和解
――を盗んだのはカイですか。
エリックと呼ばれたあの若者は、どうやら、そう聞いていたらしい。伯父様の答えははっきり聞こえた。
「なんの話かな」
「〈窓〉の見張りが斬り殺されてた。斬り口を見た。あの剣に違いない。そうでしょう」
「……なんの話かわからんが」伯父様の笑い声は酷薄だった。「だが、お前の考えを聞かせてご覧」
「あの剣を持っているのは、今はロビンソンのはずだ。伯父さん、俺が何度も頼んだのに、もうロビンソンのものだからと言って、俺にはくれませんでしたね。でも、誰かがあの剣を使うなら伯父さんが知らないわけがない。カイはグウェリンの血を引いてるし、剣の腕もまずまずだ。カイをグウェリンの、正当な跡継ぎと定めた。だからあの剣を使っていいと言った。そういうことでしょう」
「……」
「〈窓〉を盗むのは伯父さんの指示だったんだ」
「エリック」伯父様はため息をついたようだ。「〈窓〉を盗んでエスメラルダを凍り付かせる理由が、私にあるというのかね?」
「ずっと理由がわからなかった。でも……気がついたんだ。エスメラルダからどんどん国民が逃げ出してる。店が理由もなしにあんなに休むなんて」
そこへ、足音を忍ばせたマイラがやってきた。濡れた髪を拭布でくるんで、ほかほか湯気が立っている。お母様は無言で少し脇により、娘が一緒に聞けるようにしてやった。シェイラもなぜかその場に残った。所在なげに廊下をうろうろして、そのまま座り込む。
「ほう。……たまたま休んだだけでは?」
「ここに来る前に〈神殿〉に寄ってきた。三分の一がもぬけの殻だった。夕食時にですよ」
「今頃は帰ってきてるかもしれんよ」
「伯父さん!」
鋭い声を上げ、エリックは、机に手を突いたらしい。大きな音がして、シェイラがびくっとした。
「伯父さんは〈窓〉をカイに盗ませ、〈人魚の骨〉をロビンソンに加工させ、作り上げた〈通行証〉を渡して、国民をこっそり外に出してる。そうですよね」
くっく、伯父様が笑った。「何のために?」
「ルファルファ神殿の力を削ぐためでは?」
「ほうほう。なかなか面白いね、エリック」
「〈窓〉が盗まれたのはヴァルターの死の直後。関係してることは明らかだ。ルファルファ神殿はヴァルターが今まで何とか押さえてた、でも死んだ。次のエルヴェントラは〈信者〉がなる」
「お前が、だろう」
「そうだ、俺だ。俺がなる」エリックは唸るような声で言った。「もともとエルヴェントラはルファルファ神殿の長。同時にエルカテルミナの夫がなるべき地位だ。元に戻すだけだ……だから伯父さん。頼みに来たんだ。やめてくれ」
「やめる。なにを?」
「〈窓〉を戻し、国民を帰してくれ」
「できんね」伯父様はわらった。「こんな危険なエルヴェントラの治める国に、大切な国民を閉じこめるわけにはいかん」
「俺はエルヴェントラだけじゃなく、ルファルファ神殿の長にもなる。――神殿の暴走は、俺が止める。国民を危険にさらすような真似はしない。俺を信じてくれ、頼む」
「お前を信じろだと? 人魚と手を組んであの世界への――地獄への扉を開こうとする、筆頭のお前をか! ふざけるな! 私が今まで何度お前に言ったと思う、あの扉は開けてはいけない! 地獄への扉なのだと! マイラを隠して育てなければならなかったのは誰のせいか! なにもかも〈信者〉のせいではないか!!」
「……事情が変わった」
ぎり。歯を食いしばる音がした。伯父様の音か。それとも、エリックの音か。
「人魚との契約を断ろうと思う」
ずっと続いていたマイラのかすかな呼吸が一瞬止まった。
信じられない。その唇が囁き、無意識のように手を挙げた。お母様がその手を、ぎゅっと掴む。
喜んでいる。二人の喜びが、私の中に直接流れ込んでくる。
「伯父さんの意志は固い……〈窓〉を回収し、国民を逃がす、それを見てやっとわかった……。エスティエルティナは何度でもマイラを選ぶ。マイラの主張を、エスティエルティナも支持してる、ということだ……」
「今更だな。お前が考えを翻したところで、〈信者〉の暴走は止まるまい」
「いや、何とかする。だから信じてくれと言ってる。俺が何とか神殿を押さえる。〈信者〉の暴走も止めてみせる」
