第九話 生きたがりの悪魔
世界で最も死にたがりの悪魔が、結婚した。
相手は、かつて聖女と呼ばれていた女である。
神に背き、祝福を捨て、悪魔となった恐ろしい女。
人々は彼女を大罪人と呼んだ。
けれど、当の本人たちは、そんなことなど少しも気にしていなかった。
「ねえ、アシェル。こちらの花と、あちらの花、どちらが素敵かしら?」
「……どちらでもいいんじゃないか」
「まあ!」
リゼは頬を膨らませた。
「結婚式のお花なのよ? もっと真剣に考えてくださらない?」
「いや、どちらも綺麗だと思っただけなんだが」
「それでは答えになっておりませんわ」
アシェルは困り果てた。
千年以上生きてきた彼にも、どうやら理解できないことがあるらしい。それが、花嫁のこだわりというものだった。
結局、リゼは白い薔薇を選んだ。
結婚式は、二人が初めて出会った古い聖堂で行うことになった。
神官はいない。聖歌隊も、参列する貴族たちもいない。
ただ、庭で摘んだ花と、幾本かの蝋燭が飾られているだけだった。
けれどリゼは、満足そうだった。
「ここで、あなたに出会ったのよね」
「ああ」
「覚えていらっしゃる?」
「忘れるものか」
アシェルは笑った。
「死なせてくれと祈っていたところへ、妙な聖女が現れたんだ」
「まあ、妙だなんて」
「悪魔に向かって、名前を教えろと言う聖女がどこにいる」
「ここにおりましたわ」
リゼは楽しそうに笑い、アシェルも笑った。
そして二人は、互いの手を取った。
「リゼ」
「はい」
「私は、お前を愛している」
アシェルは静かに告げた。
「神の祝福を失い、いつか死ぬことのできる命となった。だからこそ、残された人生のすべてを、お前と共に生きたい」
リゼの頬が赤く染まった。
「私も、あなたを愛しています」
彼女は微笑んだ。
「いつか私たちが年を取って、お互いのお顔に皺が増えても、ずっとお傍にいさせてくださいね」
「ああ」
「病気になったら、看病してあげます」
「頼りにしている」
「でも、無理をなさったら叱りますからね」
「……それは怖いな」
二人は笑い合い、口づけを交わした。
神の祝福はなかった。
天上から光が降り注ぐこともなかった。
けれど二人にとっては、それで十分だった。
*
結婚してからというもの、アシェルは実に忙しくなった。
まず、家を建てた。
古い聖堂は思い出の場所として残し、少し離れた森の麓に、小さな家を構えたのである。
リゼは庭に花を植え、アシェルは畑を耕した。
春には種を蒔き、夏には水をやり、秋には収穫する。冬になれば暖炉に薪をくべ、二人で毛布にくるまって過ごした。
それまで幾百年も変わらぬ姿で生きてきたアシェルにとって、季節の移ろいは新鮮だった。
以前にも春は来たし、冬も訪れた。
けれど、そのたびに自分の命が少しずつ終わりへ近づいているのだと思うと、不思議なほど愛おしく感じられた。
そして、結婚して三度目の冬。
アシェルは、生まれて初めて風邪をひいた。
「リゼ!」
寝室から声が響いた。
何事かと駆けつけると、アシェルが寝台の上で目を輝かせている。
「どうなさったの?」
「身体が熱い!」
「まあ」
「頭も痛む!」
「……風邪ね」
「風邪!」
アシェルは感極まったように叫んだ。
「これが病気というものか!」
「喜んでいる場合ではありません!」
「私は熱を出しているんだな!」
「ええ、そうよ!」
「素晴らしい!」
「ちっとも素晴らしくありません!」
リゼは呆れ果てた。
風邪をひいて喜ぶ夫など、世界中を探しても彼くらいのものだろう。
結局、アシェルは三日間寝込んだ。
その間、リゼは薬を煎じ、額を冷やし、何度も様子を確かめた。
ようやく熱が下がった頃、アシェルは真剣な顔で言った。
「リゼ」
「なあに?」
「……病気は、もう十分だ」
リゼは声を上げて笑った。
「でしょうね!」
アシェルも笑った。
老いも病も死も、遠くから眺めているときとは違って、少々厄介なものらしい。
けれど、それすらも彼には嬉しかった。
何より、熱に浮かされて目を覚ましたとき、傍らにリゼがいることが。
それが、たまらなく幸福だった。
*
そして、二人が結婚して幾年か経った頃。
