早朝の邂逅
数分も飛ばないうちに、広場が見えてきた。
噴水がある、広々とした広場だ。雪に覆われているが、こんもりとした小山のようなものが噴水だと気づいた瞬間、記憶が刺激された。
わあっ――子供たちの歓声が吹きあがる。
そこはきっと、子供の遊び場として整備された広場だった。いくつかの窓の開いた塀が、周囲と、所々に配置されていて、おまけに塀の高さはわざとでこぼこにしてあるのだ。中に入って遊べる噴水もあり、子供が潜り込むのにちょうどいい長さの土管が地面に固定され、私たちは初めの半刻で、この広場の虜になった。
でこぼこの塀は、遊びによって様々に変化するような気がしたものだ。大勢の兵に今にも攻め落とされようとしている砦にもなったし、大海原で嵐に翻弄される船にもなった。美しい静謐な泉をその奥に隠した深林にもなり――広場に集まってくる大勢の子供たちと一緒になって遊んだのが、初めての夏。秋が来て雪が降り出すと、子供たちは塀のでこぼこにせっせと雪を詰め、周囲にも雪を積み重ねた。夜が来るごとにそれは凍り、次第に大きく頑丈に育っていった。そして表面を削ると、滑り台になった。本格的な冬が来て子供たちがみんな来なくなるまで、この広場に毎日通った。雨の日さえ土管の中で遊んだ。
そして、春。
そうだ。あれは春だった。
兄たちに置いてきぼりにされて傷ついた私は、あの子に出会った。あの子と、エクストラニクス男爵に。
幼かった私がたどり着けたのだ。それほど遠くなかったに違いない、と考えた。そしてその推測が当たっていたことはすぐにわかった。広場を越え、数分も飛ばないうちに、もう誰も閉じこめてはいないはずの、あの箱庭が見えてくる。マイラの家から、鴉の翼でほんの十数分程度。人間が歩いても、半刻もかからずにたどり着けるだろう距離だ。エクストラニクス男爵の梢が見えた――それで既に、辺りがそれほど暗くないことに気づいた。
夜明けがすぐそこまで来ている。
暖かくなったらここに巣を作りたい。鴉が伝えてきた。
この木はすごくいいよ。さいこう。
マイラがこの箱庭にいた頃、この木に巣を掛けた鳥はいたのだろうか。そう思いながら、私は首尾よく枝に着地した。――と。
人がいる。
鴉が言い、私は驚いた。こんな時間に?
怖くない人。暖かかったね。いい気持ちだった。
そう言って鴉は、下をのぞき込んだ。大きな枝にぶら下げられた吊り椅子に座る、その人が見える。
お母様だ。
一瞬、そう思った。でも違う。それは、マイラのお母様――ファムルと呼ばれていた、あの美しい人だった。
彼女はずいぶん前からここにいたらしい。吊り椅子に積もっていたはずの雪は丁寧に落とされ、毛布やクッションがたくさん置かれて、できるだけ寒気を和らげようと試みたことは明らかだ。
やっぱりそうだったのだ――そう確信しながら、私は彼女の前に舞い降りた。
あの時エクストラニクス男爵の話を聞かせたのは、私への伝言だったのだ。
ところが。
「……まあ」
私を見て、彼女は本当に驚いたようだった。絶句し、硬直し、そして――彼女は椅子から地面に座り込んだ。いや、滑り落ちた、といった方が正しい。
「まあ、まあ、まあ……まあ、本当に。本当に、あなた、あの」
彼女は言って、自分を抱きしめるような仕草をした。心臓の上を手のひらで押さえたのだとすぐにわかった。心臓が飛び出さないように。
「……コンスタンス。貴女なの」
『まあ。貴女も私をご存じなのですか』
思わず言うと、お母様はまた絶句した。
それから、あああああ、と声を漏らした。
「……ああ、驚いた……。マイラがお友達だというから、お友達と言えば私の知る限り、コンスタンス、貴女しかいないのだもの、だから……」
言いかけて彼女は、ふふふ、と笑った。
「ご無沙汰しています、コンスタンス=ガルフィン様。お元気そうで……あのう、実のところ、お元気なの? 貴女は」
『ええ、元気です』私は一礼して見せた。『少しだけわけがありまして、今は鴉ですが。あの……私、鴉になる前の記憶がほとんどないんです。マイラのお母様まで私をご存じだったなんて』
