カボチャのパイ
パトリシアと一緒に家に帰り着くと、エリックはもういなかった。
パトリシアは疲れきっていた。家に帰った瞬間に、気が抜けてしまったらしい。サーシャはただ黙って、あの陰気な顔でパトリシアとアデリシアを迎え、甲斐甲斐しくパトリシアの世話を焼いた。すでに風呂の準備が整っていたのにアデリシアは感心した。パトリシアの帰宅に備えてあらかじめ準備しておいたらしい。
でも、厨房には相変わらず火が入っていない。
それが不思議でたまらなかった。
そろそろおやつ時だ。塔にいた頃には、みんなで甘いお菓子と温かなお茶を囲んでいた時間だ。それに、夜ご飯のためのパンをそろそろ発酵させなければならないから、竈には必ず火が入っていて、厨房はとても温かだった。
パトリシアは、夜、何を食べるのだろう。
エリックのために食べ物を買ってきたらしいあの若者たちも、パトリシアの分は用意していなかったし――
アデリシアはそっと厨房に入り込み、戸棚を開けてみた。
心配していたが、食材は結構いろいろありそうだった。さっきアデリシアも出してもらった堅パンの大きな塊をわきによけると、その向こうに小麦粉の壷があった。たまごがいくつかと、オートミールの入った壷、大きなカボチャに、にんじん、たまねぎ、薯の大きな籠。
砂糖とバターがあれば、カボチャのパイが作れるんだけどな。
パトリシアにカボチャのパイを食べさせてあげたい。焼きたてほかほかの、ねっとり甘いパイを食べたら、きっと元気が出るはずだ。パトリシアが食欲がない、と言った、エリックの言葉を思い出す。エリックの両手の平の中に収まってしまうなんて、いくら何でも痩せすぎだ。
ごそごそごそごそ探し回ると、やっと見つけた。
薯の中から袋がちょっぴり覗いていたのだ。引っ張り出すと、紙に包まれたバターの大きな塊と、茶色の砂糖壷が入っていた。どうしてこんなところに? 一瞬疑問に思いはしたが、すぐに組みあがったレシピにそんなこと忘れてしまった。わくわくと胸が躍った。できあがったパイを見たら、パトリシアはどんな顔をするだろう。嘘と笑顔で疲れきったあの人の、ほっとほころぶ顔が見たかった。
真っ先に竈に火を入れた。それから腕まくりをして、アデリシアは大忙しで立ち働き始めた。ついでに、オートミール入りのクッキーも焼いておこう。壷に入れて部屋においてもらえばいい。疲れたときに一枚食べれば、きっと元気の素になる。
カボチャを牛乳で煮て裏ごしし、砂糖とたまごを混ぜ、つやつやのあんを作った。小麦粉とバターを切り混ぜて作ったパイ生地で包んで、程良く温まったオーブンでこんがり焼く。その間にオートミールと小麦と砂糖と油でクッキーの生地を作る。気づいたら厨房は温かな美味しそうな香りでいっぱいだった。幸せな気分で鼻をひくひくさせながら、洗い物に取りかかった。ふんふん、自然に鼻歌が出た。やっぱり、お料理をしているときが一番幸せだな、と思う。
洗い物がすっかり済む頃、パイが焼けた。天板ごと慎重に取り出してパイを網の上に載せ、素早くクッキーの生地を天板に並べて竈に入れる。こんがり焼けたパイはいかにも美味しそうだ。しばらく冷まして、クッキーが焼けたら、お茶を入れよう。洗った物を拭いてしまい終え、振り返った。その時。
厨房の入り口に、サーシャが立っていた。
青ざめた、陰気な顔。
「あっ」
アデリシアはにっこりして、パイをサーシャに見せた。
「パイが焼けました。あの、パトリシアに……」
「パイですって?」
冷たい声。アデリシアははっとした。
サーシャの陰気な顔に浮かんでいるのは、紛れもない怒りだったのだ。
アデリシアはぽかんとした。アデリシアの料理を見てこんなに怒った人を見たのは初めてで、事態が把握できなかった。
「パイですって? 砂糖と、バターの入ったカボチャのパイ? そんなものを」
そんなもの?
