いいこと
エリックの家で、アデリシアは眠れないひと晩を過ごした。
お腹はいっぱいだし、居心地も悪くない。でも、ユーリのことが気がかりだった。もしあそこでユーリに会えなかったらどうなっていただろう、そう考えるとぞっとする。あのパイを、ひとりで、『捨てた』ことにするためだけに食べることになっていたら。『捨てた』と嘘をついて、サーシャの前に戻ることになっていたら。アデリシアは凍え死ぬことはない。でも、心が凍り付いてしまったに違いない、そんな気がする。
ユーリはあの時、アデリシアの気持ちを救ってくれた。その礼を充分にできないまま、会えなくなるのは辛い。といって、どこへ行けば会えるのかわからない。ロビンソン商店の息子だと言っていたけれど、あそこに行ったらまたエリックに見つかってしまうだろう。
エリックと一緒に行くと決めたときは、あんまり深く考えていなかった。またすぐ会えるだろうと、簡単に考えていたのだ。
でもひと晩の内に思い知った。アデリシアは、ユーリのことをほとんど何も知らないのだ。
エリックはといえば、アデリシアをここにつれてきて、屋台で調達した食事をたっぷり置いて、朝になったら迎えに来る、と言いおいて、そのまま出て行ってしまった。白々と夜が明け始めても、まだ帰ってこない。
いつまで経っても、マイラに会えそうな気もしない。
自分のふがいなさにしょんぼりして、窓枠に肘を乗せて、外を眺めていた。そのとき。
ふんふんふん。
変な音が聞こえた。
くんくんくん、ふんふんふん。どこかで聞いた、懐かしい音。アデリシアは身を乗り出し、窓から下を覗いた。ふんふんふんふん、くんくんくんくん。音はまだ続いている。そして。
出し抜けに、若草色の瞳と目があった。
巨大な犬が、ぐうん、と背伸びをして、前足をこの窓枠にかけたのだ。
「――わっ!」
アデリシアは思わず声を上げた。犬だ、真っ先にそう思った。かつてレギニータ号に乗っていた、耳の垂れた大きな牧羊犬を思い出した。そうだ、あの音は、犬が匂いを嗅ぐ音だ。仰け反ったアデリシアを追いかけるように、犬は鼻面をのばしてくる。
すっと通った鼻筋。ぴん、と尖った耳。ふさふさした銀色の見事な毛皮に、凜々しい顔立ち。
レギニータ号にいた牧羊犬とは似ても似つかない。なのに、匂いを嗅ぐ音と瞳の優しさとが、とても似ていて。
「……でっかい、犬……」
思わず呟いたその瞬間、犬がむっとした。目を見ただけでそれがはっきりと分かった。瞳に、紛れもない知性を感じる。アデリシアは慌てて手を振った。
「あ、ご、ごめんなさい。えっと……」
図鑑で見たことがある。この雄大な体躯を考えあわせても、これは犬じゃない。はずだ。
「狼さん」
おう、と言うように狼は頷く。アデリシアはまだまじまじと狼を見ていた。アデリシアの二倍はありそうな巨大さなのに、どうしてか、全く恐怖はなかった。狼はまだ珍しそうに、ふんふんとアデリシアの匂いを嗅いでいる。
「おなか、すいてるの?」
訊ねると狼は、ぶんぶん、と頭を振った。
「じゃあ、あたしに何か、用事?」
返事はなかった。アデリシアはしばらく待った。狼は不思議そうな顔をして、ふんふんふん、と匂いを嗅いでいる。
「何か、くさい……?」
ぶんぶん、と頭を振られ、アデリシアはほっとする。
「じゃあ……」
そこで思い至った。そうだ。
アデリシアは今、人間のふりをしているのだった。
「ええと……あたし、人間じゃないんです。匂いが、変ですか」
狼はちょっと首を傾げた。アデリシアは思い至って、ぞっとした。この狼は、もしかして、猟犬になったりしないだろうか。パトリシアの持っていた、あの豪奢な毛皮。値が付けられないほどの価値のもの。
