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海の女王と陸の花  作者: 天谷あきの


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30/43

真相

 このあたりの家はみんな静かだったが、エリックの目的地の家には人がいる、それが、外に立っていても分かった。さわさわと人の気配が動き回っている。


 ずいぶん大勢いるみたいだ、と、アデリシアは思った。五人くらいは、いるだろうか。

 エリックが扉をノックした。


 こん、こん、こん。


 とたん、家の中が静まり返った。エリックは怪訝そうに顔をしかめた。静まり返った家の中、こつこつと足音が響いてきて――


 ぎいい、と、扉が開く。

 出てきたのは、蒼白な顔色をした、サーシャと同じくらいの年頃の女性だった。顔立ちは優しげなのに、今は、まるで凍り付いてでもいるかのようだ。表情がない。今にも倒れそうな顔色だ。


「おはようございます」


 かすれた、平坦な声で彼女は言った。


「おまちしておりました、どうぞ、……おはいりください」

「シェイラ。マイラはどうした」


「マイラ様は」シェイラと呼ばれた女性が落ち着かなげに目を動かした。「すぐお戻りです。少し前にお出かけになられましたが……ど、どうぞ、お入りください、」


「マイラが戻るのを広場で待たせてもらう」


 エリックは言い、アデリシアの腕を引いた。家から遠ざけようとするかのように。アデリシアは居たたまれなかった。危険がぞわぞわと迫ってくる、そんな感じがした。

 と。


「エリック」


 シェイラの後ろから、車椅子に乗った年輩の男性が見えた。

 彼はとても優しい笑みを浮かべている。


「お入り、エリック。その子もつれて。ファムルも待ちかねている」

「……」

「さあ早く、入りなさい」


 慈愛に満ちた微笑みだった。ぞっとするほど優しい笑顔。


「どうしたのだね。ファムルが待っている」


 エリックの顔から、血の気が引いていた。


「母さんに……母さんに何をした」

「ファムルはここにいるよ。さあ、おいで」

「アデル。さっきの広場に走れ」


 言ってエリックは、ポケットに手を入れた。そこから取り出したのは、小さな剣だった。ぽん、という音を立てて大きくなったそれは、エリックの体格にふさわしい、大きな一振り。


 と、車椅子の男性が囁いた。


「その子もつれてこい」

「母さんはどうした。顔を見せろ」

「お前が来ればすぐに出て来るさ」


 エリックが舌打ちをする。剣の鞘を抜き、アデリシアの手を引いて、エリックはシェイラの脇を通って中に入った。


 入ってすぐ、居心地の良さそうな居間があった。くつろげる配置に長椅子がおかれている。その長椅子の背もたれに、ひとりの女性がもたれている。茶色の豊かな髪と右手が、背もたれからだらんと垂れている。


「……母さん……!」

「シェイラ。扉を閉めろ」


 車椅子の男は相変わらず優しい笑みを浮かべている。エリックは長椅子の女性に駆け寄り、抱き起こした。


 そして息をのんだ。


 仰向けにされた女性の胸が、真っ赤に染まっていた。力を失った顎が、がくん、とエリックの腕から仰け反った。


 アデリシアは悲鳴を上げた。彼女の胸にはまだナイフが付き立っていた。ナイフの根本から、じわじわと血が広がっていく。エリックがふるえる手で彼女の頭を支え、耳を寄せた。


「エリ……逃げ、……なさい」


 苦しそうな喘ぎ声が聞こえた。車椅子の男性が笑った。


「まだ息があったか」

「逃げ、……て」

「母さん!!!」


 女性の手から力が抜ける。エリックは車椅子の男を振り返った。


「なぜ! ……なぜだ、なぜ……!」

「なぜ、とは不思議なことを言うね。ファムルを殺したのはお前だ」


 車椅子の男性は笑う。その笑みが、皺深い顔から消えないのが異様だった。アデリシアは手を伸ばして、エリックの腕の中の女性に触れた。


 なんて綺麗な人だろうと、アデリシアは思った。

 でももう、二度と動かない。


 ――親分と、同じ。


「お前ごときに、〈信者〉を抑えることなどできるものか」


 優しい笑顔のまま、車椅子の男性は囁いた。


「絶対にできない。なにも知らないお前には無理なのだ。マイラもそれをわかっている。なのにあの子は逃げようとする。出来損ないのお前なんかを、何度でも信じようとする。だがもう、――逃げることなど許されない」