「高貴なエルカテルミナに食べさせるつもりなのですか」
「え、……ど、」
「不浄な」
汚らわしい。吐き捨ててサーシャは冷たい目でパトリシアを睨んだ。
「そもそも誰に許可を得て厨房を使ったのですか。厨房を使う前に禊ぎをしましたか」
「みそぎ?」
「汚れた体を冷水で清めてから礼拝。塩と炎で不浄を退けて初めて、エルカテルミナにお出しするお料理を作ることができるのです。砂糖は悪魔の食べ物。バターは悪霊を呼び寄せます。そんなものを食べて」
サーシャは唐突に激高した。
「ますますパトリシア様を孵化から遠ざけるつもりなのですか!!!!」
「そ、そんな」
「そんなつもりじゃない? もちろんそうでしょう。エリックもそうです。グウェリンでありながら、エルカテルミナの神聖性を理解していない愚かな男。悪意もなく、深い考えもなく、汚れたものをパトリシア様に食べさせようとする――無知と善意が一番たちが悪いのです。わたくしがおそばにいる限り、パトリシア様に肉だの魚だのバターだの砂糖だの、そういった不浄な食べ物はいっさいおそばに寄せません。捨てなさい!」
「……え」
「捨てなさい。今作ったものを全部! 私の言葉を理解したのなら今すぐゴミ箱に捨てなさい! それがエルカテルミナへの礼儀と言うものでしょう!?」
「そんな……!」
理解して、アデリシアは愕然とした。信じられなかった。
捨てる? このほかほかの、できたての、甘いおいしいほっくりしたパイを、そのまま?
「できないのならわたくしが捨てます。お前には理解する義務がある。この厨房で料理をしていいのはわたくしだけです。お前などが荒らしていい場所じゃない。こんなもの!」
サーシャがパイをつかみ、アデリシアは思わず飛びついた。
「やめて……!」
「まだ理解しないのですか、こんな食べ物、この世にあってはいけないのです!」
「わかりました、わかりました!」アデリシアは泣き出した。「わかりました、捨ててきます! 捨ててきますから!」
「竈で何を焼いてるんです、まだ……!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
捨てられる。目の前で。作ったばかりの、まだ誰にも食べてもらっていない美味しいものを。
それはアデリシアにとって、あまりに恐ろしいことだった。信じられない。信じたくない。でも現実のようなのだ。サーシャは鬼のような形相でアデリシアを睨んでいた。まるでアデリシアそのものが悪魔の使いだとでも言いたいかのよう。
アデリシアは竈をあけた。オートミールのクッキーはもう少し焼きたかったが、でも仕方がない。捨てられるよりはましだ。アデリシアには、この場をやり過ごすことしか考えられなかった。捨てられるよりは嘘をついた方がまし――
――嘘をついてでも。
天板からクッキーをつまみ出し、紙の上に載せながら、アデリシアは考えた。
――パトリシアの嘘も、こんな気持ちから出てるのだろうか。
孵化を遠ざけるつもりなのか、と、サーシャは言った。パトリシアの先ほどの変貌を考えても、やはり、孵化というものがすべての元凶の、少なくとも一部ではあるらしい。
「早く出て行きなさい! 早く!」
サーシャはどんどんヒステリックになっていく。本能的な恐怖を覚え、アデリシアは椅子にかけてあった自分の上着にパイとクッキーをくるみ込んだ。厨房から駆け出した、そこに、パトリシアがいた。湯上がりの、生乾きの髪を拭布で拭きながら、階段の降り口にたたずんでいた。
助かった、と思った。
パトリシアなら、絶対わかってくれるはず。
「パ、ト、リシア」
さっきの失態をなかったことにしたかった。お詫びのつもりで作ったパイだった。
アデリシアの上着の隙間からのぞいたパイに、パトリシアの目が確かに吸い寄せられた。飢えたような、切望するような光が確かにその瞳に宿った。
「パトリシア様!!」
アデリシアの後ろから来たサーシャが金切り声をあげる。パトリシアがぎくりとした。サーシャは急いで出てきて、アデリシアの前に割り込んだ。