「どうやって?」
嘲るような伯父様の声。エリックの声は必死だった。
「アナカルシスに俺の娘を嫁がせる」
「娘だと?」
伯父様の声が裏返った。マイラとお母様も目を見交わした。
「お前に娘がいたのか。パトリシア様が妊娠……したのか?」
「マイラの縁談が破談になった、その代わりだ。あの王弟殿下の甥に当たる、七歳だかの王子がいるだろう。第二王位継承者。王弟殿下が命を狙われる原因となった王の嫡子だ。あの王子にぴったりの娘がいる」
「ちょっと待て。パトリシア様の娘ならエルカテルミナの後継だ、アナカルシスに嫁がせるわけには……」
「違う。拾ったんだ。養子にする。今七歳だと言ってた。ものすごく綺麗な娘なんだ。アデリシア、という」
ひゅっ。かすかにマイラの喉が鳴った。
マイラが口に手を当てた。まさか、かすれた呟きが漏れた。
「……どこの娘だ」
「アリエディアから来たばかりだが、エスメラルダに父親がいるらしい。その父親を捜し出して親権を俺に譲らせる。本当に綺麗な娘なんだ。アナカルシスの王子もきっと気に入る。エルカテルミナとアナカルシスの後ろ盾があれば〈信者〉も黙る。伯父さん、頼む。俺を信じてくれ」
「……」
伯父様は、しばらく黙っていた。
お母様がマイラの手を撫でる、かすかな音が闇に響いている。
ややして。
伯父様は、笑い出した。
くっくっく、喉を鳴らす笑い声は次第に高まっていく。マイラとお母様さえ居心地悪げに身じろぎをした。エリックが耐えきれずに言った。
「……なにがおかしい」
「いやいやいや、エリック……くはっ、はっはっ、これは傑作だ。俺を信じてくれ、か。とどのつまり、お前は、怖くなっただけではないか」
エリックが黙った。伯父様の声はますます鋭く、残酷に尖っていく。
「事情が変わった? 人魚との契約を断る? エルヴェントラになり、〈信者〉を黙らせる。その代わり〈窓〉を戻して国民を帰せ、そう言ったな。物わかりがよくなったつもりか? エルヴェントラという重い荷を背負う直前になって、我に返ったとでも言いたいのかもしれないが……お前はただ、怖くなっただけだ。私の本気を知って、怖じ気付いたのだ。〈冬〉を終わらせ、かつてのエスメラルダを取り戻す。そのために〈毒〉を浄化できるマヌエルを育てる。そのために地獄への扉を開く、それがお前たち〈信者〉の言い分だった! それを貫く直前で、お前は尻尾を巻いて逃げ出そうとしてる!」
「……なん、」
「お前は祖父に似てると思っていたよ。とんだ見込み違いだった」
嘲るように伯父様は言った。
「お前はアルガス=グウェリンとは似ても似つかない。ただの臆病者だ。愛した女を信じ切ることができず、保身のために後ずさりしたお前などに〈信者〉が従うものか。計画は止められぬ。〈窓〉をすべて閉じねば、」
「伯父さん……!」
マイラが立った。
お母様の手をそっと外し、きびすを返した。「マイラ様っ」シェイラの制止にも耳を貸さず、足音を響かせて走っていく。私も後を追った。お母様とシェイラも。
「伯父様!」
ばん。扉を開いて、さっきの部屋に乱入した。伯父様が狼狽の声を上げた。
「マイラ。……聞いていたのか!」
「兄様。お久しぶりです」
マイラが丁重に一礼している最中に私がたどり着いた。マイラの肩に乗りたかったが、邪魔になるわけにはいかない。後に続くお母様とシェイラに蹴られたりしないよう、扉の陰に引っ込んでおく。
「ご無礼をお許しください。今のお話、ほとんど聞かせていただきました」
「マイラ。いたのか」
近くで見ると、エリックは本当に背が高かった。マイラとは全く似ていないが、母様にはよく似ていた。でも、灰色の瞳はマイラと同じだ。マイラの出方を探るように慎重に細めた瞳。
その瞳を見つめて、マイラははきはきと言う。
「お話中に申し訳ありません。兄様、ふたつ、要請があります」
「要請だと?」
「ひとつ、カイとロビンソン一家に、今回の件で何らかの責を負わせないこと。そしてもうひとつ。アナカルシスの王子に貴方の娘を嫁がせるのは結構ですが、それを、強要しないことです。アデリシアという七歳の子供に了解を取りましたか。そもそも――養子にするということを、まず、彼女は了解しているのですか」
