラの肩に舞い降りて、私は言った。
『でもそれ、私の責任じゃないんじゃない?』
マイラは微笑んで、また歩きだした。
「そうだよ。あたしの責任だ。だからお願い。あたしもお茶に呼んでよ。母様と貴女が仲良くお茶するのに、あたしだけ仲間外れなんてひどいじゃない」
『そうねえ、どうしようかしら』
「アデルという名の、兄様の『娘』が、もしあたしの推測どおりなら……あたしの知ってるアデルは、本当に料理が上手なんだ。そんじょそこらの料理人になんて、絶対作れないくらい、おいしい食べ物をどんどん作ってくれるんだ。もしアデルがその子だったら、お茶会のために、お菓子を作ってもらえるよ。パイとかケーキとかクッキーとか、本当に天下一品だよ。あたしが頼めば作ってくれる。あたしが頼めば、だけど」
『まああ』
私は思わず、くすっと笑った。
『それなら、そのアデルという子をお茶に誘えば済むのじゃないかしら。家に戻ったら着いているはずよね』
「意地悪……!」
『ふふふ、いいわ。みんなで一緒にお茶をいただきましょ。私、何が好きだったのかしら。甘いものはきっと大好きだったと思う、食べたら思い出すと思うの。貴女は何が好き?』
「チョコ、レー、ト!」
マイラが断言し、私は笑いだした。
『まあ、すごい熱の入れようね』
「アデルのチョコレートは何て言うか、信じられない味がするんだ。私はできるだけ、他のチョコレートは食べないことにしてる」
『まあ、そんなに?』
「アデルのチョコレートの思い出を壊したくないんだもん。ミルクたっぷりのチョコレートも好きだけど、中にナッツが入ってるのがまたたまらないんだ……いつもおみやげに持たせてくれるんだけど、こないだ最後のひとつを食べてしまって。ううう、食べたくて食べたくて困る」
『最近会ってなかったの?』
「うん、しばらく行けてなかったから。ああほら、禁断症状が出てる……見て、手が震えてる」
マイラが手を翳して見せ、私はまじまじとその手を見た。ぶるぶる震えているのは、どう見ても、彼女がわざと動かしている。
マイラと目があった。
そして私たちは、同時に吹き出した。
『嫌だわ、もう、食べたくてたまらなくなるじゃないの』
「あたしをお茶に呼んだ方がいいような気がしてきたでしょ?」
『そうね。そのアデリシアさんという方にお会いしたくてたまらないわ。……でもお兄様が、確か七歳だって』
「それが」
マイラが言いかけたとき。姉ちゃん! 姉ちゃん! と、声を潜めて呼びかける声に気づいた。
見ると、すぐそばの雑居宿の二階から身を乗り出しているカイがいた。元気満々で、なんだか、意気揚々としている。
「……カイ!」
「待って、今そっち行くから~」
カイは言って、あろうことか、二階からぽん、と飛び降りてきた。きれいに雪かきされた路地に着地して、立ち上がって、ニッ、と笑う。毛皮を着て、帽子もかぶって、剣も持って、準備万端だ。
「おはよう姉ちゃん、早起きだねえ」
「カイ、……ああ、よかった」
マイラはカイの二の腕のあたりをぎゅっと握った。
「ラオさんが心配してたよ。こんなところで何してるの?」
「姉ちゃんは知らないか。あのね、あそこ、兄さんが借りてる部屋なんだ」
マイラが目を見開く。カイは照れくさそうに笑った。
「昨日ね、警備隊がうちを包囲してたんだ」
「うん、聞いた」
「それでどうしようかなーと思ってうろうろしてたら、兄さんを偶然みっけてね。事情を話したら、じゃあ泊まっていいって言ってくれたんだ。兄さんはなんだか用があったみたいで、今日は帰らないから好きにしていいって」
「……どんな用?」
「なんか、人を捜してるって言ってたかな。〈窓〉もついでに工房に届けてくれたんだ。兄さんってさ、ほんっと親切だよね。俺どうしよう。あんな人が俺の兄さんだなんてもうどうしようどうしよう俺」
「……と、とにかく、無事でよかった」
マイラはやっと笑った。
「ロビンソンの包囲は解かれていたよ。さっきラオさんに会ったばかり。帰ってあげなよ、心配してたよ」
「姉ちゃんは、どこ行くの」
「うん、パトリシアを呼びに行くんだ。ごめん、さっきラオさんに事情は話したから……ちょっと急いでるから、ラオさんから聞いて」
「何言ってんの。俺も行くよ」
カイはあっさり言い、先に立って歩き始めた。マイラが慌てて追いかける。
「カイ!」