「まあ……。それはあまり、お元気とはいえないわねえ……。記憶をなくしてしまったの?」
『そうなんです。私を、不義理な娘だと思わないでくださるといいのですが』
「落っことしてしまったのなら、それは貴女の責任じゃあないでしょう。ええ、でも私の方は、貴女にもう一度お会いできるのを本当に心待ちにしておりました。十年ぶりかしら……いえ、ええ、十二年ぶりだわ。まあ、もうそんなになるなんて」
『十二年、前?』
「そうよ。私は一日たりとも、貴女を忘れた日はありませんでしたわ。ふふ」
なぜだかお母様は楽しそうに笑った。
「確か、七歳でしたね。とてもきちんとした、はきはきしたお嬢さんでした。本当なら、私あのとき、貴女を追い出さなければならなかったんです――そこの陰で」彼女は生け垣の一角を指さした。「貴女たちが遊ぶのを見ていました。出て行って、断ち切ってしまうには、あまりに……宝石のような時間だったものだから……なかなか、出て行けなくてね。そうしたら、マイラより先に、貴女が私に気づいた。私、それでも出ていけなかったの。貴女が私にお辞儀をしたから」
『……覚えていません』
「私はよく覚えていますわ。マイラはね、それで私がいるのに気づいて……自分から、帰ろうとしたんです。貴女が叱られるのではないかと心配だったんでしょうね。貴女はそれを引き留めた。マイラの手をしっかり握って、私の方を気にしながら、マイラに訊ねたの。どうして帰るの? まだお日様が高いから、私は帰らなくてもいいんだけどって」
『まあ、すみません、不躾で』
「とんでもない。……帰らなくちゃいけないから、とマイラが答えると、貴女はまじめに聞きました。何か用事? って。いいえ、と答えるでしょ、用事があるわけじゃないのだもの。ここからが傑作だったわ。あなたはマイラに、『どうしたいの』、って聞いたの。『もっと遊びたくないの? 遊びたくなくなったのならそう言って。それなら帰るから』って。――まあ、そんな風に言われたら、マイラが否定できるわけがないわ。あの日は、七歳のあの子にとって、人生で最良の日だったのだから。遊びたいよ、でもダメなの。あの子がそう言ったら、貴女は私を見据えた。ほとんど睨むみたいに、まっすぐに。そして、『あそこにいらっしゃるのはあなたのお母様よね、あなたが本当に遊びたいなら、きっとお母様は反対なさらないと思う』私の方を見ながら貴女はそう言ったの。『お母様はきっと、あなたが望むことをさせてくださると思う』、って。……そう言われて追い出せる母親が、どこの世界にいると思って?」
『……それ、本当に、私の話……ですか?』
記憶にない。全く覚えていない。私が覚えているのは、この箱庭の中で、マイラと一緒に過ごした、宝石みたいな午後のかけらだけだ。それに、違和感もある。私はそんなに、見知らぬ大人に向かって、毅然と、自分の希望を述べることができる子供だっただろうか。
希望を隠して。
大好きな人から逃げて。隠れて。
叱られないように。詰られないように。母の言いつけに背かないようにと、縮こまって、ただあの人の優しい気持ちから逃げ続けていた、卑怯で臆病で怠惰な人間。それが私だった、ような、……気がするのに。
お母様は私の呟きに、真面目に頷いた。
「エクストラニクス男爵の存在を知っていたのだから、貴女に間違いないと思うわ。……私、一日たりとも忘れたことはなかった。ずっと考えていたの。マイラが望んでいることは、何なんだろう。七歳の貴女に教えられて思い知った、と言ってもいいわ。あの子は……マイラは……七歳にして既に、自分の望みを、希望を、口にしてはいけない生活をしていた。聞き分けがいい子だった。私に見つかってすぐに帰ろうとしたのを見て、それがわかった」
『それまで……わからなかったのですか?』
「聞き分けがいい子だったのよ。自分を隠すのが、上手な子だったの。箱庭の中にいなければならないことを、一度も嫌がったことがなかったから。……でも、貴女とここで遊んでいるのを見て……あんなに楽しそうな、幸せそうな、あの子を、見たのは、初めてだった。そして私を見つけた瞬間に、あの子は」
お母様は言葉を切り、咳払いをした。