今まで会ってきた人々は、皆、アデリシアの正体を見破ることはなかった。
でもこの狼は、やすやすと見破ったのだ。当たり前だ。匂いを変えるすべなど、アデリシアは知らないのだから。
「あの、あの。あの……悪いことは絶対しませんから、あの、あの、あの。秘密に、しておいてもらえませんか」
狼はあっさりと頷き、アデリシアはかえって驚いた。
「あ、そ、その……ありがとう」
いえいえ、どういたしまして。
なぜだろう、狼が言いたいことが、少し分かる気がする。ずいぶん感情表現の豊かな狼だ。アデリシアは微笑んで、指先で、そっと狼の毛皮を撫でた。
なんてふかふかとした、見事な毛皮だろう。
狼は気持ちよさそうに目を細め、また、ふんふんふん、と匂いを嗅いだ。それから、辺りを見回すようにした。まるで誰かを捜すように。
「誰か、捜してるの……?」
ぴくり。
狼の耳が動いた。
アデリシアはだいぶ遅れて、その音に気づいた。誰かが、狼のいる路地をやってくる。ううう、狼の喉からかすかな唸り声が漏れる。こつこつこつ、足音は角を曲がって。
そこから、ユーリが現れた。
「なっ」
驚きの声が、ユーリの喉から漏れる。角を曲がったその場で立ちすくみ、彼は狼をまじまじと見ている。町中でいきなりこんな大きな獣に遭遇したら、それは驚くだろう。アデリシアは声を上げた。
「ユーリ。大丈夫、この狼さんはとても賢いから」
「アデル」
ユーリはまだ狼に目を向けたままだ。
「無事でよかったよ……いや、賢いのは当たり前だ。銀狼だよ、銀狼。伝説の生き物……いや、アデル」
やっとアデリシアの方を向き、ユーリは微笑んだ。
「無事で良かったよ。今なら見張りがいないから、よかったら一緒においで」
嬉しさが胸に渦巻いた。
「行っていいの?」
「もちろん。一晩中、近くにはいたんだけど、あの路地にずっと見張りがいたんだ。だから今まで来られなかった。でも今なら誰もいないから」
「見張り? が、いたの?」
「そう……」
言いかけてユーリは、もう一度銀狼を見た。
銀狼は少し離れた場所にいた。ユーリが来た方の路地を気にするようにしている。ユーリはまじまじと銀狼を見、ややして、言いにくそうに言った。
「そんなことあるわけないって気がするんだけど……でも人魚のことだからもしかしてあり得ないわけじゃ、ないかもしれない」
意味が分からない。「なにそれ?」
「でもさ……でも……どうしても、そうとしか思えなくて」
「なにが?」
「フェルディナント」
ユーリは銀狼にそう呼びかけた。
「……フェルディナント。なのか」
銀狼が振り返った。
その若草色の瞳に浮かんでいたのは、確かに怒りの色だった。がう、銀狼は怒りの唸り声をあげた。ユーリが詰め寄る。
「やっぱり……! フェルディナント、コンスタンスは!? コンスタンスを知らないか!」
つーん。
銀狼は見事にそっぽを向いた。
「知らないね、って言ってる」
アデリシアはつぶやき、ユーリは路地に片膝をついた。
「怒るのは当然だ。僕は貴方に二度と顔向けのできないことをした。だがあの場にコンスタンスが現れるなんて想定できたことじゃなかったし、人魚がまさか銀狼に変えるなんて考えもしなかった。だから、その、虫のいい話だとは思うけど、どうか、貴方の暗殺と、僕がコンスタンスを捜してることとは分けて考えて欲し」
出し抜けに。
狼が、ユーリに襲いかかった。
アデリシアは思わず目を覆ったが、狼は別にユーリを食べようとしたのではなかった。その腹を下からすくい上げるようにして背に乗せると少し移動して、路地裏に飛び込んだ。がたん、痛そうな音に紛れて、低いうなり声が聞こえた。アデリシアは思わず窓から飛び降りた。ユーリと銀狼の消えた路地裏はしんと静まりかえっている。
