第七話 神の愛、悪魔の愛
新月の夜だった。
神殿の大聖堂には、静寂が満ちていた。
色硝子で飾られた窓の向こうでは、厚い雲が星を隠している。
リゼは白い聖女の衣に身を包み、祭壇の前に立っていた。
幼い頃から、数えきれないほど祈りを捧げてきた場所だった。
病人が癒やされるように。飢えた者が救われるように。悲しむ者に安らぎが訪れるように。
そのどれもが、心からの願いだった。
けれど今夜、彼女が捧げる祈りは違っていた。
「神よ」
リゼは跪いた。
「私は、あなたの祝福をお返しします」
静かな声が、大聖堂に響く。
「どうか、私をあなたの聖女から解き放ってください」
その瞬間だった。
月のない夜だというのに、聖堂の窓が眩い光を放ち始めた。
色硝子を通して降り注ぐ光が祭壇を照らし、やがてリゼの身体を包み込む。
彼女は息を呑んだ。
『我が娘よ』
声が響いた。
男とも女ともつかぬ、美しい声だった。
リゼはその声を知っていた。初めて奇跡を起こした幼い日にも、病に苦しむ人々を救った夜に、夢のなかで彼女を褒めてくれたのも、この声だった。
ほかならぬ、神の声である。
『汝は何を望む』
「愛する方と、共に生きたいのです」
『汝にはすでに、多くの愛を与えた』
「はい。私はとても幸せでした」
『では、なぜ我が祝福を拒む』
リゼは顔を上げた。
「あなたの愛した方を、私も愛してしまったからです」
光が揺れた。
『……アシェルか』
その声には、わずかな驚きが滲んでいた。
『あの子は、今も我がもとへ帰ろうとはせぬのだな』
「はい」
『あの子の祈りは、長い年月にわたって我がもとへ届いていた。だが、しばらく途絶えている』
リゼは目を見開いた。
神は知っていたのだ。
アシェルが千年ものあいだ、死を願い続けてきたことを。
そして、彼が祈らなくなったことさえも。
『あの子は、もう死を望んではおらぬのか』
「……はい。今は違います」
『違う?』
「あの方は、生きたいと願うようになりました」
神は答えなかった。
「私と共に生き、共に年を取りたいと。いつか訪れる死を恐れながら、それでも明日を迎えたいと、願ってくださったのです」
『ならば、我が祝福のままでよかろう』
神は静かに告げた。
『あの子は永遠を生きる。我は汝にも永遠を与えよう』
リゼは目を見開いた。
『そうすれば、汝らは二度と別れを恐れることもない』
それは、神にとって最大限の慈悲だったのだろう。
愛する者と、永遠に共にいられる。
老いも病も、死も訪れない。
誰もが羨む祝福だった。
けれどリゼは、首を横に振った。
「お断りいたします」
大聖堂の光が揺らめく。
『なぜだ』
「私たちは、いつか死ねるほうがいいのです」
『死は別離をもたらす』
「ええ」
『愛する者を失う苦しみを、汝は知らぬ』
「……はい。まだ、知りません」
リゼは素直に頷いた。
「きっと、いつか後悔することもあるのでしょう。もっと一緒にいたかったと、泣く日も来るかもしれません」
『ならば、永遠を受け入れよ』
「でも、それは私たちの望む幸福ではないのです」
神は沈黙した。
リゼは静かに続ける。
「神様。あなたは、アシェルを失うことが怖かったのでしょう?」
『……あの子は、我が愛し子だ』
「ええ」
『誰よりも慈悲深く、死を迎える魂を優しく導く天使だった』
神の声が、わずかに柔らかくなった。
『あの子が死者のために涙を流すたび、我はその優しさを愛おしく思った』
リゼは黙って耳を傾けた。
『あの子は、いずれ役目を終え、我が光へ還るはずだった』
その声には、深い慈しみがあった。
『魂は我がもとへ還る。だが、あの子があの子でなくなってしまう。二度とその声を聞くことも、あの子と語り合うこともできぬ』
神は静かに続けた。
『だからこそ、あの子を失いたくなかった』
その言葉には、偽りがなかった。
神は本当にアシェルを愛していたのだ。
その命が永遠に続くことを、心から望んでいた。
「……でも、アシェルは苦しんでいました」
『知っている』
「何度もあなたにお願いしたそうです。どうか死なせてください、と」
『あの子の願いを叶えれば、我はあの子を失う』
リゼは悲しくなった。
神はアシェルを愛している。
けれどその愛は、アシェルの望みを聞き入れることができなかったのだ。
「神様」
リゼはそっと胸元の聖印に触れた。
「私も、あの方を失うのは怖いのです」
『ならば、わかるであろう』
「ええ。あなたのお気持ちは、少しだけわかります」
リゼは微笑んだ。
「だからこそ、私はあの方を自由にして差し上げたいのです」
光が静かに揺れた。
「愛しているから、永遠に傍にいてほしい。でも、愛しているから、あの方が望まない永遠に閉じ込めたくはないの」
リゼは聖印を外した。
長い間、胸元に飾ってきた銀の印。
それを両手で包み、祭壇の上に置く。
「私は、あなたを憎んでいるわけではありません」
『……我が娘よ』
「ただ、あなたとは違う愛し方を選びたいのです」
リゼは深く頭を下げた。
「これまで、ありがとうございました」
聖印にひびが入った。
高く澄んだ音と共に、銀の印が砕け散る。身体を包んでいた温かな光が、少しずつ失われていった。
リゼは胸を押さえた。
魂の奥から、何かが引き抜かれていくようだった。
生まれたときから彼女のなかにあった、神の祝福。
それが消えていく。
代わりに、冷たい力が背中から広がった。
衣の裂ける音がした。
振り返ると、そこには漆黒の翼が生えていた。額には小さな角が現れ、金色だった髪が、毛先からゆっくりと夜の色に染まっていく。
リゼは自分の手を見つめた。
もう、奇跡を起こすことはできない。
けれど、これまで神の祝福を受け止めてきた魂の力まで消えたわけではなかった。
その力は今、神の定めた運命に逆らう、呪いの力へと変わっていた。
聖女リゼは、悪魔となった。
『愚かな娘よ』
神の声が響いた。
『汝は二度と、我が聖女には戻れぬ』
「承知しております」
『汝が選んだ道は、苦難に満ちていよう』
「ええ。そうでしょうね」
リゼは微笑んだ。
「でも、きっと幸せにもなれると思うのです」
神は何も答えなかった。
やがて、大聖堂を満たしていた光が静かに消えていく。
その最後の一筋が消える直前、リゼには小さな声が聞こえた気がした。
『……あの子を、頼む』
リゼは顔を上げた。
けれど、もう神の気配はなかった。
彼女はしばらく祭壇を見つめていたが、やがて深く一礼した。
「はい」
小さく答える。
「必ず、幸せになります」
そうして、かつて聖女だった娘は神殿を後にした。
白い衣を纏ったまま、背には黒い翼を広げて。
大聖堂の扉を開けると、夜の風が頬を撫でた。
その先には、見慣れた神殿の回廊が続いている。
もうここを、聖女として歩くことはない。
リゼは一度だけ振り返った。
けれど、涙は出なかった。
神に背いた悪魔となった彼女の顔には、不思議なほど晴れやかな笑みが浮かんでいた。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