「申し訳ありません。私の目が行き届かずに、この子が厨房で、勝手に」
サーシャは何かを取り繕うような必死さで、パトリシアに頭を下げた。
「エルカテルミナの厨房で、汚れた食べ物を……」
パトリシアの目が泳いでいる。彼女がアデリシアのパイを食べたがっていることは一目瞭然だった。その様子に勇気づけられて、アデリシアは言った。
「でも、パイだよ。それからクッキー。どこが汚いの?」
「お黙り!」
振り向きざまに振るわれたサーシャの左手が、アデリシアの手を打った。衝撃でゆるんだ上着から、オートミールクッキーがぱらぱらと落ちた。サーシャはためらわず、「こんなもの!」足で踏みつけた。くしゃ、クッキーが儚い音を立ててサーシャの靴の下で崩れた。
「……あ……!」
「捨てなさいと言ったでしょう!? 悪魔の、汚れた、食べ物を!」
上着を引ったくられそうになり、アデリシアは両腕でそれを庇った。髪を掴まれて頭を引き上げられ、無防備になった上着をサーシャが掴もうとする。
と。
「アデルは知らなかったのだから、そう怒らないでやって」
パトリシアが冷たい声で言った。サーシャが振り返る。
「パトリシア様」
「アデル。敬虔なルファルファの民は、そんなものを食べてはいけないのよ。知らなかったとはいえ、無断で厨房を使った責任はあなたにもある。捨ててらっしゃい」
パトリシアの叱責に、アデリシアは愕然とした。
そんなはずない。この人なら、そんなこと言うはずない。
「で、も。パトリシア――」
「でもじゃないわ。私の前にそんなもの近づけないで」
言い捨ててパトリシアは階段を上がっていく。サーシャは勝ち誇った顔でアデリシアを見た。
「さ、わかったでしょう。渡しなさい」
渡すくらいなら、と、アデリシアは思った。
死んだ方がマシだ。
サーシャが差し出した手を避けて、アデリシアはパイとクッキーを抱えたまま玄関へ向かった。何もかもが間違っている、という気がしてならなかった。パトリシアは絶対、パイを食べたかったはずだ。それなのに。
そんなもの、と、パトリシアも言った。
捨てて来なさい、と。
扉を開けて、外へ出た。
ぽろぽろと涙がこぼれた。パトリシアに食べてほしかった。理不尽だ、という気持ちが胸に食いついている。悪いことしたわけじゃないはずだ。なのにサーシャはアデリシアを詰った。捨てろと。不浄だと。悪魔の食べ物だと……
そうなのだろうか。
一瞬の激情が去った後に残ったのは、悲しみと不安だ。もしかして自分が間違っているのだろうか、本当に悪いことをしたのだろうか、という心配と、そんなはずはない、と言い張る自分がせめぎ合う。
パトリシアの言葉が、アデリシアの根幹をぐらぐらと揺るがしていた。
あの人が、あんなこと言うはずない。あたしの焼いたパイを理不尽な手から守ってくれないなんて、そんなことが起こるはずがない。心の底にある信頼をひっくり返されて、もう、何を信じていいのかわからなくなりそうだ。
――エリックを捜しに行こう。
そう思った。
エリックなら、サーシャではなくアデリシアの方が正しいとわかってくれるはずだ。エリックはお肉を食べていたし、もっとちゃんとしたものを食べさせろと、サーシャに指示してくれていたし。
でも、どこに行ったのかわからない。
ごうっ、暴風が吹き抜けた。さっき見た嵐がすでにここに来ていたらしい。雪が荒れ狂っている。上着からはみ出したパイが湯気を立てている。美味しいのにと、思う。とても美味しいのに。
――敬虔なルファルファの民は、そんなものを食べてはいけないのよ。
そうなのだろうか。吹雪の中立ち尽くして、アデリシアは考えた。
パトリシアは、美味しいものを食べてはいけないのか。
そうまでして。嘘をついて、美味しいものも我慢して、傷ついて苦しんで、パトリシアはいったい何をしなければならないのだろう。
アデリシアはふらふらと吹雪の中に出た。もう、どうしていいのかわからなかった。パトリシアのことは今でも好きだ。気の毒だと思うし、元気を出してほしいと思う。
でも、もう一緒にはいられない。
――じゃあ、どうすればいい?