リゼは、ひとりの女の子を産んだ。
父親譲りの艶やかな黒髪に、陽光を溶かしたような黄金色の瞳。その顔立ちは驚くほど整っていて、産婆は思わず息を呑んだほどだった。
けれど、赤ん坊には角も翼もなかった。
魔力も、奇跡を起こす力も持っていない。
神の祝福も、悪魔の呪いも受け継がなかった。
その子は、ただの人間だった。
神に背いて悪魔となることは、魂の在り方が変わることを意味する。
アシェルは元天使であり、リゼは元聖女だった。どちらも今は悪魔だが、その変化が子供へ受け継がれるわけではない。
堕天して地上の肉体を得たアシェルと、人間として生まれたリゼ。
二人の間に生まれた娘には、両親の容姿こそ受け継がれたものの、神に定められた特別な運命は与えられていなかった。
「……リゼ」
アシェルは赤ん坊を抱いたまま、震える声で妻を呼んだ。
「この子には、角がない」
「ええ」
「翼もない」
「ええ、あなた」
「人間だ」
リゼは微笑んだ。
「そうね。私たちの娘は、普通の人間なのね」
アシェルは赤ん坊を見つめた。
小さな手。柔らかな頬。規則正しく繰り返される呼吸。
この子も、いつか年を取り、病に罹り、死ぬのだろう。
そのことが、彼にはたまらなく嬉しかった。
「……よかった」
アシェルの目から、涙がこぼれた。
「この子は、自由なんだな」
神に与えられた運命も、永遠の命もない。
自分の意思で未来を選び、限りある人生を生きていける。
かつて彼が千年のあいだ願い続けた、ごく普通の人生。
そのすべてを、この小さな娘は生まれながらに持っていた。
リゼは夫の頬を撫でた。
「ええ。きっと、幸せになれるわ」
アシェルは頷き、赤ん坊を大切そうに抱き締めた。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
その声は、涙で震えていた。
*
時は流れた。
娘はすくすくと育った。
父によく似た美しい顔立ちの少女は、何ひとつ特別な力を持たなかった。
転べば泣き、熱を出せば寝込み、勉強には得意不得意があり、料理も最初は失敗ばかりだった。
けれど両親は、そんな娘を心から愛した。
アシェルは、娘が初めて歩いた日に泣き、初めて言葉を話した日にも泣いた。初めて風邪をひいた日には、娘以上に大騒ぎをした。
そのたびにリゼは夫を叱った。
やがて娘が成長し、自分の人生を歩み始める頃には、アシェルの黒髪にも銀色が混じるようになっていた。
初めてそれを見つけた日、リゼは嬉しそうに笑った。
「まあ、あなた。白髪があるわ!」
「……本当か?」
「ええ、ほら」
鏡を見せると、アシェルはしばらく自分の髪を眺めていた。そして、静かに微笑んだ。
「そうか。私も年を取ったんだな」
「ええ」
「お前と同じように」
「もちろんよ」
リゼは夫の髪を撫でた。
「とても素敵だわ」
アシェルは照れくさそうに笑った。
千年ものあいだ、変わることのなかった容貌。
それが少しずつ老いていく。
その変化を愛しいと思えることが、彼には何よりも幸福だった。
*
さらに幾十年もの歳月が過ぎた。
ある秋の日、アシェルとリゼは庭の林檎の木の下に座っていた。
娘はとうに独り立ちして、自分の家庭を持っている。ときおり孫を連れて訪ねてくるのが、二人の楽しみだった。
アシェルの髪はすっかり銀色になり、リゼの顔にも穏やかな皺が刻まれている。
若い頃には当たり前だったことが、今では少しずつ難しくなっていた。
それでも二人は、変わらず仲睦まじかった。
「ねえ、あなた」
「なんだ」
「今日はお天気がいいわね」
「ああ」
アシェルは空を見上げた。
秋の陽光が、庭に柔らかく降り注いでいる。
「……昔のことを思い出していた」
「昔?」
「お前と出会う前のことだ」
リゼは夫を見つめた。アシェルは静かに笑った。
「私は長い間、死にたいと思っていた」
「ええ」
「朝が来るたびに絶望した。今日も生きてしまったと、何度も思ったものだ」
彼は遠い目をした。
あれほど長い時間を生きてきたというのに、今ではまるで夢のようだった。
「だが、今は違う」
「そうね」
「明日も生きたいと思う」
