見捨てないで
カイが見つけた隠れ家は、ほんの小さな吹き溜まりだ。
マイラがたどり着くまでに、カイはせっせと穴を掘り、入れる空間を広げていた。ただのこんもりした吹き溜まりが洞窟のようになっている。かまくらだ、私は自然にそう思った。子供の頃にふたりの兄と一緒に作ったのと似ている。
血の香り。
鴉が囁く。マイラも私もその香りには気づかないフリをして、カイが作ってくれた穴の中に居心地よく収まった。次の瞬間、ごうっ、穴の外を吹雪がかき消した。間に合ったあ、カイがほっとしたように呟く。
カイは抜かりがなかった。先ほどあの二人を殺した剣の先を穴の外に出していた。時折それを動かして、空気穴を確保している。
これ以上彼女の心の声を覗いちゃいけない。私はもそもそと胸元からはいだして、冷たい暗闇の中に出た。
ややして、マイラが言った。
「……さっきはありがとう。カイも……それからあなたも。あの鳩に行かれてたら、困ったことになるところだった」
『どういたしまして』
囁くとカイが「げっ」うめき声を上げる。マイラは居住まいを正した。
「どうして鴉なの……コンスタンス」
『あなたも私を知ってるの?』
彼女の腕の上で、翼を広げて、私は白状した。
『ごめんなさい。私、鴉に宿る前の記憶がないの』
「……コンスタンス。本当に、コンスタンスなの?」
『そうみたい。他の人も、私をそうだと……コンスタンスだと、言ったわ。違和感もないし、たぶん、そうなんだと思う。本当に申し訳ないわ。きっと私たち、〈大の仲良し〉だったのでしょう? 忘れてしまってごめんなさい』
「だいの」
『ええとね、私、死にかけたのですって。体は今も、人魚が治療してくださっているのだそうなの。それで、私のね、魂が、だいぶ欠損してしまったから……この鴉に入れてもらって、魂の修復も手伝ってもらっている最中なの』
「そんな……」
『大丈夫。大丈夫よ。死ななかったんだし、この一日でだいぶいろいろな感情も思い出してきたから、あと四日もあれば記憶もちゃんと戻るだろうし、そうしたら全部元どおりになれるわ。……あなたは、マイラ=グウェリン。そうよね? それで、あなたが、カイ……ロビンソンさん、だったかしら。ごめんなさい、あなたのことも私、覚えてないの』
「いや俺は初対面ですので」
カイはぎこちない口調で言った。少しこちらににじり寄った。血がぷんと香った。
「……すっげ。なに、本当に人間が宿ってんの?」
「死にかけたってどういうこと。あなたには何も危険はなかったはず」
マイラが堅い口調で言い、私は翼を上げた。
『ごめんなさいね、何があったのかも、覚えてないの。たぶん私が厄介ごとに首を突っ込んだんだと思うわ、昔からね、兄……兄、だと思うんだけれど……兄に叱られたものなのよ。普段は大人しいくせに、怒ると思いがけない行動をとって、変なところに紛れ込んだりして。……それが本当に、厄介なんだ、って』
言いながら思い出してきた。灰色の瞳が言ったのだ。困惑混じりの、優しい笑みを湛えて。
――ひとりで住むって? 冗談じゃない、危なっかしくて放っておけないよ。貴女はいつもそうじゃないか。へそを曲げると何するかわかんないし。優しくて寂しがり屋で、泣き虫で、厄介ごとに首突っ込んではにっちもさっちも行かなくなるくせに、頑として戻ってこないんだから。
だから結婚して。
あれ、と、思った。私、求婚されたことがあるみたい。
ということは、あの人は兄ではないのかしら?
