第四話 聖女の決意
疫病が落ち着いたのは、それから半月ほど後のことだった。
リゼはしばらく寝込んだが、幸い命に別状はなかった。
アシェルは神殿の施療院に協力し、古い時代に学んだ医術を用いて病人たちの治療を手伝った。
悪魔であることを知った修道女たちは初めこそ恐れていたが、彼が誰よりも熱心に患者を診る姿を見て、少しずつ警戒を解いていった。
院長の判断で、リゼは施療院の離れにある療養室へ移された。アシェルも看病のために滞在を許されたが、神殿の本堂へ近づかないことだけは約束させられた。
もっとも、彼にそんな余裕はなかった。
リゼの容態が回復してからも、その心配ぶりといったら、少々度が過ぎていた。
「もう熱は下がりましたわ」
「まだ顔色が悪い」
「食欲も戻りました」
「ならば、もっと食べろ」
「昨日からずっと寝ております」
「もう少し休め」
リゼは困ったように笑った。
「アシェル、私を寝台に縛りつけるおつもり?」
「必要ならば」
「まあ、恐ろしい悪魔ですこと」
そう言われて、アシェルはむっとした顔をした。けれど、彼女が楽しげに笑っているのを見ると、結局何も言えなくなってしまう。
看病をしている間、彼は何度も恐ろしい夢を見た。
リゼが死ぬ夢だった。
冷たくなった身体を抱き締め、どれほど名を呼んでも返事がない。そのたびに飛び起きて、療養室の隅に置いた寝台から彼女の呼吸を確かめた。
自分がこんなにも臆病だったとは知らなかった。かつて神に背いたときでさえ、これほどの恐怖は覚えなかったというのに。
「ねえ、アシェル」
リゼが彼の袖を引いた。
「手を握ってくださる?」
アシェルは黙って手を差し出した。リゼはその手を両手で包み込む。
「私、あなたに嫌われたのかと思っていたの」
「……すまなかった」
「どうして、急に会ってくださらなくなったの?」
アシェルは答えに迷った。だが、これ以上彼女を傷つけたくはなかった。
「怖かったんだ」
「何が?」
「お前を愛してしまうことが」
リゼは息を呑んだ。
アシェルは俯いたまま続けた。
「私は千年も生きてきた。数えきれないほどの者を見送り、そのたびに悲しんできた。もう誰も愛さないと決めていたんだ」
けれど、と彼は言った。
「お前が来るのを待つようになった。お前の声を聞きたいと思うようになった。お前が笑えば嬉しくて、泣けば胸が苦しくなる」
彼は自嘲するように笑った。
「こんな感情は、とうに忘れたと思っていたのにな」
リゼは何も言わない。
「だが、お前はいつか死ぬ。私を置いていく。私はまた、ひとりで生き続けなければならない」
アシェルは彼女の手を握り返した。
「だから、愛してはいけないと思った」
長い沈黙が落ちた。
やがて、リゼが小さく口を開いた。
「……ずるい方」
アシェルは顔を上げた。リゼは、泣きそうな顔で笑っていた。
「そんなことをおっしゃるなんて、ずるいわ」
「リゼ……」
「私だって、あなたが好きなのに」
彼女の声が震えた。
「あなたに会えない間、ずっと寂しかった。嫌われたのかと思って、何度も泣いたのよ」
アシェルは目を見開いた。
「……私を?」
「ええ」
「だが、私は悪魔だぞ」
「存じております」
「元は天使だったが、神に背いて堕ちた男だ」
「それも存じております」
「お前は聖女だろう」
「ええ。ですから、困っているのです」
リゼは少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。
「聖女が悪魔に恋をするなんて、神殿の先生方に知られたら叱られてしまうわ」
アシェルは思わず吹き出した。
「叱られるだけで済むと思っているのか」
「済まないでしょうね」
「ならば……」
「でも、好きになってしまったものは仕方がないでしょう?」
リゼは真剣な顔で言った。
「私はあなたを愛しています、アシェル」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
アシェルは長い間、彼女を見つめていた。そして、そっとその額に口づけた。
「……私も、お前を愛している」
リゼは嬉しそうに微笑んだ。あまりにも美しい笑顔だったので、アシェルはもう一度、今度は唇に口づけた。
*
それからの二人は、以前にも増して一緒に過ごすようになった。
リゼは相変わらず聖堂へ通い、勝手に家具を増やし、アシェルのために菓子を焼いた。アシェルも彼女を町まで送るようになり、ときには施療院の仕事まで手伝った。
悪魔が施療院を手伝っていることは、神殿でもごく一部の者しか知らなかった。アシェルは角と翼を隠して訪れ、修道女たちも彼の正体を口外しなかった。
長い年月のうちに、彼は様々な国の医術を修めていたのである。その知識は、リゼにとっても興味深いものだった。
「あなたがいれば、神の奇跡に頼らなくても救える方が増えそうね」
「奇跡などなくても、人は病を治してきた」
「ええ。もっと教えてくださる?」
「お前が望むなら」
リゼは嬉しそうに笑った。
そんな日々が続いた、ある日のこと。
アシェルが本を読んでいると、リゼが隣に腰を下ろした。
「ねえ、アシェル」
「なんだ」
「私と結婚してくださる?」
アシェルは頁をめくる手を止めた。