「……夢から醒めたような顔をした。何もかも諦めたような顔」
『……そうですか』
「私はあの子から、夢を奪う存在だったんです。……それを思い知りました。一日たりとも、忘れられるものですか」
『ご、ごめんなさい……』
思わず謝り、お母様はぷっと笑った。
「いやだわ、どうして謝るの。……とにかくあの日から私は、マイラから夢を奪う存在ではなく、与える方の存在になりたいと望んできました。難しかったですわ。今も、そうなれたという気がしません。自分の夢を隠してでも、人から望まれる行動を取ってしまう子ですから……どんな夢を持っているのかを探るのが、まずとても難しかったんです。
それでね、ひと月ほど経ってから、だったかしら。私、本当に、あの子を自分があまりにも知らなさすぎるのだと思って……あの子がいつも上っていた高さまで、この木を上ってみたの」
『まあ』
「恐ろしかったわ……でもこの木の枝は太いから、何とか……梯子も使いましたが、やり遂げましたよ。そしたら見えたの。アナカルシスの王子様が、地区一番の高い木の上に登って、ひなたぼっこしているところ」
『アナカルシスの……王子様』
「そう。あの子の初恋の相手です。見ていると王子様は、こちらに気づいて手を振りました。それから、たぶん下にいた子に呼ばれたんでしょうね、びっくりするほどの速さで下に滑り降りて、下にいた子供たちに合流しました。そこからチャンバラごっこが始まって。思わず、見とれてしまいました。あんまり広い範囲を縦横無尽に駆け回るんですもの。傍らにはいつも茶色の髪の参謀がいてね。そのまま広場になだれ込んだと思ったら、女の子たちも巻き込んでまた別の遊びが始まって……私、思わず、呟いたの。あそこに入っていきたくなるわね、って。マイラは驚いて、母様もそう思うの? って言ったの。それが、初めの一言だった。あの子が私に、遠回しにだけど、自分の願望を漏らした……初めの一言。
だから私、王子様との婚姻を整えてくださるよう、シャトー様にお願いしたんです」
『……』
「あの子の望みは……ずっとずっと、王子様とその右腕と、二人が大切に守っているお姫様。その三人の輪の中に入りたい、という、ことだった」
『その王子様の名前は……フェルディナント、と、言うのではありませんか』
訊ねるとお母様は微笑んで、頷いた。
「そうですわ。……あの方はご無事かしら」
『ええ』
頷くとお母様は、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「そうですか。よかった。……ヴァルターが死んで、マイラは、自分の夢を求めている状況ではなくなってしまいました」
『さっきは、とても、嬉しそうでしたね』
「ええ」
お母様は言って、立ち上がった。
気がつくと、辺りはすっかり朝だった。きらきら輝くお日様が、もう頭のてっぺんをのぞかせている。
「大勢の国民を、見殺しにしないでも良くなりました。兄と和解して、気の毒なエルカテルミナをともに支えていけるようになりました。それはとても喜ばしいことです」
『……そうなのですか』
「喜ばしい、ことでは、あります」お母様は朝日に目を細めながら、繰り返した。「……でもそれが、本当に、あの子の望みなのか……ひと晩ここで考えましたが、それがわからないの」
『王子様が生きていて……』
選択肢がなかった、と、あの王子様は言っていた。
どうか僕を恩知らずだと思わないでほしい、と。
『この国も地位も何もかも捨てて一緒に来てほしい、と、もしあの人に言ったら、……あの人はどうするのかしら』
「コンスタンス」
お母様は、しゃがみ込んで、私を吊り椅子の上から抱き上げた。肩に乗せて、羽を撫でながら、言った。
「あなたは……どうするのが良いと、思いますか」
『私、ですか』
「ええ……いえ、いいんです。兄は私を警戒しています。私が、エスメラルダというこの国よりも、マイラの望みの方を優先してやりたがっている、ということを、兄は知っていますから」
『そう……なのですか』