「……まあとにかく、体には戻れるんだね」
マイラの言葉に、私は頷く。
『ええ、それは、人魚が約束してくれたの、だから大丈夫よ』
「人魚ってさ、どんな人魚なの」カイが軽い口調で聞いた。「エリック側の人魚だったら貴女は僕たちの敵ってことになるんだ」
『疑わしく聞こえるのはわかっているわ。でもごめんなさい。私は、私を助けるよう取りはからってくれた、その人魚に会ってないの。……初めから説明するわね。目が覚めたら鴉になっていたの、それで、ええと……』
銀狼のことは、話してはいけないのだった。
『ええと……起きたら人魚がいたのよ。なんだか意地悪な人魚だったわ。記憶を失う前、私はある、別の人魚と仲良くなったらしいのね。こんぺいと、とかいうものをあげて、私が『たぶらかした』のですって。でも、何らかの事情で、たぶらかされた人魚は力を使いすぎて倒れてしまい、仕方なく、意地悪な人魚に、私の治療を任せた、ということだったみたい。その人魚と、意地悪な人魚が、あなた方の敵と手を結んだ人魚なのかどうか、その辺りは私には判断できない』
「体はどうやって返してもらえるの?」
『さあ、それもよくわからないわ。困ったことがあったら、こんぺいとの人魚の名前を呼びなさい、と言われたのだけど……何しろ意地悪な人魚だもの、私たちに聞き取れない早さで一度だけ教えてくれただけなの。ティシで始まる名前だったことは確かだわ』
「それなら大丈夫」マイラが言った。「エリックと手を組んだ人魚の名はウェルダと呼ばれてた。……貴女は本当に、誰とでも仲良くなってしまうんだね。まさか人魚までたぶらかせるなんて」
『まるで節操のない人間のように聞こえるからやめて頂戴』
たしなめるとマイラはくすっと笑った。
「とにかく、魂を修復すれば、体に戻れるんだね」
『そうね、たぶん、たぶらかされた人魚が元気になったら、捜しに来てくれるんじゃないかしら?』
「ということは、貴女には今、帰れる体がないんだ」
『ええ、人魚の世界で治療中ということだったわ』
「じゃあ」マイラは口調を改めた。「急いでここから出ないと」
「そうだね」カイが何か諦めたように言う。
『ここから? 雪の穴から?』
「違うよ。エスメラルダから。……さっき知ってればなあ。今日はもう暗いし。やっぱり鴉だし、鳥目なんだよね?」
確かに、この暗さではすでに、マイラとカイの表情はおろか、輪郭すら判別できない。
「明日出る人たちに頼めば?」
カイの提案に、マイラは頷いた。
「そうだね……そうする、しか、ないかな」
『ちょっと待って。エスメラルダを出なければならないって、どういうこと? 私、魂を修復しなければならないの。あなたは私を知っているんでしょう? あなたのそばにいれば、いろいろ思い出しそうな気がする』
「だめだよ」
そう言ったのはマイラではなく、カイだった。
「あのねコンスタンス、エスメラルダは今危険なんだ。大勢の人たちをどんどん国から出してる」
『ああそれ、見たわ。この近くの集落に、人が続々集まっていたわ。シャトーという人がお膳立てしてくれてるって、噂してるのも聞いた』
「そうそう。今日回収した〈窓〉を持って帰って加工すれば、もっとどんどん人が出られるようになる。ここに住んでる人たちさえ出ていくような状況の国だよ、ここに留まってちゃいけない」
『でも、あなたたちは?』
「俺たちも出るよ。準備が全部できたらね」
『じゃあ私も、』
「だめだよ」今度はマイラが言った。「シャトーさんのところに行けば安全だから、明日、」
『でも私、さっきちょっとだけ、思い出したことがあるのよ。エクス、トラ、ニクス、男爵』
言うとマイラが息を飲んだ。やっぱり正解だ。
『とても小さな頃よ。もう顔も覚えていないけれど……高い生け垣に囲まれた箱庭のような場所で、綺麗な女の子と一緒に遊んだ。エクストラニクス男爵を紹介してもらって、登らせてもらって、生まれて初めて、木登りって楽しいって思った。……ねえマイラ、それが、貴女なのでしょう?』
「……うそ」
『大きくなってから再会できていたんなら、良かったわ……ごめんなさい、そっちの方は、まだ思い出せないのだけれど。ずっと後悔していたの。……そうよ、これが、『後悔』という感情だわ。そうよね? 私もう、後悔するのは嫌なの。貴女と離れたら、また後悔する。取り返しのつかないことになる、そんな気がする。あの日も、帰っちゃだめだと思ったの。この手を離しちゃいけないって思った。なのに私は、日が暮れたら帰るという保護者の言いつけを守って、帰ってしまって。ずっと悔やんでいたの。困らせても怒らせても、帰っちゃだめだったんだって。次の日に行って、貴女がどこにもいなかったときの、あの悲しさと後悔を覚えてる。もう一度繰り返すのは嫌なの』