「逃げよう、エリック」


 アデリシアは硬直したまま動かないエリックの腕から、息絶えた美しい女性の亡骸を引っ張り下ろした。乱暴な動きになったことを心の中で詫びながら、エリックの腕を引く。


「この人が言ってたよ。逃げなさいって。逃げよう、早く! マイラのところに行かなくちゃ! マイラに知らせなくちゃ……!」

「ファムルを殺したのはお前だ。それを知れば、マイラも目が覚めるだろう。計画を止めることなどできない。この国から〈信者〉を一掃することはグウェリンの意志だ!」


「貴様……!」


 ぎり。エリックが歯を食いしばり、剣を手に立ち上がる。車椅子の男は笑う。全く変わらない笑顔。


「お前はヴァルターからエルヴェントラを簒奪した狂信的な〈信者〉だ。今更和解など虫が良すぎる。望みのとおり地獄への扉を開け放ち、〈信者〉とともにこのまま沈むがいい」


 アデリシアには何が何だかさっぱり分からなかった。

 でも、危険だ、ということだけはよく分かる。この男はエリックを怒らせようとしている。冷静な判断力を奪おうとしている。だからこの美しい女性は最期の息で言ったのだ。逃げろ。ここにいちゃだめだ。あの男の思いどおりになってはいけない。


「エリック、逃げよう! 逃げよう、逃げよう、逃げよう……!」


 アデリシアはぐいぐい腕を引っ張り、エリックは少し我に返った。アデリシアの手を握り、男に向き直る。


「逃げたらあんたは母さんを殺したのは俺だとマイラに言うんだろう」

「言うんじゃない。それはもう事実なのだ」


 怒りに我を忘れかけていたエリックが、必死で、自分を保とうとしているのが手に取るようにわかった。美しい人を殺され、その罪を自分に着せようとしている相手への怒りを何とか押しのけて、理性的な道を探ろうと、何とか自棄にならずに真っ当な道を探ろうとしている。パトリシアのためだ。ここで自棄を起こしたら、パトリシアまでが。


 なんとしてでも、守らなければならないから。

 そしてエリックは、何とか糸口を見つけ出した。


「伯父さん、あんたが爺さんに跡継ぎに認めてもらえなかった理由がよくわかるな。あんたは大事なことを忘れてる。グウェリンの意志を尊ぶのは結構だが、二千年以上も大切に守られ続けたエルカテルミナまで――」


 男の顔に浮かび続けた優しい笑みが、崩れた。

 男は声を上げて笑いだした。この上なくおもしろい冗談を聞いたというような、底なしに楽しそうな笑い声が、エリックの振り絞った最後の理性を無慈悲にたたきつぶした。


「はははははははは! エリック、ああ、エリック、お前は本当におもしろいな……! そうだ、私はバート=グウェリンから勘当された身だ、だが父は最期に間違えた! 私こそが正当な跡継ぎだったのだ! ファムルもその夫も腰抜けだった、そしてお前もだ、エリック=グウェリン! 父親そっくりの、腰抜けで滑稽な道化じゃないか……!」


「なん、」

「これを読め」


 ぽん、と。

 男はまるで犬に餌でも与えるかのような仕草で、エリックの前に折り畳まれた紙片を投げ捨てた。


「そうすれば全てがわかる。私がなぜこのようなことをしているのかも、全て」

「エリック」アデリシアは必死でエリックの腕にとりすがった。「逃げよう。だめだよ。もうすぐマイラが戻ってくる、外に行ってマイラに話そう、あたしが証人になるから! エリックが殺したんじゃないって言うから! マイラもきっと信じてくれるから、早く逃げよう!!」

