第六話 聖女の最後の夜
聖女リゼが神殿を去る。
その噂が広まり始めたのは、秋も深まった頃だった。
もっとも、リゼ自身は誰にも詳しい事情を説明していない。ただ、任されていた仕事を少しずつ他の者へ引き継ぎ、施療院に置いていた私物を片づけ始めただけである。
「聖女様、本当にお辞めになるのですか?」
若い修道女が、不安そうに尋ねた。
「ええ。もうすぐね」
「どうしてですか? 神殿で何か嫌なことでも?」
「いいえ」
リゼは首を横に振った。
「みんな、とてもよくしてくださったわ」
「でしたら、どうして……」
「私にも、やりたいことができたの」
修道女は納得できない様子だった。
それも無理はない。聖女は神に選ばれた存在であり、その務めを自ら捨てる者など、聞いたこともなかった。
リゼは薬草の入った小瓶を棚に並べていった。
「この薬は熱を下げるときに使ってね。ただし、身体の弱い方には少しずつ。こちらは傷口を洗うためのものよ」
「はい……」
「それから、熱病の方には清潔な水を十分に飲ませてあげて。私がいなくなっても、できることはたくさんあるのだから」
修道女は頷いた。リゼは微笑んだ。
神の奇跡を使わなければ救えない命がある。そのことを、彼女は誰よりもよく知っていた。
だからこそ、奇跡に頼らず救える命を、少しでも増やしておきたかった。
アシェルから教わった医術は、そのために大いに役立った。彼の知る古い薬草の知識や治療法には、今の神殿では失われてしまったものも多い。
リゼはそれらを書物にまとめて、施療院に残した。
自分が去ったあとも、誰かの役に立つように。
*
神殿の院長に呼び出されたのは、その日の夕方だった。
「リゼ。あなたは本当に、神殿を去るつもりなのですね」
院長は白髪の老女だった。リゼが幼い頃から世話になってきた、母親のような存在である。
「はい」
リゼは静かに頷いた。
「理由を聞いてもよろしいですか」
「……愛する方ができたのです」
院長は目を細めた。
「その方のために、聖女を辞めると?」
「はい」
「神殿に仕えたままでは、愛することができないのですか」
「できないことはありません。でも、あの方と共に生きるためには、神様の祝福をお返ししなければならないのです」
院長はしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。
「……その方は、人間ではないのですね」
リゼは驚いた。
「ご存じでしたの?」
「いいえ。ただ、あなたの言葉でわかりました」
院長は悲しげに微笑んだ。
「以前、施療院であなたを助けてくれた方なのでしょう。あの方は、悪魔だったのですね?」
リゼは俯いた。
「はい」
「そうですか」
院長は目を閉じた。
長い沈黙が落ちる。やがて、静かな声が響いた。
「私は、あなたを幼い頃から見てきました」
「……はい」
「あなたは昔から、困っている人を見捨てられない子でした。怪我をした鳥を拾ってきては、治るまで付きっきりで世話をしていたものです」
リゼは思わず微笑んだ。
覚えている。庭に落ちていた小鳥を拾ったのは、まだ奇跡をうまく使えない頃のことで、何日もかけて世話をしたのだった。
「あなたがその方を愛していることは、疑いません」
院長は続けた。
「けれど、あなたが神の祝福を失えば、救えなくなる命があるでしょう」
「……はい」
「それを、どう思いますか」
リゼはすぐには答えられなかった。
施療院には、今も彼女の奇跡を必要としている者がいる。自分が聖女でなくなれば、救えない命もあるかもしれない。
それは、恐ろしいことだった。
「……申し訳ないと思います」
リゼは小さく答えた。
「できることなら、これからも皆さんを助けたい。でも、私が一生をかけて救える人の数にも、限りがあります」
「ええ」
「私には、すべての人を救うことはできません」
院長は静かに頷いた。
「ですから、せめて私がいなくなったあとも、皆さんが助け合えるようにしたいのです」
リゼは顔を上げた。
「薬の作り方も、治療の仕方も、できる限り残します。それでも救えない人がいることは、忘れません」
「……それでも、去るのですね」
「はい」
院長は長い間、リゼを見つめていた。やがて、困ったように笑った。
「あなたは本当に、頑固な子ですね」
「申し訳ありません」
「謝るくらいなら、もう少し考え直してほしいものです」
リゼは何も言えなかった。
院長は立ち上がり、彼女のもとへ歩み寄って、その手を取った。
「私は、あなたの選択を祝福できません」
「……わかっております」
「神の御心に背くのですから、当然です」
「はい」
「けれど」
院長の声が、わずかに震えた。
「あなたを愛していることは、変わりませんよ」
リゼは目を見開いた。院長は優しく微笑んだ。
「私にとって、あなたは大切な娘なのです。たとえ聖女でなくなっても、悪魔になってしまっても」
「院長様……」
「ですから、どうか幸せになりなさい」
リゼの目から、涙がこぼれた。
幼い頃、悲しいことがあるたびに抱き締めてくれた人だった。神の教えを説き、祈りを教え、奇跡の使い方を教えてくれた人。
その人を悲しませてしまうことが、リゼには何よりつらかった。
「……ごめんなさい」
「いいのですよ」
院長はリゼを抱き締めた。
「ただし、ひとつ約束してください」
「何でしょう?」
「いつか後悔することがあれば、ひとりで抱え込まないこと。あなたがどんな姿になっても、話くらいは聞いてあげられます」
リゼは泣きながら笑った。
「はい。約束します」
*
別れ際、院長はリゼに小さな鍵を渡した。
「……これは?」
「大聖堂の鍵です」
リゼは目を見開いた。
「院長様」
「神の祝福を返すには、あの祭壇の前で祈らなければならないのでしょう?」
「……はい」
「今夜から明日の夜まで、大聖堂には誰も近づけないようにしておきます」
リゼは鍵を見つめた。
「でも、それでは院長様まで……」
「私はあなたの選択を祝福しません。それは変わりませんよ」
院長は静かに言った。
「けれど、あなたが最後に神へ祈る場所くらいは、用意してあげたいのです」
リゼは唇を噛んだ。
「ありがとうございます」
「お礼など結構です。それよりも、忘れ物をしないように」
「はい」
「それから、神殿を去ったあとも、もし無事なら手紙を寄越しなさい」
「……よろしいのですか?」
「私が返事を書くかどうかは、そのとき考えます」
院長は少しだけ笑った。
リゼも笑った。
別れとは、すべてを失うことではないのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
*
神殿を去る準備が整った夜、リゼは自室の窓から空を見上げていた。
雲間には星が輝いている。
明日の新月には、神の祭壇の前で祝福を返すことになる。
神殿を出れば、もう二度と聖女には戻れない。
リゼは胸元の聖印に触れた。幼い頃、院長から贈られたものだった。
何度も祈りを捧げ、神に感謝し、人々の幸福を願ってきた。その日々は、決して偽りではなかった。
「神様」
リゼは小さく呼びかけた。
「私は、あなたを嫌いになったわけではないのです」
返事はなかった。
「今まで、たくさんの幸せをありがとうございました」
窓から冷たい風が吹き込む。リゼは目を閉じた。
「でも、これからは私自身の幸福を選びたいのです」
明日、自分は聖女ではなくなる。
神に背き、悪魔になる。
それはきっと、多くの人から祝福されない門出なのだろう。
けれど、アシェルが待っている。
長い長い孤独の果てに、ようやく生きたいと願った人が。
リゼは聖印を握り締めた。
明日、彼女は神に最後の祈りを捧げる。
それがたとえ、神との別れを告げる祈りになったとしても。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