「どうしたの」
暴風に紛れて、その声は確かにアデリシアに届いた。
アデリシアはそちらを見た。
涙と吹雪で霞む視界の隅に、路地の隅にいる若い男の人が目に入った。
背の高い人だった。
茶色の頭髪。藍色の瞳。細い目が、いかにも優しそうだった。どこかで見た顔、そう思いながらアデリシアは暴風によろめき、一歩そちらに近づいた。
「こっちにおいで。風を避けられる」
囁きを残して、若者の姿が消える。アデリシアは必死で後を追った。後先なんて考えていられなかった。パイが冷めたらアデリシアの心も冷えてしまう。冷えきって凍り付いてしまう、そんな気がしてたまらなかった。
若者はすぐに見つかった。路地を少し行ったところに、壁の一部がへこんでいる場所があった。そのへこみの隙間から、若者が顔を出していた。
「こっちだよ」
手招きして、中に入れてくれた。
中は薄暗く、静かだった。くん、無意識のように若者が匂いを嗅いだ。
「ここは、なに?」
訊ねると、声が、ぼわん、と響いた。階段が下に続いている。
「地下道に続く階段だよ。吹雪の中、そんな格好でふらふらしてちゃだめじゃないか」
言いながら若者は階段に座った。この人をどこで見たんだっけ、そう思いながら、アデリシアも並んで座る。
くん。また若者が匂いを嗅いだ。
「……あの。いい、匂い?」
訊ねると若者は自分が匂いを嗅いだことに気づいたらしい。照れくさそうに笑った。
「うん。すごくいい匂いだ」
「悪魔の食べ物だって思う?」
「は?」
呆気に取られたその反応に、アデリシアは思わず泣き出した。悪魔の食べ物だなんて思ってもみなかった、そんな反応が嬉しくて。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて。
「ど、どうしたの!?」
「ごめんなさい!」
いきなり泣き出したら驚くに決まっている。アデリシアは必死で顔をこすった。
「パイを作ったの……食べてほしかったの。そしたら、怒られたの。悪魔の食べ物だ、エルカテルミナにそんなものを近づけるなんて悪いことだって。捨てて、来なさい、って。……言われて」
「捨てる?」
信じられない。そんな言い方だった。
アデリシアは何とか涙を飲み込んだ。
「……捨てなきゃいけないの。でも、……捨てるなんてできない、から。どこかで食べようって思ったの……」
「ひどい目に遭ったねえ」
若者は言って、よしよし、とアデリシアの頭を撫でた。
「話には聞いていたけど、〈信者〉というのは狂信的だね。砂糖は悪魔の調味料。乳製品は不浄。肉も魚ももってのほか。そんな戒律、もともとのルファルファ教にはなかったはずなんだけど……」
それに、と付け加えて若者は顔をしかめる。まるで苦いものでも食べたかのように。
「それに……?」
「材料はあったんだろ。厨房の貯蔵庫の中にさ」
「うん。材料がなかったら作れないもの。根菜の籠の中に隠すみたいに入れてあった。バターとお砂糖」
「それはもう……本当に、災難だとしか言いようがないよ」
どういう意味だろう。
わからなかった。でも、若者がアデリシアを案じてくれていることは疑いない。自然に、その言葉が口からこぼれた。
「食べて、くれない?」
「いいの?」
嬉しそうに、若者は言った。ぐうっ、と胃の辺りが鳴った。
「朝から何にも食べてなくて。あまりのいい匂いに目眩を覚えてたところなんだ」
「食べて、欲しい。捨てるなんてできないもん。たぶん、美味しくできたと思うんだ」
ナイフもなく、アデリシアは仕方なく手でパイを割った。ほわわん、と湯気が上がった。大きな塊を、はい、と若者に差し出す。もうひと切れ割って、ほかほかと湯気を上げるそれに、噛みついた。
甘い。ねっとりほっくりした重厚な甘みは、まだ充分温かい。さくさくのパイ生地とカボチャの甘みが、美味しい。
……と、思うのだが。
隣の若者の反応がなく、アデリシアは不安になってそちらを見上げた。若者は無言だった。食べてない、わけではない。口元にパイの皮がついている。さっきのパイの塊に大きな一口があいている。……なのに。
わー、おいしーい。
アデル、これほんとさいこーだよ!