「どんな事情があるんだか知らないけどさ、パトリシア様と姉ちゃんが二人きりに……いやコンスタンスもいるけど、でもコンスタンスがただの鴉のフリをしてるなら、パトリシア様が何するかわかんねーじゃん」
「カイったら。何変な心配してんの」
「あの人はおかしいよ。姉ちゃんが【最後の娘】を担ったって知ったら、姉ちゃんに何するかわからない。姉ちゃんが言うこと聞かないなら、エスティエルティナが違う人間――言うこと聞いてくれる人間を選ぶように仕向ける、かも、しれないじゃないか」
「カイ」
「俺は姉ちゃんの護衛なんだ。この剣をもらったとき、そう約束したんだ。それにさ、男が一緒にいたら、パトリシア様はちゃんとエルカテルミナっぽく振る舞うでしょ」
ずいぶん辛辣な意見だ。私は注意深くその会話を聞いていた。まだ会ったことのない――たぶん――パトリシアという人物に対する評価が、自ずと定まっていく。
『エスティエルティナが違う人間を選ぶようにし向ける、というのは、どういう意味なの?』
伯父様がマイラに『護衛をつけたがる』のも、確か、同じ理由だったような気がする。
訊ねるとマイラが制止する前に、カイが言った。
「つまり姉ちゃんを殺すってこと」
「カイってば!」
『まあ……』
「エスティエルティナは姉ちゃんを選んだ。放棄しても放棄しても、何度でも姉ちゃんを選ぶんだ。それならさ……姉ちゃんが死ぬまで、他の人間を選ぶことはないって、ことになるじゃないか」
『……まあぁ』
「姉ちゃんの前の持ち主も、死ぬまで【最後の娘】だったんだ。一度放棄したけど、その晩にもう一度選ばれた。そうしたらね、五人もの人間が、その人を殺そうとした。何とか一命は取り留めたけど、ほとんど死ぬところだったんだ。……【最後の娘】には発言権があるからね」
『そうなの?』
「【最後の娘】はルファルファの代理人みたいな存在なんだよ。姉ちゃんがある主張を曲げず、エスティエルティナがその姉ちゃんを選び続けるなら、姉ちゃんの主張がルファルファの意志だ。そう捉える人間は本当に多いんだ」
『……そうなの』
「そうなんだよ」
「でもね、カイ。事情が変わったんだよ。兄様が昨日、家に来てね。和解したいと……」
マイラがカイに事情を説明する間に、あの巨大な建物が、正面に見えるようになっていた。びっくりするくらい大きな建物だ。私はマイラの声を聞きながら、その建物に見とれていた。白くて、綺麗で、雄大で、畏怖さえ感じさせるような巨大さだ。
あんなものを人間の手が作っただなんて。
聞き終えてカイは、ふうん、と唸った。確かめるようにマイラを見て、ニッと笑う。
「良かったじゃん、姉ちゃん」
「うん。本当に良かった。だから護衛はいらなくなったの」
「パトリシア様はまだ知らないだろ。俺はやっぱり一緒に行く」
「でも、ラオさんもジーナさんも心配してるよ」
「じゃあ、コンスタンス。手紙の配達を頼めない?」
カイがまっすぐな瞳で私を見る。そろそろ出番ではないかと様子を窺っていたところだったので、私は即座に頷いた。
『ええ、いい――』
「だめ!」
マイラが声を上げる。カイと私はびっくりしてマイラを見た。
「なんで?」『どうして?』
声も重なった。マイラは首を振る。
「だめだよ。こんな賢い鴉なんて異様だもの、絶対、人間が入ってるんじゃないかって疑われる」
「父さんと母さんがコンスタンスに何かするわけがないじゃないか」
カイが少し不服そうに唇を尖らせた。マイラはそれでも、頑なに首を振る。
「だめだめ、絶対だめ。ロビンソン商店の周りに、まだ警備隊が潜んでないとも限らないでしょう。そんな危険は冒せないよ」
『こんな鴉を誰が捕まえるっていうの? さっきのラオさんの顔は覚えているし、もちろん喋ったりしないわ。手紙を渡して、すぐに帰ってくるわ。それでも――』
「それでも」マイラは断固たる口調で言った。「絶対にだめ」
カイは呆れたように笑った。
「しょうがない。じゃあ急いでパトリシア様を呼びに行って、その帰りに無事な顔を見せるよ」
「ごめん。そうして」
マイラはまだ固い声で言い、足を速めた。私はむくれたが、まあ仕方がない、と思うことにした。エスメラルダの外に送っていこうとしていたマイラに、さっき我を張ったばかりだ。マイラの言い分は理不尽だとは思うけれど、これ以上我を張るのは気が引ける。
『私だって立派な大人なのよ。あんまり過保護だと思わなくて?』
ぶつぶつ言うとマイラは笑った。
