第八話 祝福は呪い、呪いこそ祝福
アシェルは、古い聖堂で待っていた。
祭壇に灯した蝋燭は、すでに半分ほど燃え尽きている。
彼は何度も扉へ目を向けた。
リゼが神の祝福を返すと決めたあの夜から、覚悟はしていたつもりだった。それでも、胸の奥に生じた不安を消すことはできなかった。
神は彼女を許すだろうか。
もしも帰ってこなかったら。
そんな考えが浮かぶたび、アシェルは首を横に振った。
信じよう。
今度こそ、愛する者の意思を信じるのだ。
そのとき、聖堂の扉が開いた。
「アシェル!」
聞き慣れた声が響く。
アシェルは振り返り、目を見開いた。
そこに立っていたのは、間違いなくリゼだった。
けれど、金色だった髪は漆黒に染まり、背には大きな黒い翼が広がっている。額には、小さな二本の角。
彼女はもう、聖女ではなかった。
「……リゼ」
「ただいま!」
リゼは嬉しそうに駆け寄ってきた。
アシェルは慌てて彼女を抱き留める。
その身体は温かかった。心臓が動き、息をしている。
生きている。
それを確かめた途端、彼は深く息を吐いた。
「……無事だったか」
「ええ、もちろん」
「神は何と?」
「愚かな娘だとおっしゃっていたわ」
「だろうな」
「それから、もう二度と聖女には戻れないそうよ」
リゼは自分の翼を広げてみせた。
「ねえ、似合うかしら?」
アシェルは思わず笑った。
「お前という女は……」
「似合わない?」
「いや」
彼は彼女の黒髪をそっと撫でた。
「とても美しいよ」
リゼは頬を染めた。
「まあ。では、悪魔になった甲斐があったわね」
「そんな理由で喜ぶな」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて、リゼは真剣な顔になった。
「アシェル。準備はできている?」
「ああ」
「本当に、よろしいのね?」
「何度も聞くな」
「だって、心配なのですもの」
リゼは小さく俯いた。
「もしも呪いが失敗したら。もしも、あなたを傷つけてしまったら……」
アシェルは彼女の頬に手を添えた。
「リゼ」
「……はい」
「私は、私自身の意思で選んだんだ」
彼は静かに言った。
「神の祝福を失い、いつか死ぬことのできる命を」
リゼは彼を見上げた。
「だから、恐れるな。お前が私に何かを強いるわけではない」
アシェルは微笑んだ。
「私は、お前と同じ時を生きたい」
リゼの目から、涙がこぼれた。
「……はい」
*
呪いの儀式は、かつてアシェルが神に祈り続けていた祭壇で行うことにした。
リゼは、古い神学書で学んだ言葉を思い出していた。
神の祝福を覆す呪いには、それに匹敵する力が必要となる。
けれど、それ以上に大切なのは、祝福を受けた者自身の意思だった。
どれほど強い呪いをかけても、本人が祝福を手放すことを望まなければ、魂はその運命を拒絶する。
リゼは、アシェルを見つめた。
神の愛した天使。
死を導く役目を担いながら、自分自身には死を許されなかった男。
その魂に、今から終わりを与えるのだ。
かつてのリゼは、神の祝福を受けた聖女だった。
その魂には、生まれながらにして強い力が宿っていた。堕天した今、その力は祝福を否定する呪いへと変わっている。
しかし、それだけでは足りない。
神が最も愛した天使に与えた祝福は、あまりにも強大だった。
神が最後まで手放すことを拒むのなら、どれほど力を尽くしても届かないかもしれない。
リゼは、神の最後の言葉を思い出した。
あの子を、頼む。
その言葉が、何を意味するのかはわからない。
けれど、信じてみたかった。
神もまた、アシェルの幸福を望んでくださっているのだと。
「アシェル」
リゼは彼の両手を取った。
「あなたは、神の祝福を捨てることを望みますか?」
「ああ」
「老いることを、望みますか?」
「望む」
「病に罹り、傷つき、いつか死ぬことを望みますか?」
アシェルは一度だけ目を閉じた。
千年ものあいだ、何度も願ってきたことだった。
けれど、今はその意味が違う。
彼は静かに答えた。
「望む」
リゼは頷いた。
「では、あなたに呪いを贈ります」
その指先から、黒い光が溢れ出した。
神の奇跡とはまるで違う、冷たく深い闇の色。