その時、足音が聞こえた。
「アデル」
角を曲がって、エリックが姿を見せた。
あの狼はエリックが来るのに気づいてユーリを路地裏に隠したのだ、とアデリシアは悟る。
エリックは徹夜なのだろうか、少し疲れた様子だった。路地に立ちすくんでいるアデリシアを見て不思議そうな顔をする。
「何やってる、そんな格好で。寒いだろう」
「え、あ」
「上着を持ってこい。行くぞ」
「ど……どこに?」
「早くしろ。朝飯は行った先でもらえるだろう……たぶん」
アデリシアは目を瞬いた。エリックの目が、優しい。
昨日までエリックの瞳の色は、周囲を睨み回すような険しさを湛えていた。
でも、今朝は違う。とても穏やかな色をしている。
表情も柔らかい。徹夜のせいか、疲れているせいか、それとも。
エリックはアデリシアが動かないのを見て、怪訝そうな顔をする。
「なんだ。俺の顔に何かついてるか」
「エリック……何か、いいことあった?」
「いいこと」
繰り返して、エリックは笑った。
アデリシアはどきんとした。
「ああ、いいことがあったんだ」
思いがけず、素直な言葉だった。
よほど嬉しいことがあったのだ。悟って、アデリシアは思わず微笑んだ。エリックは照れたように頭をがしがしかいた。
「……お前に会いたがってる人間がいる。早く支度して一緒に来てくれ」
「うん」
嬉しい。アデリシアはぽんと飛び上がって扉に回り、エリックの家に飛び込んだ。上着を着て、帽子をかぶって、窓を閉めて、外に飛び出す。
「会いたがってる人って、誰?」
「俺の妹だ」
「妹!」
びっくりして、ますます体が飛び跳ねる。エリックの妹、と言えば、マイラのはずだ。さっきまでどうやったら会えるのか見当もつかなかったのに――あまりの幸運に体を落ち着けていられない。エリックはそれを見てまた笑った。
「マイラ=グウェリンと言う。会いたがってる」
「うん。あたしも会いたい!」
「そうか。じゃあ行こう」
エリックは言うなり手を伸ばしてアデリシアを肩に担ぎ上げた。アデリシアは大喜びでエリックの頭にしがみついた。昨日と変わらず、頭髪は意外に柔らかい。
ねじ曲げられていたんだと、アデリシアは思った。
エリックはきっと、ねじ曲げられていたのだ。何かの力で、無理矢理に。それはきっと、バターを食べてはいけないとか、砂糖は不浄なものだとか、そういうわけのわからない理不尽な物事だ。
昨日、なにがあったのかはわからない。でもきっと、その理不尽な出来事が取り払われたのだ。アデリシアはそう思った。そう、アデリシアがユーリに偶然出会って、おいしい食べ物を捨てろという理不尽な出来事を、あっさりと払拭してくれたみたいに――。
エリックの肩に乗っていると、視界がとても広い。
アデリシアはすがすがしい気持ちで辺りを見回した。
後ろを振り返ると、だいぶ離れた場所を、ユーリがつかず離れずついてきているのがわかる。あの人はいったい何なのだろうと、エリックに気づかれることのないよう視線を前に戻しながら考えた。ロビンソン商店の息子、という以外、アデリシアは何も知らない。たぶんエリックにとっては敵にあたる立場にいるのだろう。あの銀狼は本当に、フェルディナント、という名前だったらしいけれど、いったいどういう関係なのだろう。
そして、コンスタンス。
――行方不明になってしまった、シャトー家の『お嬢様』の名前が、きっとそれなんだ。
無意識のうちに、エリックの柔らかな頭髪を撫でながら、アデリシアは考えた。