「あたしと一緒にいてくれるって言ったでしょ? それは譲るから、今度は譲って」
『強情な人ね』
「貴女に言われたくありません」
「そりゃそうだ!」
カイがあっけらかんと笑う。この少年も朗らかな性根の持ち主だと、私は思った。
そして首を傾げた。
この少年『も』、ということは。
私は少なくとももうひとり、朗らかな性根の持ち主を知っているはずだ。そう。もう、わかっている。
『お友達』の悪意にも、好意にも、存在にさえ気づかなかった。書庫にこもると半日出てこなくて、ほったらかされたもうひとりの〈兄〉と私は拗ねたりした。高熱を出して死にかけて、魔力の素養を失って、それでも手放したくないと両親が泣いた、〈兄〉。
彼を、私はどうして思い出せないのだろう。私の中に、こんなにも、彼のかけらが残っているのに。今まで思い出してきた記憶のほとんどに、彼の面影を感じるのに。
名前も顔も、全然思い出せない。
唯一思い出せたのは、マイラと同じ色の、穏やかな灰色の瞳だけ。
まだ欠落しているのだ。何か重要な、彼に対する、とても大きな感情を、私はまだ取り戻していない。
その感情は何だろう。好意も友情も、既に思い出していると思う。喜びも。失わずに済んだ安堵も。羨望も、連帯感も。一緒に行動する楽しみも、冒険に臨むわくわくも、悲しみも拗ねる気持ちも、仲間はずれにされる寂しさも。
他にどんな感情を、あの人に持っていたのだろう。
――本当に貴女は厄介だ。言い出したら聞かないんだから。
――だから結婚して。
……あのとき、私は、どう思った? 何を考えた? どういう気持ちだったのだろう?
自覚していなかった欠落が、少し、実感できるようになっていた。私には、まだ何かが足りない。
それはいったい、何だろう……。
そして。
マイラとカイは、その家の前に立った。
マイラの家に少し似た雰囲気の、こぢんまりとした瀟洒な建物だった。
ちょうどそこに、その家から人が出てきた。シェイラと同年配の、やせ細った女性だった。でも似ているのは年齢だけで、シェイラの和やかさとは裏腹な、とても陰気な人だ。出かけるところだったらしいが、彼女はマイラとカイに気づくと、きちんとこちらに向き直り、丁寧に礼をした。
慇懃無礼、という言葉がぽつんと浮かぶ。
「おはようございます、マイラ=グウェリン様。お早いこと」
「おはようございます、サーシャ。パトリシア様はまだご在宅ですか」
「いえ、既に神殿へお出かけですが」
「そうですか」
頷きかけて、マイラは聞き返した。「神殿へ?」
「ええ。本日は一日、神殿で祭祀です。月次祭ですよ」
咎めるような言い方だった。何故知らないのかと言わんばかりだった。
「私も今から行くところです。グウェリン様は今月もご欠席ですか」
「え、え……」
反射のようにマイラが答え、サーシャという名らしいやせ細った女性は、敵意のこもった視線でマイラを見た。
「でしょうね」
軽蔑しきった言い方だった。
「失礼いたします。祭祀に遅れたくはありませんから」
扉に向き直って施錠し、さっさと歩き出す。マイラがもう一度その背に声をかけた。
「慰問のご予定だったのでは」
「毎月この日は月次祭です。グウェリンともあろうお方が、ご存じないなんてね」
「……」
マイラはもう声をかけなかった。サーシャはマイラを睨み、また礼をした。
そのまま、立ち去っていく。
「姉ちゃん……?」
カイがおずおずと声をかけ、マイラは頬に手を当てた。私は翼でマイラの髪にそっと触れた。
マイラの抱いている不吉な予感が伝わってくる。
「……行こう、カイ」
マイラがきびすを返す。ほとんど走るような足取りに、カイが慌てて追いすがってきた。
「姉ちゃん、どうしたの」
「伯父様が、今日はパトリシア様はエノス地区へ慰問だって言ってた。だから出かける前に、急いで呼んできて欲しいんだって」
「間違えたんじゃないの?」
「だと思う」
「なら――」
「……だと思うよ」マイラは一瞬、歯を食いしばった。「伯父様が、ただ、間違えたんだよ。でもどっちにせよ月次祭なら抜けてもらうわけにはいかないから。兄様はもう着いてるはず。アデルも来てるはず……だから……」
カイももう何も言わなかった。マイラは初めのうちは、速度を抑えようとしていた。でも、そのうち駆け足になった。カイも止めなかった。今来たばかりの道を、二人は並んで走っていく。
ふたりとも、びっくりするほど速かった。