けれどリゼは、不思議と恐ろしくなかった。
彼女はそっと、アシェルの胸に手を当てた。
「どうか、あなたが老いることができますように」
黒い光が彼を包む。
「どうか、あなたが病むことができますように」
光が強くなった。
「どうか、あなたが傷つき、痛みを知ることができますように」
そのとき、アシェルの身体から、眩い金色の光が溢れ出した。
神の祝福だった。
千年ものあいだ、決して彼を離れなかった永遠の命。
それが、リゼの呪いに抗うように輝いている。
彼女は唇を噛んだ。
強い。
あまりにも強い祝福だった。
これほどまでに、神はアシェルを愛していたのだ。
リゼは涙を堪えた。
「……お願い」
小さく呟く。
「どうか、この方を自由にしてあげて」
黒い光が、金色の光を包み込んでいく。
アシェルはリゼの手を握り締めた。
「リゼ」
「……はい」
「私は、死にたいのではない」
リゼは顔を上げた。
「生きたいんだ」
彼は微笑んだ。
「お前と共に」
その瞬間だった。
金色の光が、ふっと揺れた。
それまで黒い光を押し返していた輝きが、わずかに和らいだのである。
まるで、何かを強く握り締めていた手が、ゆっくりと開かれていくようだった。
リゼは息を呑んだ。
神の気配がした。
遠い天上から、ただ静かに、二人を見守っているような。
金色の光に、ひびが入った。
澄んだ音が響き、続いて幾筋もの亀裂が走る。
やがて、硝子の砕けるような音と共に、神の祝福が弾け散った。
光の欠片が舞い上がり、夜の闇に溶けていく。
長い沈黙が落ちた。
リゼは恐る恐る目を開いた。
「……アシェル?」
彼はその場に立っていた。
何も変わらない、美しい姿だった。
けれど、彼の魂を包んでいた永遠の輝きだけが、消えていた。
肉体に千年の歳月が押し寄せることもなかった。
永遠の命を与えられたときの若さは、そのまま残されている。
ただ、これからは違う。
明日が来れば、今日よりも一日だけ年を取る。
季節が巡れば、その分だけ寿命が短くなる。
いつか老い、病み、そして死ぬ。
アシェルは、ようやく有限の命を手に入れたのだ。
彼は自分の胸に手を当てた。
「……消えた」
掠れた声が漏れる。
「神の祝福が、消えた」
リゼは息を呑んだ。
「本当に?」
「ああ」
アシェルは笑った。
「私はもう、永遠を生きなくてもいいんだな」
彼の目から、涙がこぼれた。
リゼも泣いた。
嬉しくて、嬉しくて、どうしようもなかった。
「よかった……」
アシェルは彼女を抱き締めた。
「ありがとう、リゼ」
その声は震えていた。
「ありがとう……」
リゼは彼の背に腕を回した。
「どういたしまして」
しばらくして、アシェルは小さく笑った。
「しかし、ひどい呪いだな」
「そうでしょう?」
「老いて、病んで、死ぬことを願うとは」
「ええ。とても恐ろしい呪いですわ」
リゼは涙を拭った。
「でも、まだ最後の言葉が残っておりますの」
「最後?」
「ええ」
彼女はアシェルの頬に手を添えた。
「どうか、あなたが死ぬその日まで、幸福に生きられますように」
アシェルは目を見開いた。
リゼは微笑んだ。
「そして、できることなら、私を最後まで愛してくださいませ」
アシェルは笑った。
「それは、呪いではないだろう」
「いいえ、立派な呪いですわ」
「なぜだ?」
「だって、あなたに拒否権はありませんもの」
リゼは悪戯っぽく笑った。
「私、一生あなたを離して差し上げません」
アシェルは、とうとう声を上げて笑った。
「なんと恐ろしい悪魔だ」
「ええ。覚悟してくださいませ」
彼は彼女の額に口づけた。
「喜んで、呪われよう」
そして、もう一度抱き締めた。
かつて死を願い続けた悪魔は、今ようやく、生きることを許された。
神の祝福ではなく、愛する女の呪いによって。
そして、神自身もまた、愛する者を手放すことを選んだのかもしれない。
祝福は呪い、呪いこそ祝福である。
その言葉が、これほど幸福な意味を持つ日が訪れるとは。
アシェルは千年のあいだ、一度たりとも想像したことがなかった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