「……あれも貴女だったの? もう……」
呟いた声が涙声で、私もカイもギョッとした。マイラは膝に顔を埋めて、涙声で笑った。
「いつもいつも……こう言うときに現れるんだ。貴女って本当に……厄介だ……」
『よく言われるわ』
「言われんの?」
カイが呆れている。私は笑った。
『さっき鴉にも言われたわ。もうあんた本当に厄介だって』
カイも笑い、和やかな沈黙が落ちた。
それを破ったのは、マイラの固い声。
「……帰ってほしい。あたしはもう、別に会いたくなんかなかった。あたしのそばにいても、きっと、魂の修復の助けになんかならないよ。再会したと言ってもほんの最近、ちょっと会っただけだもの。ほとんどなにも知らない」
『あら、そうなの?』
「うん。大の仲良しなんかじゃなかった。さっきのお礼に、今夜のところは泊めてあげられるけれど、明日になったら」
『いやよ』
マイラが動きを止めた。明らかに予想外の答えだったらしかった。
「いや?」
『あなたの気持ちは分かったわ。私とは大の仲良しなんかじゃなく、再会したくもなく、ちょっと会っただけの通りすがりに近い存在なのね。それは悲しいけれど、でもまあ、しょうがないわ。でも、私の方はそうじゃないの』
「……」
『私は貴女が大好きだった。あの箱庭での思い出は、今私が持っているごくわずかな思い出の中で、一番楽しいものなの。わかる? 私には、ほかの楽しい記憶がないの。知ってる人間も貴女とカイだけ。シャトーという貴族が私の後見人らしいという知識はあるけど、顔も知らないのよ。父親の顔も母親の顔も、二人の兄の顔も名前も、なんにも覚えてないの。ここで貴女に会えなかったら、私きっと野垂れ死にしてたと思うのね』
「……え、っと」
『端的に言いましょうか? 見捨てないで』
「や、だからね? 〈国境〉から出て街道をまっすぐ進めば集落があるから、そこにシャトーという」
『顔も知らない相手をどうやって捜せと言うの?』
「しゃべれるでしょ、ランバート=シャトー様ならきっと貴女だってわかってくれるよ」
『そこに至るまではどうすればいい? 私その、ランバート? ランバートさんの顔を知らないの。人に聞いて回るの? 普通の人は、いきなり鴉に話しかけられたら逃げるか倒れるか、信じないかじゃなくって? だからさっきまで私、喋らなかったのだけれど』
「……」
『困ったわ。こうなったら、貴女に一緒にその集落に行ってもらって、ランバートさんにご紹介いただくしかないと思うのだけれど』
「でもね、それは、無理なの。まだやらなきゃいけないことが」
『ええ構わなくてよ。これは私の都合ですもの、貴女のお仕事が済むまで待っていますから』
「だからそれがね!?」
変な音がした。マイラと私は同時にそちらを見た。くっく、カイの喉から変な音が漏れている。
笑っているのだった。
マイラが叫ぶ。「なにがおかしい!」
「いやー、その、その、いやー」
カイは顔を上げ、あっはっは、と笑った。
「姉ちゃんの負けー。素直に、参りましたって、言えば?」
「カイ!」
「あのね、コンスタンス、ここにいたら危ないんだ。それを知った上で姉ちゃんと一緒にいるって言うなら、これだけは守って、ほしいんだ。いい?」
『守る? なにを?』
「死なないでね」
まじめな口調で、カイは言った。
まだ笑いの余韻の残る、明るい声で。
「ヘスを使って生き物に乗り移る前に耳にたこができるほど聞かされる注意事項そのいち、体からできるだけ離れないこと。そのに、離れなければならないときは、できるだけ危険なことに首を突っ込まないこと。なぜなら、体に戻れない状態で意識の宿った体が死んだら、その人間も一緒に死ぬからだ」
『そうなのね。わかったわ』
「死なないでよ。頼むよ」
『わかったわ。できるだけ死なないようにする』
「うん、お願い」
そう言ってカイは、笑ったのだった。
これ以上姉ちゃんに、重いものを背負わせないでね、――と。
私の命なんか、と、私は思った。通りすがりに近い私などの命が、マイラにとってそれほど重い荷になるだろうかと。
なるのだろうと、ほとんど同時にそう思う。
それがこの人の、気の毒なところなのだ。きっと。