〈子供たち〉はいつもそんな歓声を上げてくれたし、ニースはにっこり笑って、よくできたよ、おいしいよ、と言ってくれるのが常だった。でも、そんな好意的な反応まで期待していたわけじゃない。うん、と頷いてくれるだけでも十分なのに……
「……なんだこれ」
ようやく零れたのはそんな呻き声。アデリシアはぞっとする。
「ごめんなさい、あの……まず……」
「違う! これ本当に、本当に君が作ったの!?」
いきなり激しい反応が来てアデリシアは戸惑う。若者はもう一口噛みついて、額に手を当てた。
「……なんだこれ……!」
「あの……?」
「ちょっと待って……ちょっと……堪能させて」
「あ、はい」
まずいわけではないらしい。ほっとして、アデリシアは続きを食べた。もぐもぐもぐもぐ。うん、うまくできた。普通に美味しい。
クッキーの方も食べた。欲を言えばもう少し焼きたかった。香ばしさがもう少しあれば完璧だった。でも生焼けではなかったので、ほっとする。どうですか、と差し出すと、パイを食べ終えていた若者はそれも食べて、また額に手を当てた。
なんだか面白い。
パイは結構な大きさがあったが、若者がほとんど食べてくれた。クッキーも全部なくなってほっとする。すべて食べ終えた若者は、気がついたように皮袋を出してアデリシアに飲ませてくれた。すっきりした味のお茶だった。
「……ごちそうさまでした」
若者はやや気恥ずかしそうに言い、アデリシアは頷いた。
「お粗末様でした」
「決まり文句でもそれやめて。あの……うちの料理長には悪いけど、こんな美味しいもの食べたの生まれて初めてだ」
「お腹すいてたんだよね」
「満腹だったとしても美味しかったに決まってる。聞いてはいたけどここまでだとは……」
「聞いて?」
「アデルだろ? 君」
言われてアデリシアは目を見張った。「えっ」
「ニースというご婦人を知ってるよね。彼女から聞いた。アデルという、料理の上手な小さな子供がエスメラルダに向かったから、見つけたら面倒見てやって欲しいって」
「どっ、どうして!? どうしてニースをっ」
「遅れていた差し入れを届けたんだよ」
言って若者は、なぜか、少し悲しげに笑った。
「人魚に指示された。マイラ=グウェリン、知ってるよね。彼女が毎回届けていた差し入れを――今回、僕の」
アデリシアは少し待った。僕の、何だろう。
ややして若者は、呻くように言った。
「僕の、捜してる人……に、頼んだらしいんだ。あの塔に、差し入れを届けて欲しいって」
「マイラが? あなたの……」
「捜してる人にね」若者はかたくなに繰り返した。「でも彼女はマイラ=グウェリンの依頼を果たせなかったんだ。行方不明になってしまったから」
「行方……不明、なの?」
「そう。僕は彼女を捜していて、人魚に行方を聞いたんだ。そうしたらあの荷を塔に届けるように言われた。もちろん届けた。届けましたよ。流れ的に、そうしたら行方を教えてくれるのかなって思うじゃないか」
「教えてもらえなかったの……?」
「人魚と連絡が取れない」言って若者は自嘲するように笑った。「無事で、いるんだと思う。そう思わないとやっていられないよ」
「あなたが捜してる人に、マイラがあの差し入れを頼んだのなら……その人は、マイラのお友達なのかしら」
「どうかな」
「差し入れを届けてくれてありがとう」
アデリシアはできる限り丁重にお礼を言った。
「あの差し入れが届いて、みんなほっとしたと思う」
「うん。とても喜ばれたし、マイラが何を保護したがっていたのか、それもわかったし、そのことについて文句を言う気はないんだよ。ニースにマイラの状況を伝えたら、アデル、君を本当に心配してね。よけいなことを頼んでしまったってとても悔やんでいたよ。アデル、いいかい? マイラの現在の状況は、君の手に負える事態じゃない」
「マイラは……あなたは、マイラが今どうしてるか、知ってるの?」
「知ってる。でも、君が彼女に会うのは無理だ」
「無理……?」
「彼女は今とても重要な仕事に就いてる。君が会いに行くとね、気の毒だけど、彼女の邪魔になるんだよ」
「そう……」