「ファムルもその夫もヴァルターも、お前が殺したのだ」


 蔑むような声で、男は嗤う。


「もちろん、読まなくても私は構わん。真実を知らぬまま死ぬがいい。お前を信じようとした妹を絶望させ、恨まれながら。憎まれながら。呪われながら地獄へ行け」

「ヴァルターも」


 エリックの心が冷えていく。その音が、聞こえるような気がする。


「父さんも」


 ぴしぴしと凍り付いていく。エリックの頬は青ざめて、まるで死人のようだ。


「……あんたが、……殺したのか」


 シェイラが動いた。車椅子の男を庇うように、エリックと男の間に割り込んだ。アデリシアは必死でエリックの腕を引いた。あれを読ませちゃいけないと思った。

 読ませたら取り返しのつかないことが起こる。


「エリック、だめ……!」


 小さなアデリシアの手を振りほどくことなど、エリックには簡単なことだった。振り払われたアデリシアは尻餅をつき、エリックは紙片を拾い上げた。


 かさかさと乾いた音がする。

 シェイラの陰で、男はくすくすと笑った。


「誰の筆跡かわかるか。エスティエルティナに長年結わえられていた手紙だ。グウェリンの当主とエルヴェントラと、エスティエルティナしか知らない秘密が書かれた手紙――」


 紙片を持つエリックの手が震えている。アデリシアは立ち上がり、もう一度エリックの腕に取りすがろうとして、立ちすくんだ。


 エリックの瞳が藍色に染まっている。

 シェイラがひっと息を飲んだ。アデリシアも後ずさった。どうしても、どうしても、近寄れなかった。



 そこにいたのはもうエリックではなかった。

 全く知らない人だった。

 


 車椅子の男性が手を叩いた。音に応じて、今まで家の中に潜んでいた大勢の男たちが反応した。厨房の方から、廊下の方から、違う部屋の方から、玄関から、剣を持った若い男たちが現れた。窓からも。


「エリック=グウェリンがファムルを殺した。生死は問わん。取り押さえろ」


 男の声に従って、全員が剣を構える。エリックは少しよろめいて、足を踏みしめて立った。藍色の瞳はまるで深い海の底のようだった。レギニータ号に乗っていた〈白い子供たち〉を飲み込んだ、底知れない深い深い海の色――


「知っているのか」


 かすれた声がエリックの喉から漏れた。


「あんたも。父さんも、母さんも。マイラも。今までずっと……知っていたのか!!!」

「そうさ」


 男は嘲笑った。悪意が滴るようだった。

 彼は楽しんでいた。まるで美味しいものでも食べるみたいに、エリックの驚愕と絶望を、味わっているようだった。


 エリックが雄叫びをあげ――車椅子の男に斬りかかった。

 そのとき。


 車椅子の男がさっと立ち上がり、シェイラをエリックに向けて、突き飛ばした。「あっ」かすかな声とともにシェイラが倒れかかり、それを、エリックが斬り捨てた。血しぶきが上がった。シェイラが倒れ伏す。エリックの後ろから斬りかかった若者を剣の一閃で払い、エリックが吠えた。


「殺してやる! みんな殺してやる、みんな……!」

「エリック」


 アデリシアは呻いた。未だかつて、一度も、こんなに無力な呼びかけをしたことはなかった、と思った。


 背後から来た若者がアデリシアを押し退け、エリックに斬りかかる。アデリシアは倒れ込んだ。開け放された扉から雪混じりの風が舞い込んでいた。そこに座り込んで見つめ続けることしか、アデリシアにはできなかった。さっきアデリシアを押し退けた若者が、エリックに斬られて倒れ伏した。血しぶきが雨のように降りかかってきた。


 どうしてだろうとアデリシアは思った。


 暑さも寒さも感じることのないはずなのに、その血はとても温かい。

 まるでニースに抱きしめられた時みたい。


 抱きついてくれるマイラの、小さな手のひらみたい。


 こと切れたシェイラの瞳がアデリシアを見ている。じわじわと流れ出す血液も、温かいのだろうか。またひとつ死体が増え、車椅子の男――全ての元凶の、声が、若者たちを叱咤する。


「討ち取れ! 討ち取れ! 討ち取った者をグウェリンの跡継ぎと認める! 殺せ、殺すのだ……!」


 マイラがここに帰ってきたらどうなるのだろうとアデリシアは思う。

 この殺戮にマイラが巻き込まれることだけは、あってはならない。そう思う。

 なのに、アデリシアは動けなかった。そこに座り込んだまま、呆然としたまま、アデリシアはそれを見ていた。エリックが、一人、また一人と人間を殺していくところを。知っていたのかと叫びながら、殺し続けていくところを。


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