「兄は昔から……少しその、やりすぎるところがあって。兄は長男ですが、父は、兄の性根を警戒して、跡継ぎに選ばなかった。選ばれたのは、私の夫でした。夫が死んで兄は、グウェリンの当主の座を占めるようになりましたが――ええ、いえ、いいんです。とにかく、兄は私を警戒している。きっと、父に選ばれなかったという恨みもあるのでしょう。
その兄にとって、グウェリンは一番大切なもの。何をおいても守らなければならないもの。マイラは【最後の娘】です。マイラがこの国を守り導いていくのは、兄にとっては当然のこと。でも私にとっては……マイラは【最後の娘】じゃない。姫でもない、姫の生まれ変わりなんかじゃない、私の大切な、娘なの」
『はい』
私は頷いた。その気持ちは理解できる、と思った。
『兄』は私にとって、『シャトー家の跡継ぎ』ではなかった。心の底から大好きな、たった一人のあの人だった。
そしてマイラも。
私の頷きに、お母様は嬉しそうに微笑んだ。
「……私はマイラと二人きりで話すことができません」
『そうなのですか』
「ええ。兄かシェイラがいつも……さっき、気がつきませんでしたか。マイラが家にいるときは、いつも、窓の外に誰か見張りが」
『……そうなのですか?』
「ええ。まあ、マイラもグウェリンの一族ですから、勘は鋭い方だから、少し離れた場所にいたでしょうけれど……
だから、伝えてほしいんです。私の望みを」
『お母様の、望み』
「ええ。私はグウェリンなどどうでもいいの。一族より、国などより、自分の望みを優先してほしいと……マイラの望みは、私の望み。マイラが一番やりたいようにすることが、私の幸せでもあるのだと。そう……伝えて、いただけませんか」
だからだったのだと、私は思った。
エクストラニクス男爵の名を私に伝えたのは、きっと、このためだったのだ。
『はい』
頷くとお母様は微笑んだ。朝日を浴びたお母様の顔は、神々しいほどに美しかった。
*
家に帰りつくと、お母様が言っていた『見張り』の存在が、本当だったことがわかった。
この寒い季節だというのにマイラは窓を開け放していた。マイラは私の羽ばたきの音を聞くや大慌てで窓辺に飛びついた、その瞬間、家の角に潜んでいた若い男が、ぱっとこちらを振り返ったのが私からはよく見えたのだ。
私はいぶかしく思いつつもとりあえず、マイラの広げた両手の中に舞い降りた。彼女はだいぶ前から起きていたらしい。そして、ずいぶん心配をかけていたようだ。マイラは私の羽を撫で、長々と息をついた。
「……………………おはよう……」
声もかすれていた。私は彼女の肩に移って、耳元で囁いた。
『おはよう。窓の外に見張りがいてよ。伯父様はいったいなんのつもりなのかしら』
「ああ、大丈夫。いつものことだよ」
マイラも声を低めて言いながら、窓を閉めた。
「伯父様は私を心配してる。エスティエルティナは私を選んだ。私を見限るか、私が死ぬまで、別の人間を選ぶことはない。……曾おばあさまもそれで一度命を狙われたことがある。だから、私に護衛をつけたがるんだ」
『そう……』
マイラが本心からそう信じているのか、それとも私を心配させまいとしているのか、判断ができなかった。
マイラは私の羽根を撫で、ホッとしたように笑う。
「それにしても、ずいぶん朝早くお出かけだったね」
『ええ。朝早く目が醒めてしまって、じっとしてられなかったのよ。心配して?』
「びっくりしたよ。目が覚めたらいなかったから」
『ごめんなさいね、貴女を起こしたくなかったの。でもお散歩のお陰で少し、昔のことを思い出してよ。私、確かにここに来たことがあるわ。広場で何をして遊んだか、どんな風だったとか、そう言ったことを色々思い出した』
「そう、それはよかった」
『ええ。ねえ、マイラ。高熱で生死の境をさまよって、何とか一命を取り留めた人間が、命と引き替えに魔力の素養を失うと言うことは、良くあることなのかしら』
マイラは少しの間答えなかった。何かを確かめるように、じっと私を見ている。
私は首を傾げた。『……あまりないことなのかしら?』
「ああ……うん、そうだね……でも希有な出来事、というほど珍しくもないよ。私も三例くらい、知ってるかな」