リゼは微笑んだ。
「私もよ」
「明後日も、その次の日も。できることなら、あと何十年でも生きていたい」
「まあ、欲張りになったのね」
「ああ。お前のせいだ」
アシェルは笑った。
「お前が私を呪ったから、私は生きることが惜しくなってしまった」
「なんて恐ろしい呪いでしょう」
「まったくだ」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて、アシェルは妻の手を取った。
「リゼ」
「なあに?」
「後悔していないか」
「何を?」
「神の祝福を捨てたことを」
リゼは少し考えた。
聖女だった頃のことも、悪魔になってからの日々も、今では等しく大切な思い出だった。
失ったものがなかったわけではない。
神殿で共に過ごした人々。二度と戻れなくなった場所。救えなかった命。
けれど、得たものも数えきれないほどあった。
夫と過ごした日々。娘の成長。孫たちの笑顔。
そして、何気ない毎日の幸福。
「いいえ」
リゼは首を横に振った。
「一度も、後悔しておりませんわ」
アシェルは目を細めた。
「そうか」
「ええ。だって、あなたと一緒に生きてこられたんですもの」
彼は妻の手の甲に口づけた。
「ありがとう、リゼ」
「どういたしまして」
秋風が吹き、庭の林檎がひとつ、地面に落ちた。
リゼは夫の肩に頭を預けた。
「ねえ、あなた」
「なんだ」
「来世があったら、また私と結婚してくださる?」
アシェルは少し考えた。
「そうだな……」
「まあ、迷うの?」
「いや。次はもう少し早く出会えたらいいと思ってね」
リゼは笑った。
「では、今度はあなたから迎えに来てちょうだい」
「ああ、そうしよう」
「約束よ」
「もちろん」
アシェルは妻の額に口づけた。
それから、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで、リゼ」
「なあに?」
「お前は昔、私に死を贈ると言ったな」
「ええ」
「だが、結局お前がくれたのは、死ではなかった」
リゼは首を傾げた。
「そうかしら?」
「ああ」
アシェルは微笑んだ。
「お前が私にくれたのは、生きたいと思える人生だった」
リゼは夫を見つめた。
かつて死を願い続けていた悪魔。
神の愛に苦しみ、永遠に絶望していた男。
その人が今、明日を楽しみにしている。
それだけで、彼女はもう十分だった。
「ねえ、アシェル」
「なんだ」
「私も、あなたに呪われてしまったみたい」
「ほう?」
「だって、あなたと一緒にいると、いつまでも生きていたくなってしまうんですもの」
アシェルは笑った。
「それは重い呪いだな」
「ええ、とても」
リゼは夫の手を握り直した。
「どうか、死が私たちを迎えに来るその日まで、この呪いが解けませんように」
「ああ」
アシェルは静かに頷いた。
「私も、そう願うよ」
*
かつて、ひとりの悪魔が死を願った。
神はその願いを聞き届けなかった。
神は、彼を愛していたから。
そして、ひとりの聖女が悪魔となった。
神の祝福を捨て、愛する男に呪いを授けた。
人々は彼女を悪女と呼び、神殿は歴代聖女の名簿からその名を抹消した。
けれど彼女は、一度たりとも後悔しなかったという。
彼女の呪いによって、悪魔は老いを知り、病を知り、死を知る身体となった。
そして何より、生きる喜びを知った。
それは、神の祝福では与えられなかったものだった。
死を願う悪魔は、もういない。
今、彼らはいつか訪れる死の向こうに、安らかな終わりを望んでいる。
その日が来るまで、共に生き、共に笑い、互いを愛し続けることを。
祝福は呪い、呪いこそ祝福である。
神は永遠を祝福と呼び、死を呪いと呼んだ。
けれど彼らにとっては、永遠こそが呪いであり、限りある命こそが祝福だった。
そうして今日もまた、二人は同じ朝を迎える。
明日も生きたいと願いながら。
いつか共に死ねることを、幸福に思いながら。
世界で最も幸福な、二人の悪魔として。
読んでくださり、ありがとうございました。
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