「了解か」エリックは笑った。「相手は七つだぞ」
「七歳でもちゃんと意志はあります。彼女が心から望んで兄様の養子になってアナカルシスに嫁ぎたいというなら話は別ですが、そうでないならそれを強要しないで」
「お前の要請はわかった。だが受け入れるのは難しい。一つ目はいいが二つ目はな。アナカルシスの後ろ盾を手に入れなければ」
「受け入れていただけるのなら、私は――【最後の娘】は兄様を支持します」
言ってマイラは首もとにかけた皮紐を外した。
ぽん! 可愛らしい音とともに、その手の中に一振りの美しい剣が出現した。ぱっと辺りが明るくなったかのようだった。エリックが一歩下がった。
「……エスティエルティナ。受け入れたのか」
「〈地獄〉への扉を開かず、現【最初の娘】に無茶な孵化を強要しないと約束してくださるなら……! 私は兄様を信じます、伯父様、これなら大勢の国民を殺さずに済み、エスメラルダにこれからも住み続けることができる! 兄様、いかがですか。それならアナカルシスの後ろ盾なんかいらないでしょう」
「確かに」エリックが固唾を飲んだ。「だが……お前はそれでいいのか」
「もちろん」
マイラが顔をくしゃくしゃに歪めた。とん、足が軽く床を踏んだ。それを踏みしめて、マイラは呻いた。
「……もちろん。兄様。ありがとう。歩み寄る気になってくれて、……嬉しい。嬉しい」
うつむいて、涙声で、彼女は繰り返した。嬉しい、嬉しい、嬉しい、と。
エリックはそれを見て、微笑んだ。
引き締めていた口元を緩めるだけで、びっくりするほど優しい顔になる。
「今まで済まなかった……」
「いえ」頬をぐいっと手でこすったマイラは、まるで子供みたいだった。「私の方も我を張っていましたから……。兄様、アデ……アデリシアという子を、つれてきてもらえませんか。良かったら私が、父親を捜しましょう」
「なんだ。俺を信じてないのか」
エリックが笑い、マイラも笑った。
「そういうわけじゃありません。ただ、他人と思えないだけです。良かったらその子も一緒に夕食をと、」
「もう遅い」
伯父様が口を挟んだ。微笑みを浮かべた、慈愛に満ちた表情だった。
「三月のエスメラルダは、日が暮れてから小さな子供を連れて歩ける場所じゃないよ。明日にしなさい。こちらとしてもロビンソンを交えて少し話し合わなければ」
「……そうですね。じゃあ、明日また来る」
エリックは頷いた。少し気恥ずかしそうに。マイラはまだ少し何か言いたそうにしたが、エリックは一礼して、まるで逃げ出すかのように急いで出ていく。照れているのだよと伯父様が言った。長年張ってきた意地をお前が簡単に解きほぐしたから。喜びを噛みしめる時間をやりなさい、と。
「さあさ、食堂へどうぞ」
シェイラが言って、マイラを連れていく。私も続こうとしたが、その前に、お母様が私を抱き上げた。肩に乗せる手つきは相変わらず優しい。微笑みを浮かべて、お母様は伯父様を見る。
「よろしいのですか、お兄さま」
「よろしいとも」伯父様も微笑んで、頷いた。「兄と妹が和解した。エスティエルティナは新エルヴェントラを信じると言った。〈二人娘〉が揃い、エルヴェントラと共に国を導いていくのなら、私が反対することなどなにもないだろう」
「ええ、本当に」
優しく笑って、お母様は伯父様の後ろに回った。
車椅子を食堂へと押していきながら、お母様は繰り返す。
「ええ――本当に、そうですわね。お兄さま」
マイラは夕食の時間も寝る支度をする間も、寝台に入ってからも、ずっと幸せそうだった。
私も嬉しかった。マイラの髪から伝わってくる混じりけのない喜びが、私の心にも染みてくる。これでもうカイに人殺しをさせずに済む。大勢の国民を見殺しにしないで済む。外へ出した人たちを呼び戻すことができる。つらい目に遭いながらもひとりで立ち向かってきた『あの人』に、これ以上、苦しみを味わわせずに済む――。
――嬉しい。嬉しい。嬉しいの。本当に嬉しいの。
そう言って泣いてしまった私に、さっきのエリックのようにはにかんだ人がいた。
――死んだりしないよ。死ぬわけないだろ。病なんかに僕が負けるわけないじゃないか。
