伯父様の嘘
お母様がまろやかな声で言った。
「コーデリアさん。マイラが入浴する間、よかったら私の隣にお座りになりませんか? 美味しい食べ物をお出ししましてよ」
優しい言葉は、思いがけず、私にかけられたものだった。
お母様はあくまでも、私をマイラの友人として遇するつもりらしい。
私は、正直なところ、マイラと一緒に入浴したかった。鴉が湯に入りたがるかどうかはわからないが、熱い湯気を浴びるだけでも体が温まるだろうし、鳩との戦いで乱れた羽を直して身繕いもできるだろうし、何より生肉の匂いを洗い流せるだろうし。でも、美味しい食べ物、という言葉を私が理解すると同時に、鴉はぴょんと飛んでお母様の手に飛び乗ってしまった。花より団子、ということらしい。さっきもあんなにたらふく食べたくせに。
「光栄だわ、さ、こちらへどうぞ」
「こ……コーデリア、急いで出てくるから、待っててね」
マイラもきっと意外だったのだろう、慌てたように言ってくる。ふふ、お母様は笑って、いたずらっぽい目でマイラを見た。
「ゆっくり入っていらっしゃい。貴女の昔のお話を、たっぷりお聞かせしておきますから」
「やだ母様! いっ、急いで出てきますから!」
マイラは慌てて風呂へ向かった。シェイラは厨房へ向かい、お母様は微笑みを浮かべたまま長椅子に戻る。
そこは、居心地のいい居間だった。お母様がいるのは暖炉のそばの、ゆったりとした長椅子だ。あまり広くはなく、シェイラの向かった厨房とひと続きになっているので、シェイラの歌う鼻歌までよく聞こえる。
「……可愛らしいお友達だこと」
お母様は私を膝に乗せ、そっと羽を撫でていた。優しい感触に、私はうっとりした。のんびりとした気持ちになる。安らぐ。安心する。甘やかな、許されるような、穏やかな心持ち……
私はそして、『くつろぐ』感触を、思い出した。
コンスタンス……
優しい声が、私を呼ぶ。髪を撫でる優しい手のひら。暖炉のそばで、私を膝に乗せ、優しく揺すってくれた、暖かなあの人。
可愛いコンスタンス。私の宝物。
母様。私はうっとり呟いて、柔らかな胸に顔を埋めた。母様は暖炉のそばの特等席に座って、私を膝に乗せていて。背の高い、笑いじわのある男の人が、母様と私のために温かな飲み物を持ってきてくれた。
父様と、私はその人を呼んだ。
男の人は否定せず、優しく笑って、私ごと母様を抱き寄せた。
コンスタンスは甘ったれだな。
顔の見えない兄が笑う。お前もだろう、父様はそう言って、私と母様を放さないまま、兄をも、その腕の中に抱き寄せる。苦しいよ、兄はわざとじたばたしたが、本気で嫌がってはいなかった。
――も、甘ったれじゃないの。
コンスタンスほどじゃないよ。
兄と言い合って、みんなで笑った。
あれはいつの日のことだったのだろう。
胸が痛い。
どうしてだろう。本当に胸が痛い。
悲しい。苦しい。どうしてなの。胸の中で、誰かが泣いている。
幼い頃はあんなに愛してくれたのに。大切にして、くれて、いたのに。
あの人はいつからか、私を宝物だと言わなくなった。
身分をわきまえなさい。甘えてはいけない。
お前はシャトーの坊ちゃまに、嫁げる身分などではないのです――
暖炉のそばにも座らなくなった。
お父様に暖かな飲み物を運んでもらうこともなくなった。
そうだった。
あの人は、『小間使い』に『なった』のだ。身分をわきまえろと、私に示すために。生まれが違うのだと言うことを、率先して、私に見せるために。
――それは、何のために?
「コーデリア」
母様の優しい声に、私は我に返った。鴉はほとんど眠りかけていた。野生の誇りはどこへやったのと、からかいたくなってしまうほど、母様の膝の上でうとうとと微睡んでいる。
「……コーデリア。マイラがつれてきた……初めての、お友達」
「ファムル」
伯父様の声がして、鴉が目を覚まし首をもたげた。
私はもう少しで、驚きを顔に出してしまうところだった。
さっきまであんなに厳重にくるまれていた伯父様が、立って歩いている。
「お兄さま。よろしいのですか。マイラはすぐに出てきますわよ」
ファムル、と呼ばれた、マイラのお母様がからかうように言う。伯父様は構わずに向かいの長椅子に座り、シェイラが急いで手を拭きながら厨房から出てきて、伯父様の寝室から車椅子を押してきた。長椅子のそばに設置すると伯父様が当然のように自分で歩いてそれに座り、シェイラがせっせとその足を毛布にくるみ込む。
「ご入浴なさったら半刻は出てこられませんよ」
笑いながら言い、シェイラは一礼して厨房へ戻っていった。私はもう一度お母様の膝に身を丸め、眠ったフリをすることにした。
なんなのかしら、伯父様――と、シェイラという召使い。
不吉な予感がひしひしと押し寄せてくる。
伯父様はさっき、マイラの前にいたときは、歩けるようなそぶりなんてひとつも見せなかった。私の忌々しい足の代わりにマイラに今の仕事をさせることになり申し訳ないと、確かに言っていたように思うのに。
「鴉をこちらへ」
伯父様は猫撫で声で言い、お母様はくすっと笑った。
「心配しなくても、手紙など託してはいませんわ。まだわたくしを、信じてくださらないのね」
「……そういうわけじゃない」
じゃあどういうわけなの。私でさえそう聞きたくなる。