『ふうん。……ある子供が魔力の素養を失い、それが原因で跡継ぎの座から追われる、ということも、よくあることなのかしら』
「そんなバカな話はないって、私は思うよ」
『そうね』私も頷いた。『私もそう思うわ。父と母もきっとそう思った。だから〈兄〉は、追い出されなかったの。父と母が、追い出さないことを決めた……でもそのかわり、父と母は嘘を抱えたまま、長い長い年月を過ごすことになった。私が思いだしたのは、ここまでだわ。ねえ、本当に、おかしな話だと思わなくて?』
「コンスタンス」
マイラの灰色の瞳が、私をのぞき込んだ。
「貴女はまだ思い出していないかもしれないけれど、私は、貴女に借りがあるの」
『借り』
私は首を傾げた。
確かに、私は、誰かに『貸し』を作った……ような、気がする。
でもそれは、マイラに、だっただろうか。
「いつかそのお返しをしたい。前にも言ったんだけど、もう一度言っておくね。貴女が望むなら、私は何があっても、貴女の味方をするって決めてる。エスティエルティナがこのことで、私を見限ることはきっとない。それにもし、見限られたとしても、それでも私は、貴女の判断を支持する」
『……意味が分からないわ』
「その日が来たら、きっと分かる。覚えておいて欲しいんだ。貴女は自分の心の示すとおりにしていい。ほかの誰にも、遠慮なんかしなくていい。……貴女の〈兄〉の意見さえ、気にかけなくていい。覚え、」
出し抜けに、こんこんこん、扉が鳴った。
「マイラ様ー」
シェイラの声もする。
「朝ご飯ができましたよー。旦那様がお呼びですよー」
「えっ、あっ、はーい。今いきます」
マイラは慌てて立ち上がった。光籠の蓋を閉め、扉に向かう。私は鴉に体の操縦を任せ、考え込んだ。マイラは何を言おうとしたのだろう。
ほかの誰にも遠慮なんかしないで。
貴女の〈兄〉の意見さえ気にしないで。
自分の思いどおりに動いていい。
……まるで、お母様がマイラに望んでいることみたいだ。
あの人は、と、私は思った。私の母は、どう思っていたのだろう。
坊ちゃまに嫁げる身分ではない、身の程をわきまえろ、と、あの人は私を叱責した。つまり私は、『坊ちゃま』と結婚できると考えていた、ということになる。
引っ越しを止めるついでのような口調で『結婚して』と告げたあの人が、『坊ちゃま』でいいのだろうか?
ならばあの人は『兄』ではない。
では、……誰なのだろう?
気がつくとマイラは食堂へ入っていた。鴉は皿に山と盛られた生肉をがつがつ貪ってご満悦だ。二度目なので、私も少し余裕が出てきた。鴉の胃袋は強靱なのだろう、きっと、生肉を食べても病気になったりしないのだ。実際、生肉は不快な感触でも匂いでもなく、極上のご馳走を堪能する鴉の喜びが私の胸をも満たしている。
「朝食が済んだらね」
ゆっくりと食べながら、伯父様がいう。
「申し訳ないが、エルカテルミナを呼んできてもらえないだろうか」
「パトリシアを?」
マイラが驚き、お母様が眉を上げる。伯父様は慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
昨夜、エリックとマイラに見せていたのと、同じ表情だった。
「エリックと貴女の和解だ、一番の当事者であるエルカテルミナにも立ち会ってもらうのが、一番だと思うがね。アデリシア、だったか、七歳の小さな子供――その子がエリックの養子となるにせよそうならないにせよ、パトリシア様がその子を知らないはずがない。その子がこれからどうなるのかを、あの方も知っておきたいはずだ」
「そうですね」
マイラは微笑み、頷いた。
「承知しました。支度が済んだら、行ってきます」
「早い方がいいと思ってね」伯父様はどことなく言い訳するような口調でいった。「エリックが来る前に……予定を見ると、今日は朝からエノス地区の慰問が入ってる。距離があるから往復させるのは気の毒だし、慰問を中止などしたら暴動が起きかねない。悪いが急いで行って、出かける前に少し寄ってくれと頼んでもらえれば」
「はい、わかりました」
マイラは頷き、急いで朝ご飯を食べた。