――コンスタンスお嬢様が見つかったら、何を食べさせてあげるのがいいだろうか。
マイラの大好物は、何はともあれチョコレートだ。ナッツを砕いたのが入った濃厚なチョコレートはニースの特製で、親分も遊びに来るといつも食べたがった。ラムレーズンをバタークリームで和えて、しっとりしたビスケットで挟んだお菓子もマイラの好物だ。あれならきっと、コンスタンスお嬢様も気に入るはず。マカロンもいい。シュークリームも。それからそれから……
「あたしお菓子を作るのが好きなの」
思わず口から言葉がこぼれ出た。
返答を期待したわけじゃない。言ってからアデリシア自身が驚いたほどだ。でもエリックは意外にも、そうか、と言った。
「俺は食う専門だ」
「うん」
こみ上げる何かを、アデリシアは必死で飲み下した。
最近いつも、アデリシアは作ってばかりだった。仕方がない。ニースはもう動けなかったし、ニースのレシピを完全に再現できるほどの腕を持っているのはアデリシアだけだった。親分が好きだったあのチョコレートもミートパイも、ニースが作ってくれたのはもう二十年近くも昔のことだ。
「……人に作ってもらうのって、嬉しいよね」
だからだったのだ、と、今更アデリシアは思う。
サーシャに出されたあの質素な食事が、なぜあれほど悲しかったのか。卑しいことだと思いながら、不満を抱かずにはいられなかったのは、なぜだったのか。
アデリシアが誰かほかの人から食事を振る舞ってもらったのは、二十年ぶりのことだった。
「人に作ってあげるの、楽しいし、大好きだけど。あたし……もう、ニースに、ご飯を作ってもらうことはないんだな……」
「大事にされてたんだな」
エリックは言って、とんとん、とアデリシアの背を叩いた。
「ニースって、お前のばあさんだったか。ばあさんはお前を、大事にしてたんだな」
鼻の奥がつーんとした。
そんなこと言うなばか、と、アデリシアは思った。
喉の奥まで痛むじゃないか。
「……う、ん」
「しょうがない。大きくなるというのは、そういうもんだ。ニースに大事にされてたぶん、今度はお前が誰かを大事にしろ。そうやって巡っていく」
「エリックは」咳払いをひとつ。「小さい頃から大事にされてたから、今はパトリシアを大事にしてるんだねえ」
「……」
エリックは黙って、またアデリシアの背を叩いた。今度は結構痛かった。
「生意気言うなよ、七歳のくせに」
「七歳だってね、ちゃんと意見があるんですよ」
実際のところアデリシアは、少なくとも四十歳以上だ。体がまだ未熟なせいか、そんなに年を取ったという気はしないのだが、エリックに『生意気』と言われる筋合いはない。唇を尖らせていると、エリックは笑った。
「そうだな。確かに、そのとおりだ」
「よかったね、エリック」
アデリシアは前を見て、しみじみと言った。
「いいことあって、ほんとによかったね」
返事はなかった。エリックは黙ったまま、アデリシアを肩に乗せて町を歩いていった。まだ時間が早いから、歩いている人はほとんどいない。朝食を取ったり支度をしたりする気配が、あちらからもこちらからも立ち上ってくる。
ちらほらと雪が降っている。ややして、広場に出た。一見して子供の遊び場と分かる広場だった。中央に雪に埋もれた噴水があり、でこぼこの塀があちらこちらに配置されている。春が来たら、きっとここに子供が帰ってきて、にぎやかに遊ぶのだろう。
広場を抜け、閑静な住宅街に入る。正面に瀟洒なこぢんまりした家が見えてくる頃、エリックは呟いた。
「……そうだな」
そして、エリックはアデリシアを下ろした。ふたりは並んで、その家の前に立った。