「ニースから伝言だ。マイラの邪魔にならないように、一刻も早くエスメラルダから出ろって」
「帰っていいって?」
わずかな期待を込めて聞いたが、若者は首を振った。
「それはだめだ。くれぐれもと言われたよ。絶対に帰って来ちゃいけない。それは変わらないって」
「……そう……」
しょんぼりと肩を落とすアデリシアに、若者が囁いた。
「アデル、いいかい? もう君は、エルカテルミナのそばにいない方がいい」
「……」
あそこからも出るのか、と、アデリシアは思った。
確かに、もうあそこに帰りたいとは思えなかった。サーシャがいる限り。美味しい食べ物を捨てなさい、と、迫ってくる存在のそばになんていられない。
それから何より、これ以上、パトリシアに不信感を持ってしまうことが恐ろしい。
でも、それでは。
塔にも帰れず、パトリシアのそばにも戻らないなら、アデリシアはいったいどこへ行けばいいのだろう。
「エリック=グウェリンは危険だ。それに、あそこにいちゃ君の料理の腕は生かせないだろ。いいかい、吹雪がやんだら、ロビンソン商店に行くんだ」
「ロビンソン」アデリシアは顔を上げた。「魔法道具の、お店よね」
「そう。知ってるだろ? 今朝、とても興味深そうに見てたもんね」
「やっぱり。あなただったのね?」
訊ねると若者は、うん、と頷いた。
「エルカテルミナと一度会ったことがあったから、見つかると厄介だなと思って。あんな事態になって申し訳ないことをした」
「……」
この人は行く先を示そうとしている。
ニースに頼まれた。ニースが頼んでくれた。ニースはまだ、アデリシアを見捨ててはいなかった。
その事実が、じわじわと胸にしみてくる。
「あそこに行けば、全部うまく取りはからってもらえるよ。いいかい? できるだけ早いうちに、エスメラルダを出なきゃいけない。世話役を紹介してもらえるから、その人についてエスメラルダを出る。街道に沿ってまっすぐ、君の足で、そうだな……半日くらい歩けば、集落につく。そこに、シャトーという人間がいる。覚えて。ランバート=シャトー」
「らんばーと」
「そう。その人に、僕の紹介で料理人の見習いとして雇って欲しいって言ってごらん」
「僕って。あなたは誰?」
「うーん」若者は少し悩んだ。「……ユーリ」
「ユーリ?」
「うん。ユーリ=ロビンソン。それが僕の名前だった」
変な言い方だ、とアデリシアは思った。まるで僕自身が最近初めて知ったんだ、とでも言いたげだった。
「ロビンソン商店の、息子さん、なの?」
「そう。ランバート=シャトー様にその名を言えばわかるはずだ。ああ、……もし君が、シャトー家で料理人になる気がないなら、もちろんそれは言わなくていい。僕の紹介で、と言って、保護を求めればいい、その辺は、好きにしていいよ。どちらにせよあの人は、僕の名を出した小さな子供を、粗末に扱うことだけはしないから。ただ僕は君の腕が惜しい。シャトー家の料理人になればもう誰も、君の料理を捨てろなんて絶対言わない。雇い主も料理人も召使いもみんないい人だよ……その家の、お嬢様も」
かすかに喉が鳴った。アデリシアははっとした。
泣いてるのかと思った。
「とてもいい人だ。意外に食いしん坊だからね、君の料理を絶対に喜ぶはずだ。だから大丈夫」
もちろん泣いてはいなかった。ユーリは言って、優しく笑った。
「パトリシアもエリックも、君の手には負えない。もう戻らないで、僕と一緒においで。ニースに頼まれた。あんな高齢のご婦人にあんな風に頼まれたんだ。絶対その期待には応えたいし。何より君のパイの味は一生忘れられそうにない。その腕は生かすべきだ……」
――あたしのレシピを完全に再現できるあんたは、これから先、生きていくのに困ることだけは絶対にない。
ニースの言ったとおりだと、アデリシアは思う。
――あたしのレシピが、あんたを導く。
――モリーのレシピが、あたしを守ってくれたように。
つながっているのだと、思った。
これから先も、つながっていくのだ。きっと。
「お嬢様に、食べさせてあげたいの?」
呟きは口から勝手にこぼれ出た。アデリシア自身が、言ってから驚いたほどだ。