「……何?」
「結婚したいの」
「誰と」
「あなた以外に誰がいるの?」
リゼは不思議そうに首を傾げた。アシェルは本を閉じた。
「お前は聖女だぞ」
「ええ」
「私は悪魔だ」
「ええ」
「神殿が許すはずがない」
「そうでしょうね」
「ならば、なぜ」
「だって、あなたと家族になりたいのですもの」
リゼは当然のことのように答えた。
「毎朝一緒に目を覚まして、同じ食卓で食事をして、夜にはおやすみなさいと言いたいの」
彼女は指を折りながら続ける。
「春には花を植えて、夏には海へ行って、秋には葡萄を摘んで、冬には暖炉の前で本を読むの。素敵でしょう?」
アシェルは何も言えなかった。
彼女が語る未来は、あまりにもありふれていた。けれどそれは、彼には決して手に入らないと思っていた幸福でもあった。
「……私は年を取らない」
アシェルは静かに言った。
「お前が年老いても、私はこの姿のままだ」
「ええ」
「お前が死んでも、私は生き続ける」
「……ええ」
「いつかは、お前の顔も声も忘れてしまうかもしれない」
リゼは黙った。
「それでもいいのか」
問いかけに、リゼはすぐには答えなかった。やがて、彼の手を取った。
「よくはないわ」
アシェルは息を呑んだ。
「私だって、あなたと一緒に年を取りたいもの。おじいさんになったあなたが、どんなお顔をなさるのか見てみたいわ」
リゼは微笑んだ。
「でも、あなたが死ねないからといって、愛することを諦めたくはないの」
「リゼ……」
「だから、考えましょう?」
「何を」
「二人で幸せになる方法を」
アシェルは困ったように笑った。
「そんなものがあると思うか」
「わからないわ」
リゼは正直に答えた。
「でも、あなたは千年以上生きていらっしゃるのでしょう? それに、私も聖女として色々なことを学んできたのよ」
「……そうだな」
「二人で探せば、ひとりで探すより見つかりやすいと思わない?」
アシェルは彼女を見つめ、それから、そっと抱き寄せた。
「お前には敵わないな」
リゼは満足そうに笑った。
*
それからリゼは、神殿の書庫へ通うようになった。
古い聖典を調べ、神の祝福について学び直す。
神殿の奥には、初代の聖女が書き残したとされる古い神学書があった。
神の奇跡だけでなく、祝福と呪いの本質についても論じられた書物である。難解なうえに神殿の教えとは異なる解釈も記されていたため、歴代の聖女と院長にしか閲覧が許されていなかった。
リゼは何日もかけて、その書物を読み解いた。
そして、ある一節に目を留めた。
祝福とは、神が定めた運命である。呪いとは、その運命を歪める力である。
リゼは息を呑んだ。
祝福と呪いは、対をなす。
神が与えた運命を覆すには、それに匹敵する力を持つ呪いと、祝福を受けた者自身の意思が必要になる。
さらに読み進めると、祝福には二つの在り方があると記されていた。
一つは、神に仕える者に授けられる加護。聖女の奇跡がこれにあたり、本人が神への誓いを解くことで返すことができる。
もう一つは、魂そのものに刻み込まれた祝福。
こちらは神の意志によって定められた運命であり、受けた者が拒むだけでは消えない。
アシェルの永遠の命は、間違いなく後者だった。
しかし、その祝福も絶対ではないという。
神の加護を離れた者による呪いが、祝福を受けた者自身の意思と結びついたとき、運命が変わることがある。
つまり、神に愛されたアシェルを救う方法が、存在するのだ。
リゼは何度も頁を読み返した。
そこには、さらに恐ろしいことが記されていた。
神から特別な役目や加護を授かった魂が、自ら神の秩序を拒絶すれば、その魂は天上の理から外れる。
それが、堕天だった。
神に仕える天使は、悪魔となる。
そして、人間として生まれた聖女であっても、神と結ばれた誓いを拒めば、その魂は悪魔へと変わる。
ただし、一度堕天した者は、二度と以前と同じ祝福を受けることはできない。
リゼは書物を閉じた。
窓の外には、穏やかな陽光が降り注いでいる。遠くから、子供たちの笑い声が聞こえた。
神殿で過ごした日々は、決して不幸なものではなかった。神に愛され、多くの人々を癒やし、感謝されてきた。
院長も、修道女たちも、彼女にとって大切な人々だった。
そのすべてを、捨てることになるかもしれない。
リゼはしばらく考え込んだ。そして、アシェルの顔を思い浮かべた。
死にたいと願い続けた、孤独な悪魔。
愛する者を失うことを恐れ、涙を流した男。
あの人を、救いたい。
できることなら、自分と同じように年を取らせてあげたい。春が来るたびに喜び、冬が来るたびに寒いと笑い、いつか二人で白髪になりたい。
そして人生の終わりが訪れたときには、互いの手を握って、幸せだったねと笑い合いたい。
けれど、それは自分ひとりで決めてよいことではなかった。
神がアシェルに永遠の命を与えたとき、彼の望みを聞かなかったように。
自分もまた、愛の名のもとに、彼の運命を勝手に変えてしまうわけにはいかない。
リゼは聖典を胸に抱いた。
まずはアシェルに話そう。
そして、あの人が望むのなら。
私は喜んで、悪魔になろう。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




