第五話 私の愛は悪へと染まる
聖女が悪魔になる方法を見つけた。
そう告げられたとき、アシェルはひどく険しい顔をした。
「……もう一度言ってくれ」
「ですから、私、悪魔になろうと思うの」
リゼはにっこりと微笑んだ。
今日も古い聖堂には、穏やかな午後の日差しが降り注いでいる。窓辺には花が飾られ、卓上には焼き菓子が並んでいた。
そんな平和な光景のなかで告げるには、少々物騒な話だったかもしれない。
「お前は何を考えているんだ!」
案の定、アシェルは声を荒らげた。
「悪魔になるということが、どういう意味かわかっているのか!」
「ええ。神様の祝福を捨てることになるのでしょう?」
「それだけではない!」
アシェルは卓上の聖典を指差した。
「神に背き、天上の秩序から外れるということだ。お前がこれまで仕えてきた神殿にも、二度と戻れなくなるかもしれない」
「そうでしょうね」
「人々から忌み嫌われることになるんだぞ」
「覚悟しております」
「リゼ!」
怒鳴られても、リゼは少しも怯まなかった。その様子に、アシェルは深く息を吐く。
「……理由を聞こう」
「あなたに呪いを贈りたいのです」
リゼは聖典を開いた。
神が授けた祝福は、神が定めた運命そのもの。それを覆すには、運命を歪める呪いが必要となる。
ただし、神の加護を受ける者は、神の祝福を否定することができない。
「私は生まれながらにして神様の祝福を受けています。ですから、今のままではあなたを呪えません」
「……それで、堕天するというのか」
「ええ」
「馬鹿なことを」
アシェルは吐き捨てた。
「私のために、お前がそこまでする必要はない」
「でも、あなたは死にたいのでしょう?」
その問いに、アシェルは口を閉ざした。
かつてなら、迷わず頷けたはずだった。
千年ものあいだ、朝が来るたびに絶望してきた。今日こそ死ねるのではないかと願い、また生き延びてしまったことに落胆した。
死こそが、彼の唯一の望みだった。
けれど、今は違う。
「……お前と出会う前ならば、喜んで頼んだだろうな」
アシェルは静かに言った。
「だが、私はもう、死にたいとは思わない」
リゼは目を見開いた。
「そうなの?」
「ああ」
アシェルは彼女を見つめた。
「明日もお前に会いたい。来年も、十年後も。できることなら、お前が年老いるまで傍にいたい」
その声は、わずかに震えていた。
「私は、生きたいと思ってしまったんだ」
リゼは何も言わなかった。アシェルは苦しげに笑う。
「おかしな話だろう。永遠に生きられるというのに、今さら生きたいと願うなんて」
「……いいえ」
リゼは首を横に振った。
「とても嬉しいわ」
彼女はアシェルの手を取った。
「でもね、私があなたに贈りたいのは、死そのものではないの」
「……どういう意味だ」
「いつか死ねる未来よ」
リゼは穏やかに微笑んだ。
「私、あなたと一緒に年を取りたいの。おじいさんになったあなたを見てみたいし、二人で皺の数を数えたいわ」
「リゼ……」
「もちろん、死ぬのは怖いわ。でも、死ねないことを恐れながら生きるより、あなたと明日を楽しみにしながら生きたいの」
アシェルは黙って彼女を見つめていた。リゼは言葉を続ける。
「あなたが私より先に死んでしまうかもしれないし、私があなたを残して逝くかもしれない。それは誰にもわからないでしょう?」
「……ああ」
「でも、それは人間の夫婦だって同じだわ」
リゼはふわりと笑った。
「私たちも、そんな普通の夫婦になれたら素敵だと思わない?」
アシェルは答えられなかった。
普通の夫婦。当たり前に年を取り、いつか死ぬことのできる二人。それは彼が遠い昔に諦めた未来だった。
「だが、お前が失うものは大きすぎる」
「そうね」
「神殿での暮らしも、奇跡を起こす力も、聖女としての名誉も。すべて捨てることになる」
「ええ」
「それでもいいと言うのか」
リゼは少し考えた。
「……寂しくはなるでしょうね」
彼女は正直に答えた。
「神殿で育てられた私にとって、あそこは家みたいなものだもの。院長様とも、修道女のみんなとも、離れたくはないわ」
「ならば、やめておけ」
「でも」
リゼは彼の手を握り直した。
「あなたと生きることも、諦めたくないの」
アシェルは深く息を吐いた。
「私が頼んだわけではないぞ」
「ええ、存じております」
「私のために犠牲になるつもりなら、やめてくれ」
リゼは彼を見つめた。そして、少しだけ怒ったように眉を寄せた。
「アシェル。私はあなたの持ち物ではないわ」
「……何?」
「あなたのために何かを捨てるかどうかは、私が決めることよ」
その言葉に、アシェルは息を呑んだ。
「あなたを愛することも、神様に背くことも、全部私が決めたの。だから、あなたが私に命じたことだなんて、思わないで」
リゼは微笑んだ。
「ただし、あなたの命のことは、あなたが決めてちょうだい」
アシェルは長い間、黙っていた。
かつて神は、彼に永遠の命を与えた。それが幸福であると信じ、彼の拒絶を受け入れなかった。
そして今、リゼは彼に死を与えようとしている。
けれど彼女は、それを自分で決めろと言うのだ。
愛しているからこそ、その命を自分のものにはしないのだと。
「……リゼ」
「はい」
「もし、私がこのままでいいと言ったら?」
リゼは一度だけ目を伏せた。
「そのときは、呪いを贈るのをやめるわ」
「お前は、それでも私を愛してくれるのか」
「もちろん」
彼女は微笑んだ。
「あなたがどちらを選んでも、私があなたを愛していることは変わらないもの」
アシェルは目を閉じた。
神は彼を愛していた。その愛は、決して偽りではなかった。
だが、目の前の娘が与えてくれる愛は、神のそれとはまったく違っていた。
「……リゼ」
「はい」
「私も、お前と年を取りたい」
リゼの瞳が揺れた。
「いつか共に死ねる命を、自分の意思で選ぼう」
「本当に?」
「ああ。ただし、ひとつ約束してくれ」
「何かしら」
「お前が後悔するようなことがあれば、必ず私に話せ。私も、お前に隠し事はしない」
リゼは嬉しそうに笑った。
「ええ、約束するわ」
アシェルは彼女を抱き寄せた。
「それから、もうひとつ」
「まあ、まだあるの?」
「私と結婚してくれるか」
リゼは目を丸くした。
それから、くすくすと笑い始めた。
「それは以前、私からお願いしたでしょう?」
「今度は私から言いたかったんだ」
「では、喜んで」
彼女はアシェルの首に腕を回した。
「よろしくお願いいたします、未来の旦那様」
アシェルは笑って、彼女に口づけた。
こうして二人は、自らの意思で未来を選んだ。
神に与えられた永遠ではなく、いつか終わりの訪れる人生を。
その選択が、天上ではどれほど恐ろしい罪とされようとも。
リゼはもう、迷わなかった。
私の愛は悪へと染まる。
それでも、あなたと生きられるのなら。
私は喜んで、その罪を背負おう。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