ユーリももちろん驚いた。まじまじとアデリシアを見て、そして笑った。うん、と頷いた様子が、まるで子供みたいだった。
「そうだね。それが本音だ」
大事な人なのだとアデリシアは悟った。
マイラが、フェルディナントという王子様の話をするときと、同じ目をしていた。
「シャトーという家のお嬢さんは、きっと素敵な人なのね。何がお好きかしら? やっぱり甘いもの? あたしの得意なのは、パイだけじゃないわ。タルトも美味しいのよ、それから、夏はやっぱり冷菓子よね。いろんな種類のクッキーも、焼き菓子も、何でも作れるわ。
いいわ。約束するわね。シャトーの料理人になるかどうかは、今はまだ決められない。でも、シャトーのお嬢様に会ったら、絶対に、お好きなものを作ってあげる」
「ありがとう」
ユーリははにかんだように笑う。
「じゃあ、行こう。吹雪の様子を見てから……」
「え、待って。このまま?」
アデリシアは慌てる。けなげな花が不憫だった、そう言った、エリックの声が耳に甦る。優しくしてもらった。嘘をつき続けて疲弊したパトリシアは、急にアデリシアがいなくなったら、どんなに心配するだろう……
「お別れくらい、言ってこないと」
「やめた方がいいよ」
ユーリは真面目な口調で言った。
「君にパイを捨てろと迫った料理人は、君を猛吹雪の中に追い出して、今頃ほっとして――同時に、恐れて、いるはずだ。生かして出すんじゃなかったと、今頃そわそわしているかもしれない。戻ったら何をするかわからないよ」
「……そんなに? そんなに深刻な事態なの?」
アデリシアの問いに、ユーリはあくまで真面目に頷く。
「さっき君は、バターと砂糖が隠してあった、と言ったよね。いいかい、エルカテルミナの料理を管理することを、あのルファルファ教会に認められるほどの熱心な信仰を持つ人間だ。そういう人間の厨房にはそもそも、バターと砂糖、乳製品は、存在してないはずじゃないか」
「……そう、なの?」
「なのに君は買い物に行かずに見事なパイとクッキーを作ってしまった。バターと砂糖が隠してあったから。……そのバターと砂糖はそもそも、何のために隠してあったんだろうね」
そういわれても、とアデリシアは思った。
バターと砂糖のおいてない厨房なんて、アデリシアの理解の範疇を越えている。
「普通に考えれば、それは、料理人の密かな楽しみだったんだ、ということにならないかな?」
「……そう、なる、の?」
「エリックのために使うのなら、隠す必要はないはずだろ。敬虔さが知れ渡っている料理人は、町中で大っぴらに買い食いすることもできない。エルカテルミナの不在中に、パンにバターを塗ってこっそり食べる楽しみを、覚えてしまったのだとしたら。そのためのバターだったのだとしたら。……あのパイは、存在してはならなかった。敬虔なはずの料理人の、堕落を、証明してしまうものだから。パイを捨てると言って出て行った君がもし戻ったら、料理人は君を恐れるだろう。行かない方がいい。刺激しないであげた方がいいよ、お互いのためだ」
「バターを食べるのは、そんなに悪いことじゃないと思うのに」
「それが悪いことになってしまう、それが信仰というものなんだ。……エルカテルミナは気の毒だね。甘いものを食べる楽しみさえ奪われて、どんどん追いつめられていく」
ユーリはそう言って、扉を開いた。
意外なことに、吹雪はすでに止んでいた。激しかったのはほんのひとときだけで、あっと言う間に通り過ぎてしまったらしい。往来に人が戻っている。辺りはすでに夕闇に包まれているが、歩いていくのに支障はなさそうだ。
「行こう」
「……うん」
覚悟を決めて、アデリシアはユーリの手を取った。
ニースの言いつけに従う。サーシャから逃げる。その二つの理由を、いいわけにしていると感じながら、アデリシアはそこから逃げ出した。けなげな花を見捨てて。猛獣のような、一途なあの男のことも見捨てて。嘘と粗暴と暴力と、優しさと気遣いといたわりの、ない交ぜになったあの場所から逃げることに、アデリシアはほっとしていた。
それが申し訳なくて、悲しかった。