そう言ったあの人は、誰だったのだろう。
灰色の瞳。あの人は目が細くて、いつも、微笑みかけてくれているような気がしていた。朗らかな心根と、頑固な性根と。馬ではもうひとりの兄に負け、剣ではもうひとりの兄に勝って。絵心も音楽的感性も持ち合わせていなかったが、書庫にこもると出てこなくなって。
人に親切にするくせに、感謝されると逃げ出すのがおかしかった。
マイラは疲れていたらしい。明かりを消して寝台に潜り込むと同時に、眠ってしまったようだ。
マイラのかすかな寝息を聞きながら、私は、彼女の枕元にうずくまって、窓の隙間から差し込む月明かりを見ていた。鴉はもうとっくに眠っていた。だから、きっと、鴉の目を通して見ていたわけではないのだろう。窓から差し込む月の光に促されるように、少しずつ記憶が満ちてくる。
――嫌です。嫌。絶対に嫌です。
あの人が泣いていた。私はあの夜、たぶん、眠っていた。でも、心がきっと起きていたのだ。夢なのか現実なのかわからない、月の光に満ちたあの夜は、兄が元気になって数日経った頃だった。
――しかし、仕方がない。それが決まりなのだ。
困り果てたように言い聞かせているのはお父様の声。
目元に笑い皺のある、底抜けに優しい人。
泣いているのはお母様。私を抱きしめて宝物だと言ってくれた、あの優しいお母様が、魂を絞るような声で泣いている。
――決まりがなんだというのです。今更……今更、今更今更今更! あの子は私の子です! そしてあなたの……! 絶対に嫌です……!
――私だって嫌だ。嫌に決まってる。だが。
――あの子はどうなるの……これからどうなるというのです!? 今までずっとシャトーの跡継ぎと信じて育ってきたのに……! 今更見ず知らずの人々の、ほとんど知らない家に帰されて、そうしたらあの子は……あの子は……!
――私だって嫌だ。
そう言ってお父様は泣いた。嫌だと言った。
あの子を手放すくらいなら。
今更手放すくらいなら。
嘘をついた方がマシだ。
ふと気がつくと、窓から差し込む光が消えていた。
私が顔をもたげると、鴉が目を覚ました。
夜明けのにおいがする、と、鴉は言った。
でもまだ暗いよ。寒いし。まだ寝ようよ。
私も同意して、再びマイラの枕元に丸くなった。でも。
どうしてだろう。夜明け、という言葉が、なぜか気になる。
夜明けに、何があったのだっけ。
私はそっと起き出して、羽ばたいて、窓枠に乗った。嫌だなあ、鴉がぶつぶつ文句を言った。行きたくない。まだ暗いし。寒いし。
まあそういわないで、少しつきあってよ。
私は鴉を宥め、窓をそっと押した。冷たい空気が流れ込み、鴉がまたぶつぶつ言った。
寒い。暗い。バカみたい。
全くそうね、と私は言った。外は暗くて、何も見えない。
と。
ごくごくあえかな朝の光が、さっと走った。幾重にも重ねられていた夜の帳が一枚、取り払われたかのような変化だった。ほらほら、朝よ。お散歩にはちょうどいい頃合いじゃないかしら。そういうと鴉は呆れた。何言ってんのこのお姫様、本当に厄介なんだからもう。
私は構わず、ほとんど夜の町に飛び立った。
下で人の気配がうごめいたような気がした。でも、そんなはずはない。夜明け前、町はまだ眠りの中に沈んでいる。
月がだいぶ傾いてはいたがまだ残っていたことと、町が雪に覆われていることが幸いして、全く見えないというほどの暗さではない。私は一度上昇し、背の高い生け垣に囲まれた場所を捜した。夜明け頃、という言葉がどうして気にかかっていたのか、やっと思い出したのだ。
夜明け頃、エクストラニクス男爵は、孤独な女の子に友達をつれてくる。
私をマイラの友人として遇してくれたあの方が、確かにそう言っていた。伯父様には、絵本の登場人物だと説明していたけれど――そしてそれは事実だったのかもしれないけれど、私にとって、そしてマイラにとっても、エクストラニクス男爵といえばあの木のことだ。生け垣に囲まれたあの箱庭の中にそびえ立つ、一本の大きな木。
夜明け頃、あの木が、何かいいことをしてくれるのではないだろうか。
そんな子供じみた期待を胸に、私はその場所を捜した。