伯父様はしげしげと私を見ている、目を閉じていてもそれが感じられる。けれど、お母様がそっと私の羽を広げ、首を見せ、そっと持ち上げて両足まで見せると、伯父様はそれ以上、鴉をよこせとは言わなかった。
お母様の言うとおり、何かの手紙を鴉に隠そうとするのではないかと疑って、急いで出てきたらしい。
なんなのかしら、この伯父様。私はもう一度、そう思った。
「……しかし、本当に、鴉を伴うようになるとは」
伯父様が呟き、母様はまた笑った。
「お兄さまったら。あの子は姫ではなく、私の娘です。生まれつき、小さな生き物が好きなのよ。そして不思議に、生き物に好かれるたちなの。きっとエクストラニクス男爵のお導きね」
鴉に身を委ねるようにしていたから、何とか身じろぎをしないで済んだ。でも、驚いていた。エクストラニクス男爵の名を、ここで聞くだなんて。
「えくす……なんだって?」
「ご存じありませんか。昔あの子に読んでやった絵本に出てくる風変わりな男爵の名前です。エクストラニクス男爵は、すべての善良な生き物と、特に小さな子供が大好きなの」
「ふん」
伯父様はそれで、興味を失ったらしい。
お母様の声は子守歌のように優しく、私の羽の上に落ちてくる。
「明け方に、エクストラニクス男爵は、孤独な女の子に友達をつれてくるの。あの子はこのお話が本当に大好きだったわ……」
「孤独か。マイラはもう孤独じゃない。エスメラルダ中の人間が彼女の存在を知り、称え、慈しみ、慕うようになるのだからな」
「そうね」
お母様はそっと微笑んだ。優しい指先が、私の羽を撫で続ける。
「本当に良かったこと。……本当にね」
「本当にそう思っているのか」伯父様の声が意地悪く尖った。「ヴァルターに協力していたのはお前ではないのか、ファムル」
「ま」お母様は目を丸くする。「まだそんなことをおっしゃるの」
「マイラの花嫁衣装も婚礼道具も見つけだしてすべて焼いた。長い時間をかけ、ひとつひとつ丹精して整えたのだろうに、気の毒だったな」
「ふふふ」
にっこりと、花が綻ぶように、お母様は笑った。
「マイラが望まない結婚を強いられることにならなくて、私も喜んでいますのよ。マイラの望みは、私の望み。よくご存じのはず」
「……邪魔はさせない」
「邪魔などいたしませんわ。マイラの望みは、私の望み」
繰り返して、お母様は微笑んだ。
目を閉じたまま、私はそれを見た。
それはたぶん、お母様の手のひらが、私に触れていたからだろう。恐ろしく綺麗な微笑みだった。
思わず見とれた。
なんて獰猛な笑顔だろう。
「マイラが【最後の娘】として国民に慕われるようになるのなら――こんな喜ばしいことは、ないじゃありませんか」
沈黙が落ちた。
伯父様が、お母様の笑顔の裏に隠された牙に気づいたのかどうかは、私には分からなかった。厨房がひと段落ついたのか、シェイラがやかんを運んできた。お母様は礼を言って、机に備え付けられていた茶器でお茶を入れた。
「どうぞ、お兄さま」
「……ありがとう」
伯父様は躊躇わずにそれを飲んだ。さっきの牙には気づかなかったのかもしれない、と私は思う。
「エクストラクニクス男爵は、あの子の友達を、覚えているかしら……」
お母様がまた言った。……その時だった。
玄関で、ノックの音がした。
「まあ誰でしょ、こんな時間に」
シェイラが呟き、急いで玄関に向かう。
「はいはい、ちょっとお待ちください……」
シェイラが扉を開いて、息を飲んだ。
鴉も目を覚まして頭をもたげるほどの激しい反応だった。お母様が腰を浮かせ、私は羽ばたいて長椅子の背もたれに移った。
玄関から、シェイラを押し退けるようにして入ってきたのは、背の高い、浅黒い肌をした、整った顔立ちの若者だった。私の兄たちより少し年上だろうか。灰色の瞳が、マイラと同じ。それから、
誰だった……かしら?
私は首を傾げた。あの色と同じ瞳を持った誰かの存在を、私は確かに知っていた。
でも、思い出せない。
「夕食時に済みません」
現れた若い男は丁寧に頭を下げる。伯父様は鋭い目で若者を睨んでいる。シェイラは驚きのためか、それとも恐怖のせいか、立ち尽くしたまま喘いでおり、お母様は優しく微笑んだ。
「お帰り、エリック」
「……久しぶり、母さん」
頷いてエリックは、顔を背ける。少しこちらに近寄って、伯父様に丁重な礼をする。
「話がしたい。時間をとってもらえませんか」
「……いいだろう。私の部屋へ」
伯父様は車椅子を動かして、さっきマイラを呼んだあの部屋へ入っていく。エリックと呼ばれた若者が後に続き、後ろ手に扉を閉めると、お母様が動いた。靴を脱ぎ、裾の長いワンピースの裾を摘み、つま先立ちで居間を横切っていく。
「ファムルさま――」
「シェイラ。貴女はマイラに知らせなさい」
お母様は囁き、その前を通り過ぎた。私はお母様の後を追うことにした。羽ばたきの音がしてはいけないかもしれないと思い、お母様のように床をそっと蹴っていく。シェイラは揉み手をしながら急いでお風呂場の方へ行き、お母様は居間から出て、暗い通路に出た。壁に取り付けられた緞子をそっと開き、洗濯かごや箒やちりとり、モップといった細々したものを退けて壁を露出させると、屈み込んだ。床すれすれの壁をそっと押す。かすかに板が動いて、明かりがこぼれ出る。
話し声も。
お母様は床に座り込んで、目を閉じる。紛うことなき盗み聞きだ。私はお母様の膝に乗って、そこにうずくまった。




